人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
松阪商人の館
◆以下WEB。
◆江戸時代の流通経済の分野で、中心的な役割を担い、めざましい活躍をしたのが伊勢商人と近江商人であった。伊勢の国出身の商人は、他国の人から「伊勢商人」と呼ばれ、17世紀初期から江戸、大阪、京都の三大都市へ盛んに進出した。中でも徳川家が幕府を置き、近世最大の都市に発展した江戸へは、他国の 商人に先駆けていち早く出店し、徳川第5代将軍・綱吉のころともなれば「江戸に多きもの伊勢屋・・・」という俗語さえ流行した。また、他国の商人からは「近江泥棒、伊勢乞食」と陰口されるほど、近江商人と共に 際立った存在であった。伊勢商人の営む江戸店の特徴は、その経営組織にある。店を取り仕切っていたのは、支配人や番頭などの幹部従業員で、経営者である主 人は伊勢の本家から江戸店の経営に目を光らせながら、収益を得て、遊芸や文化と趣味の世界を大いに楽しんでいたようだ。江戸店は、本家とは区分された独立 採算の経営体となっており、その利益は毎年本家に上納されていた。このような経営組織を支えたのは、江戸店独特の雇用形態である。支配人から丁稚に至るま で、ほとんどの店員が伊勢の国出身者であり、地縁で結ばれた家族制度的な職場であった。江戸時代に本家が伊勢の国にあり、江戸をはじめとする都市に店を持ち、店員が伊勢出身者である企業体
これが伊勢商人の定義である。
◆伊勢商人の江戸店は、日本橋(東京都中央区)周辺に集中しており、その数は約50店にも達した。この伊勢商人の出身地を地域別に見ると松 阪、相可(多気郡多気町)、津、射和(松阪市)、若松(鈴鹿市)などが挙げられるが、出身地別に分類すると櫛田川流域グループ、松阪グループ、津藩グルー プ、白子港グループの4つにまとめられる。
◆松阪。三井家、小津家、長谷川家など、多くの豪商を輩出した松阪は、伊勢商人の第二のふるさとである。松阪城を築城した蒲生氏 郷は、ふるさと近江日野から商人を呼び寄せ、楽市楽座を設けて商業を保護し、商都・松阪の基礎を築いた。そして、粋好みの江戸庶民に大いにもてはやされた 松阪木綿は衣料革命を巻き起こし、それを扱う松阪商人は隆盛を極めた。特に三井家の創始者・三井高利は、松阪木綿の呉服商「越後屋(後の三越百貨店)」を 営み、三井財閥の基を築いた人物である。現金掛値なしの店頭販売という、当時としては画期的な手法で売り上げを伸ばし、井原西鶴の『日本永代蔵』の中でも 大商人の手本として称賛されている。天正16(1588)年、戦国時代の武将、蒲生氏郷により開かれた松阪の城下は、江戸時代になると商人の町として大いに栄えました。主に松阪木綿を扱う豪商は、江戸時代前期にいちはやく江戸(あるいは京・大阪)に店を構えましたが、その商品は粋好みの江戸っ子たちにもてはやされ、年間五十数万反(当時の江戸の人口の半分)の売り上げを誇ったといわれています。
◆で、松阪商人の館というのがある。以下、これもWEB
江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しているものです。展示品の中には「千両箱」ならぬ「万両箱」もあり、その広い屋敷はまさに「江戸店持ち伊勢商人」の風格を感じさせます。
◆写真は、上から牛銀(好き焼き屋)、途中で入った茶店、コロッケを買った肉屋。
松阪市歴史民俗資料館と市民病院
◆松阪市立歴史民俗資料館は、古い図書館を利用した資料館で、企画展もやっていた。本居宣長は目玉ではあろうが、そっちは財団法人が運営する記念館があるわけだが、松阪の歴史と文化は別に本居宣長だけではない。そうした市の歴史と文化を語るには、いまの歴史民俗資料館は十分ではない。建物そのものはいいのだが、手狭だし、使い勝手も悪いだろう。望ましいのは、この古い移築した図書館を敷地内で活かしつつ、別に資料館本体ができればいいのだろうが、なかなか土地もなく、古い資料館のままということなのだろう。その一方で、病院はごっつい。
本居宣長旧宅
