人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
宮本さんの話のまとめ
◆都市格というのは、人格と同様に、都市にも都市格があるというもので、この言葉は関一時代に使われたものだそうだ。
で、大阪都の話。大阪市がなくなるんですよと。大阪府が大阪都になると、大阪市や周辺は特別区に編成され、大阪市はなくなるんですよと。確かに大きな都市の場合、自治体の行政において市民の声が届きにくいことは事実で、大きな課題だが、特別区の編成とかとんでもない労力がかかる、それよりも住民の声が届きにくい現状に対し、欧米での住民協議会(決定権はないが予算の使い方などのかなりの権限をもたせるもの、らしい)などの仕組みを導入すべきだ、ということでした。もしやれば日本の地方自治のあり方として、画期的な試みになりますね。
◆それと市民運動が1990年代半ばで力を失ったと。声を上げよと。市大と府大の話も出た。統合案に対し、府大では反対する声があがっているが、むかし自分がいた市大からは声が上がらんではないか、とも。
◆前にも書いたが、どこぞの市長の話を思い出す。同じテーブルで食事をした。議会は市民の声を届ける機能を果たしていない。いらない、という話。そんな大きな市でないところは、もっと直接的に要望を集めることはでき、そういう声にもとづく行政は可能だ、という話だった。とはいえ、だからといって市長の権限が大きくなるのも危険だろう。たとえば現在の大阪市の場合、区に住民協議会を設け、そこで基本的な予算とかを議論する。そして各区長が大阪市の議会を構成し、最終的な議決を行う。現在の市会は不要、というのはどうだろうか。
◆それと市民運動が1990年代半ばで力を失ったと。声を上げよと。市大と府大の話も出た。統合案に対し、府大では反対する声があがっているが、むかし自分がいた市大からは声が上がらんではないか、とも。
◆前にも書いたが、どこぞの市長の話を思い出す。同じテーブルで食事をした。議会は市民の声を届ける機能を果たしていない。いらない、という話。そんな大きな市でないところは、もっと直接的に要望を集めることはでき、そういう声にもとづく行政は可能だ、という話だった。とはいえ、だからといって市長の権限が大きくなるのも危険だろう。たとえば現在の大阪市の場合、区に住民協議会を設け、そこで基本的な予算とかを議論する。そして各区長が大阪市の議会を構成し、最終的な議決を行う。現在の市会は不要、というのはどうだろうか。
吉田晶先生が亡くなられた
◆今日の集会の席で、吉田先生が先月の15日にお亡くなりになったという話が出た。知らなかった。関本さんからも(近
所)電話が入り、先月、奥様が12日に亡くなられ、3日後に先生が亡くなられたそうである。
◆吉田先生とお会いしたのはいつだったろう。岡山大学時代、考古学研究会の委員会だったか・・・。そのあとは大阪市大に来てから。最初は大阪歴史科学協議会の2005年4月の例会で、考古学の課題みたいな、漠とした話をしたとき(これ受けたけどしんどかったです。都出先生の話の要約みたいなもんで、恥ずかしい内容でした)。近藤義郎の議論をなんで取り上げないのか、ということを指摘された。そのあとすぐ、著書をお送りいただいた。表紙をめくると、2005年4月17日とサインをしていただいている(宝物にします)。
◆そして、前にも紹介した、大阪歴史科学協議会で2007年に集落の話をした時。この時もわざわざ顔を出していただき、それこそ郷の理解は違いますといったことを含め、発表に対して質問をいただいたことを覚えている。そのまま歴科協の忘年会に行ったか、店の前で帰られたか、とにかく店の前でも先生と話をした。話題は近藤先生だった。
◆ついで、2008年の大阪府の博物館問題がおこった際に、ご高齢の先生に声をかけさせていただき、発起人を引き受けていただいた。
