人を幸せにする人になろう

5月6日、和歌山で田起こし

◆田植えと稲刈りは何年かやってきたが、今回は田に水を入れる前に田をトラクターで耕すことを初めて経験する。が、今年は故あって田44fb55e5.JPG圃は作らないのだそうだ。さらに水を張ってから、再び全面的に耕すのだという。あっという間に終わり、物足りない。1日中、なんぼでも耕したいところである。
◆ということでGWが暮れた。4月27日以来の今年のGW、10日あったが、6日は測量、2日は大学で仕事、1日は松阪、最終日は農作業(といってもたいしたことはない)、という次第でした。
 

八雲神社

◆帰りに寄ったのだが、由緒等はWEBではよくわかりませんでした。6d530e3e.JPG
 

松阪商人の館

◆以下WEB。


◆江戸時代の流通経済の分野で、中心的な役割を担い、めざましい活躍をしたのが伊勢商人と近江商人であった。伊勢の8f1d5084.JPG国出身の商人は、他国の人から「伊勢商人」と呼ばれ、17世紀初期から江戸、大阪、京都の三大都市へ盛んに進出した。中でも徳川家が幕府を置き、近世最大の都市に発展した江戸へは、他国の 商人に先駆けていち早く出店し、徳川第5代将軍・綱吉のころともなれば「江戸に多きもの伊勢屋・・・」という俗語さえ流行した。また、他国の商人からは「近江泥棒、伊勢乞食」と陰口されるほど、近江商人と共に 際立った存在であった。伊勢商人の営む江戸店の特徴は、その経営組織にある。店を取り仕切っていたのは、支配人や番頭などの幹部従業員で、経営者である主 人は伊勢の本家から江戸店の経営に目を光らせながら、収益を得て、遊芸や文化と趣味の世界を大いに楽しんでいたようだ。江戸店は、本家とは区分された独立 採算の経営体となっており、その利益は毎年本家に上納されていた。このような経営組織を支えたのは、江戸店独特の雇用形態である。支配人から丁稚に至るま で、ほとんどの店員が伊勢の国出身者であり、地縁で結ばれた家族制度的な職場であった。江戸時代に本家が伊勢の国にあり、江戸をはじめとする都市に店を持ち、店員が伊勢出身者である企業体  これが伊勢商人の定義である。
◆伊勢商人の江戸店は、日本橋(東京都中央区)周辺に集中しており、その数は約50店にも達した。この伊勢商人の出身34f65a68.JPG地を地域別に見ると松 阪、相可(多気郡多気町)、津、射和(松阪市)、若松(鈴鹿市)などが挙げられるが、出身地別に分類すると櫛田川流域グループ、松阪グループ、津藩グルー プ、白子港グループの4つにまとめられる。
◆松阪。三井家、小津家、長谷川家など、多くの豪商を輩出した松阪は、伊勢商人の第二のふるさとである。松阪城を築城した蒲生氏 郷は、ふるさと近江日野から商人を呼び寄せ、楽市楽座を設けて商業を保護し、商都・松阪の基礎を築いた。そして、粋好みの江戸庶民に大いにもてはやされた 松阪木綿は衣料革命を巻き起こし、それを扱う松阪商人は隆盛を極めた。特に三井家の創始者・三井高利は、松阪木綿の呉服商「越後屋(後の三越百貨店)」を 営み、三井財閥の基を築いた人物である。現金掛値なしの店頭販売という、当時としては画期的な手法で売り上げを伸ばし、井原西鶴の『日本永代蔵』の中でも 大商人の手本として称賛されている。天正16(1588)年、戦国時代の武将、蒲生氏郷により開かれた松阪の城下は、江戸時代になると商人の町として大いに栄えました。主に松阪木綿を扱う豪商は、江戸時代前期にいちはやく江戸(あるいは京・大阪)に店を構えましたが、その商品は粋好みの江戸っ子たちにもてはやされ、年間五十数万反d787f135.JPG(当時の江戸の人口の半分)の売り上げを誇ったといわれています。 


◆で、松阪商人の館というのがある。以下、これもWEB


江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しているものです。展示品の中には「千両箱」ならぬ「万両箱」もあり、その広い屋敷はまさに「江戸店持ち伊勢商人」の風格を感じさせます。