◆入ってもよかったのですが、入りませんでした。400円だそうです(そんな高くはないですね)。そこそこ城には人が来ているんだけれども、この旧宅に金を払って入る人は少ないように思った。古事記を研究するなど、偉い人なんだろうけれども、明治以来、祭り上げたのだろうが、今の人はどこまで関心があるのか疑問。カミさんは、無料にして寄付金箱を置くのがいいのではないかという。それはともかく、古い町屋でも、むろんいま生活している人がいるなら別だが、そうでないものについて、残すだけではなく、人に入ってもらったり使ってもらうようにした方がいいのだろう。宣長の旧宅は一部を公開しているに留まるという。そんなに大事に大事にして残すことそのものが重要なのだろうか。
◆構造物のない城跡のなかで、移築建物があり、資料を見せる展示施設があるのは、ひとつの材料ではあるが、極論を言えば、条件が許せば、再度、元の場所に戻すのがいいのではないか。
松阪城
◆そこそこ人はいた。が、あんまり滞在時間は長くはないかも。和歌山藩領で城代が派遣されていたというから、ひとつの藩の本拠としての城でなく、どっちかというと名だたる商人のいた町の方が中心といえるのかもしれません。
◆どこまで発掘調査をしているのか知りませんが、多少、遺構の写真とかを使った説明板みたいなものを配置して、城の説明を加えてもいいのではないだろうか。
◆ちなみに、石垣って怖いですよね。とくに小さい子供がいると。やっぱりへりに柵がいるのではないか。
松阪神社
◆が、もともとの場所なのではないのかもしれませんね。社殿も新しく、なんかありがたみがなかった。松阪神社の隣に本居神社というのもある。神さんになったのね。これもウィキでは、「松阪発祥の生地、四五百(よいほ)の森。本居宣長ノ宮は常緑樹が繁るこの森厳な森に包まれるようにして鎮座しています。本居大人奥墓がある旧山室村からこの森に遷座したのが大正4年。ながく本居神社として親しまれてきましたが、平成7年社号を本居宣長ノ宮と改称。」、だそうである。隣に会館があるが、自民党なんでしょうね、ポスターが貼ってある。むろん、こんなお宮に参ることはありません。で、神社に行くために迂回して城に入ったわけですが、大手口の正面あたりの城代?屋敷がいいみたですよ。
松阪の町
◆なにも調べていないが、松阪といえば本居宣長。で町並み歩きをしようという企画。駅について地図を見て、城下町なんだということを知る(無知)。で、資料館や看板や冊子やら、どこもかしこも、蒲生氏郷が築城したと・・・。冊子を見たら、松ヶ島城があったものを、場所を変えて新たに突貫工事で築城し、けっこう逃げ出した農民もいたようなことも書いてある。氏郷自身はそのあと会津若松に転封になり、40才で死んだのだそうである(京都の墓の改修のため掘り出されたとも)。で、江戸時代はずっと和歌山藩領という。このへんが近世のわからんところですね。人口16万7000人という(伊賀市9万5000人よりかなり多い)。
◆なんとなく、伊賀上野と似た雰囲気を感じた。城下町で江戸時代には栄え、近代に鉄道が通り、駅前が新しい町として発展する。1980年代くらいまではけっこう栄えたのだろうが、いまは駅前が寂れている様子。でも、城跡をはじめ城下町に地元の人を含めて観光客はそこそこおり、またなんといっても松阪牛、牛銀と和田金という、好き焼き屋はかなり繁盛している様子でした。また古い町屋を利用した
◆なかなか古い町並みといえるような、ある程度長く続くのは限られた一画ではあるが、単体の古い家屋はそこここに残っている。だいぶ新しい家になってしまい、そこが惜しいが、城下町、伊勢商人の町というもので、いま残っているものを大事にしながら、町おこしはできるだろう。いちばんいい雰囲気の城代?屋敷のところは、ちょっと迂回して城に行った関係で見逃した(残念、それと、はにわ館も。また出直そう)。
5月3日、松阪へでかける
◆榛原、名張、桔梗が丘、伊賀神戸・・・。青山高原の長いトンネル、西青山を抜け、長いトンネルを越え東青山に出ると伊勢なんだろう。東青山駅の前が「四季のさと」という公園。国分駅から急行に乗ったとき、同じ車両に乗っていた子供二人連れの家族は、ここで降りていった。大阪からなんでしょうね。また、モンベルの登山衣装を着たかっこいい女性がいたが、たぶん彼女は御在所岳に登るんだろうな~、と想像。榊原温泉口のところでは、ミロのビーナス、サモトラケのニケ、自由の女神など、へんてこりんな銅像の建つ施設があった。調べてみると、ルーブル彫刻美術館というものらしい。
◆伊勢中川で乗り換え。グーグルマップを見ていると、平行してJR名松線というのが走っている。これ、一度、乗ってみなきゃいけませんね。