◆そして同じ2008年5月、大阪市立大学日本史学会で講演をお願いした。この時すでに、まとまった発表をするのはこれが最後かもしれない、とご自身も言っておられたような気もする。当日は時間に関係なく、古代の戸籍の分析を進め、予定した終了時間になっても、用意したレジュメの半分に到達しておらず、途中で時間を聞いてあわてられたが、そのまま時間を気にせず話し切っていただくようお願いした。そして講演内容を翌年の『市大日本史』第12
号に書いていただいた時、編集担当として、原稿そして校正のやりとりした。先生の原稿、取っておくべきでしたね。いや、校正の時に返したような記憶もある。戸籍の手描きの原稿とか表とか、古代史の院生に頼みテキスト化し、B5版2段組40頁の大論文をものにすることができた。これが先生との最後のおつきあいになってしまいました(この時の手紙とかとっていないだろうか)。
◆元に戻すが、岡山で、北條さんとか大久保さんとか、考古の学生・院生と議論している姿を、まぶしく見ていたと思います。おなじ岡山大学にいて、考古学研究会の委員会とか例会があるというのもあるが、若い考古学徒の発表や意見やそういうものに耳を傾け、議論し話をする、やはり吉田先生の人柄によるところが大きいのでしょうが、そのように古代史の先生と話ができる岡山大学の人がうらやましいと思った記憶がある。
◆吉田先生とお会いしたのはいつだったろう。岡山大学時代、考古学研究会の委員会だったか・・・。そのあとは大阪市大に来てから。最初は大阪歴史科学協議会の2005年4月の例会で、考古学の課題みたいな、漠とした話をしたとき(これ受けたけどしんどかったです。都出先生の話の要約みたいなもんで、恥ずかしい内容でした)。近藤義郎の議論をなんで取り上げないのか、ということを指摘された。そのあとすぐ、著書をお送りいただいた。表紙をめくると、2005年4月17日とサインをしていただいている(宝物にします)。
◆そして、前にも紹介した、大阪歴史科学協議会で2007年に集落の話をした時。この時もわざわざ顔を出していただき、それこそ郷の理解は違いますといったことを含め、発表に対して質問をいただいたことを覚えている。そのまま歴科協の忘年会に行ったか、店の前で帰られたか、とにかく店の前でも先生と話をした。話題は近藤先生だった。
◆ついで、2008年の大阪府の博物館問題がおこった際に、ご高齢の先生に声をかけさせていただき、発起人を引き受けていただいた。
◆そして同じ2008年5月、大阪市立大学日本史学会で講演をお願いした。この時すでに、まとまった発表をするのはこれが最後かもしれない、とご自身も言っておられたような気もする。当日は時間に関係なく、古代の戸籍の分析を進め、予定した終了時間になっても、用意したレジュメの半分に到達しておらず、途中で時間を聞いてあわてられたが、そのまま時間を気にせず話し切っていただくようお願いした。そして講演内容を翌年の『市大日本史』第12
◆元に戻すが、岡山で、北條さんとか大久保さんとか、考古の学生・院生と議論している姿を、まぶしく見ていたと思います。おなじ岡山大学にいて、考古学研究会の委員会とか例会があるというのもあるが、若い考古学徒の発表や意見やそういうものに耳を傾け、議論し話をする、やはり吉田先生の人柄によるところが大きいのでしょうが、そのように古代史の先生と話ができる岡山大学の人がうらやましいと思った記憶がある。
黒田了一知事時代
◆以下、ウィキ。当時の革新首長のはしりでもあり、公害対策として画期的な政策を打ち出したという。
◆黒田了一知事(1911-2002)。1950年シベリア抑留から帰国、大阪市立大学法学部助教授に就任。憲法学を担当。1971年の大阪府知事選挙に日本社会党と日本共産党の支持を受けて、現職の左藤義詮に挑む形で立候補した。このとき、社共共闘がなかなかまとまらず、正式な出馬表明は告示日ぎりぎりまでずれこんだ。出馬にあたり社会党の亀田得治大阪府本部委員長と共産党の村上弘大阪府委員長と記者会見を行い、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気にくずれ、大阪の公害は深刻化し、世界の諸都市に先がけ大阪がゴーストタウンになる」と述べ、出馬表明を行った。前年に日本万国博覧会を成功させていた現職の左藤は「黒田という人は見たことも聞いたこともない」と発言、再選を確信していた。選挙戦で黒田は「大阪にきれいな空を取り戻そう」と公害・環境対策を訴え、左藤を破って当選、初の革新系大阪府知事となった。