◆写真は、上から牛銀(好き焼き屋)、途中で入った茶店、コロッケを買った肉屋。

松阪市歴史民俗資料館と市民病院

◆城跡を眺めると、むこうにえらいデッカイ現代の建築物がある。そのうちの1棟は高さもあって目立つ。はっきり言って、城跡96266fc3.JPGの景観にそぐわない異質なもの。あれはいったい何だと思ったら、市民病院でした。まとまった市有地はここしかないんでしょうか。昔から現在地にあったのでしょうね。城下町の遺構との関係はよく知りませんが、たぶん記録保存なんだろうと思う。城跡の整備をしつつ、一方では病院の建て替えでゴッツイビルを建ててしまうことの違和感を感じる。
◆松阪市立歴史民俗資料館は、古い図書館を利用した資料館で、企画展もやっていた。本居宣長は目玉ではあろうが、そっちは財団法人が運営する記念館があるわけだが、松阪の歴史と文化は別に本居宣長だけではない。そうした市の歴史と文化を語るには、いまの歴史民俗資料館は十分ではない。建物そのものはいいのだが、手狭だし、使い勝手も悪いだろう。望ましいのは、この古い移築した図書館を敷地内で活かしつつ、別に資料館本体ができればいいのだろうが、なかなか土地もなく、古い資料館のままということなのだろう。その一方で、病院はごっつい。
 

本居宣長旧宅

◆城跡の一画に本居宣長旧宅がある。1909年に保存のために移築したのだという。移築前の跡地(写真)とともに特73e0e106.JPG別史跡なんだと。国学者って、やっぱり偉いんだ(皮肉ですよ)。小津家と改姓し、木綿問屋として豪商の家柄だったのだそうだ(小津安二郎はこの家系なのだそうな)。が、宣長の世代で家運は傾き始め、義兄の死後、宣長は小津家を継いだものの、商いはやめ、氏名を祖先の本居に戻し、町医者を営むかたわら『古事記伝』の執筆をはじめとする日本古典の研究に取り組んだということである。で、この旧宅は、子孫が明治時代まで居住していたが、1905年に宣長に従三位が追贈されると保存の気運が高まり、1909年に鈴屋遺蹟保存会の手によって松坂城二の丸跡地に移築し、宣長当時の姿に復元されたのだという。で、全体を本居宣長記念館というそうで、遺品等の資料など1949点が重要文化財になっているんだと。
◆入ってもよかったのですが、入りませんでした。400円だそうです(そんな高くはないですね)。そこそこ城には人が来ているんだけれども、この旧宅に金を払って入る人は少ないように思った。古事記を研究するなど、偉い人なんだろうけれども、明治以来、祭り上げたのだろうが、今の人はどこまで関心があるのか疑問。カミさんは、無料にして寄付金箱を置くのがいいのではないかという。それはともかく、古い町屋でも、むろんいま生活している人がいるなら別だが、そうでないものについて、残すだけではなく、人に入ってもらったり使ってもらうようにした方がいいのだろう。宣長の旧宅は一部を公開しているに留まるという。そんなに大事に大事にして残すことそのものが重要なのだろうか。
◆構造物のない城跡のなかで、移築建物があり、資料を見せる展示施設があるのは、ひとつの材料ではあるが、極論を言えば、条件が許せば、再度、元の場所に戻すのがいいのではないか。
 

松阪城

◆長らく県史跡で、国史跡になったのは平成24年というから、こないだの話なんですね。修復などの必要な手も加えて、いまbec4c731.JPG見える石垣はけっこう見応えがあります。天守をはじめ櫓など復元されたものはなく、石垣だけ8c7a943e.JPGで、まさに城跡といったところだが、けっこうこれだけでいい雰囲気である。
◆そこそこ人はいた。が、あんまり滞在時間は長くはないかも。和歌山藩領で城代が派遣されていたというから、ひとつの藩の本拠としての城でなく、どっちかというと名だたる商人のいた町の方が中心といえるのかもしれません。
◆どこまで発掘調査をしているのか知りませんが、多少、遺構の写真とかを使った説明板みたいなものを配置して、城の説明を加えてもいいのではないだろうか。
◆ちなみに、石垣って怖いですよね。とくに小さい子供がいると。やっぱりへりに柵がいるのではないか。
 

松阪神社

◆ウィキによれば、式内社なんですね。「延喜式神名帳に記される「伊勢国飯高郡 意悲神社」の後裔社とされる。創建の年代b10f533a.JPGは不詳であるが、古くからこの地に鎮座し、国司の飯高氏が産土神として崇敬した。天正16年(1588年)、蒲生氏郷が当社の森(意悲の森)に松阪城を築城して当社を城の鎮守とし、八幡神を合祀した。」、だそうである。
◆が、もともとの場所なのではないのかもしれませんね。社殿も新しく、なんかありがたみがなかった。松阪神社の隣に本居神社というのもある。神さんになったのね。これもウィキでは、「松阪発祥の生地、四五百(よいほ)の森。本居宣長ノ宮は常緑樹が繁るこの森厳な森に包まれるようにして鎮座しています。本居大人奥墓がある旧山室村からこの森に遷座したのが大正4年。ながく本居神社として親しまれてきましたが、平成7年社号を本居宣長ノ宮と改称。」、だそうである。隣に会館があるが、自民党なんでしょうね、ポスターが貼ってある。むろん、こんなお宮に参ることはありません。で、神社に行くために迂回して城に入ったわけですが、大手口の正面あたりの城代?屋敷がいいみたですよ。
 

松阪の町

◆近江もだが、伊勢もけっこう小麦?を植えている。青々と麦が育っている。9:45くらいに家を出て、12時過ぎに着いたのではなかったか。松阪は、下の娘が大阪に来るときに、レンタカーで引っ越し荷物を積みつつ、登呂遺跡やら御前崎などを見ながら西に向かdb05c59b.JPGい、伊良湖崎からフェリーで鳥羽406c9cd4.JPG港に入り、松阪で味噌煮込みうどんを食べたのが1回。近鉄の1日乗車券で志摩に遊びに行った帰り、夜の特急を押さえた上で、駅前の飲み屋に入り、牛肉を食べたのが2回目(確かに松阪で肉を食べた)。むろん、宝塚1号墳に行ったりしたのは別に何度かある。
◆なにも調べていないが、松阪といえば本居宣長。で町並み歩きをしようという企画。駅について地図を見て、城下町なんだということを知る(無知)。で、資料館や看板や冊子やら、どこもかしこも、蒲生氏郷が築城したと・・・。冊子を見たら、松ヶ島城があったものを、場所を変えて新たに突貫工事で築城し、けっこう逃げ出した農民もいたようなことも書いてある。氏郷自身はそのあと会津若松に転封になり、40才で死んだのだそうである(京都の墓の改修のため掘り出されたとも)。で、江戸時代はずっと和歌山藩領という。このへんが近世のわからんところですね。人口16万7000人という(伊賀市9万5000人よりかなり多い)。
◆なんとなく、伊賀上野と似た雰囲気を感じた。城下町で江戸時代には栄え、近代に鉄道が通り、駅前が新しい町として発展する。1980年代くらいまではけっこう栄えたのだろうが、いまは駅前が寂れている様子。でも、城跡をはじめ城下町に地元の人を含めて観光客はそこそこおり、またなんといっても松阪牛、牛銀と和田金という、好き焼き屋はかなり繁盛している様子でした。また古い町屋を利用した8bd06650.JPGしゃれた店やカフェや、おみやげ物屋もかなりあって雰囲気はある。われわれも松燈庵というところでお昼をいただきました。予21363638.JPG約でほとんど埋まっていて、カウンターでいいですかと言われて案内されたが、ちょっと席の問題があって、結局、2階の座敷でゆっくりとすることができた。これ城下町の一画なんだが、古い建物を利用した人気の店みたいですよ。われわれはタマタマの偶然ではあるが。
◆なかなか古い町並みといえるような、ある程度長く続くのは限られた一画ではあるが、単体の古い家屋はそこここに残っている。だいぶ新しい家になってしまい、そこが惜しいが、城下町、伊勢商人の町というもので、いま残っているものを大事にしながら、町おこしはできるだろう。いちばんいい雰囲気の城代?屋敷のところは、ちょっと迂回して城に行った関係で見逃した(残念、それと、はにわ館も。また出直そう)。
 

5月3日、松阪へでかける

◆GW中の休み。カミサンと松阪へ出かける。予想通り、特急はだいたい満席で、帰りの特急券を買った上で、行きは急行にする。2時間caec6776.JPG強かかる。が、天気よく、田植えの風景をながめながら楽しく旅をする。牡丹祭り?で長谷寺に臨4120189e.JPG時停車する。
◆榛原、名張、桔梗が丘、伊賀神戸・・・。青山高原の長いトンネル、西青山を抜け、長いトンネルを越え東青山に出ると伊勢なんだろう。東青山駅の前が「四季のさと」という公園。国分駅から急行に乗ったとき、同じ車両に乗っていた子供二人連れの家族は、ここで降りていった。大阪からなんでしょうね。また、モンベルの登山衣装を着たかっこいい女性がいたが、たぶん彼女は御在所岳に登るんだろうな~、と想像。榊原温泉口のところでは、ミロのビーナス、サモトラケのニケ、自由の女神など、へんてこりんな銅像の建つ施設があった。調べてみると、ルーブル彫刻美術館というものらしい。
◆伊勢中川で乗り換え。グーグルマップを見ていると、平行してJR名松線というのが走っている。これ、一度、乗ってみなきゃいけませんね。
 

久津川車塚5月5日

◆【岸本・道上・小川・中村・松原・松本・木浦・左海・濱中、9:30-17:30】045ad573.jpg
◆道上チーム(道上・小川・中村+松松コンビ)は、後円部墳頂のP6から、後円部上段斜面を測10c048b0.JPGり下ろす。3回生以上のチームで、基本的に任せっきりにしたが、わいわいがやがや言いながら、想像以上に、墳頂の樹木が多いなか、稼いでくれました。
◆実習生チームは、木浦・左海・浜中で、前方部西側面を下ろし、ほぼ上段裾までたどり着く。基本的にこっちにいたが、実習生もすぐに慣れ、何もしなくても進めてくれる。
◆このGWの陣はこれにて終了。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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