◆1975年府知事選では、反黒田が強くなっていたが、大型開発よりも公害対策や福祉を重視した実績に府民の支持は厚く、共産党単独の推薦であったが各党の支持層に深く食い込み、45万票の大差で黒田が再選された。1979年の知事選では自民・新自クが中心となり、自治省出身で黒田の下で副知事を務めた岸昌を反黒田統一候補に担ぎ出していく。(中略)。結局、黒田は共産党と革新自由連合の推薦で再選を目指し、前回よりも18万票伸ばしながらも僅差で岸に敗れた。
◆オレの歴史時代としては、岸知事くらいから覚えがある。背格好も小さかったように思うが、いかにも小者という感じ(ぜんぜん漠とした印象ですよ)。で、やっぱり自治省の役人だったんですね。黒田知事時代に革新府政に対し国が副知事として送り込んだらしい(当然対立し岸は辞めたという)。それにしても、共産党とか社会党とか、同和とか・・・。
◆宮本さんの話に戻せば、黒田知事が公害対策に力を入れる一方、そうした経済成長の負の側面をふまえ、文化に力を入れないといかん、ということを打ち出したという。それがこの1970年代、全国に広がったという。博物館概論で文化政策の話をして、行政の文化化ということをオレなりに理解して話をするのに苦労をしたが、そういうことが言われるようになったのが70年代で、発信元は大阪だったということを知る。
◆黒田了一知事(1911-2002)。1950年シベリア抑留から帰国、大阪市立大学法学部助教授に就任。憲法学を担当。1971年の大阪府知事選挙に日本社会党と日本共産党の支持を受けて、現職の左藤義詮に挑む形で立候補した。このとき、社共共闘がなかなかまとまらず、正式な出馬表明は告示日ぎりぎりまでずれこんだ。出馬にあたり社会党の亀田得治大阪府本部委員長と共産党の村上弘大阪府委員長と記者会見を行い、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気にくずれ、大阪の公害は深刻化し、世界の諸都市に先がけ大阪がゴーストタウンになる」と述べ、出馬表明を行った。前年に日本万国博覧会を成功させていた現職の左藤は「黒田という人は見たことも聞いたこともない」と発言、再選を確信していた。選挙戦で黒田は「大阪にきれいな空を取り戻そう」と公害・環境対策を訴え、左藤を破って当選、初の革新系大阪府知事となった。
◆1975年府知事選では、反黒田が強くなっていたが、大型開発よりも公害対策や福祉を重視した実績に府民の支持は厚く、共産党単独の推薦であったが各党の支持層に深く食い込み、45万票の大差で黒田が再選された。1979年の知事選では自民・新自クが中心となり、自治省出身で黒田の下で副知事を務めた岸昌を反黒田統一候補に担ぎ出していく。(中略)。結局、黒田は共産党と革新自由連合の推薦で再選を目指し、前回よりも18万票伸ばしながらも僅差で岸に敗れた。
◆オレの歴史時代としては、岸知事くらいから覚えがある。背格好も小さかったように思うが、いかにも小者という感じ(ぜんぜん漠とした印象ですよ)。で、やっぱり自治省の役人だったんですね。黒田知事時代に革新府政に対し国が副知事として送り込んだらしい(当然対立し岸は辞めたという)。それにしても、共産党とか社会党とか、同和とか・・・。
◆宮本さんの話に戻せば、黒田知事が公害対策に力を入れる一方、そうした経済成長の負の側面をふまえ、文化に力を入れないといかん、ということを打ち出したという。それがこの1970年代、全国に広がったという。博物館概論で文化政策の話をして、行政の文化化ということをオレなりに理解して話をするのに苦労をしたが、そういうことが言われるようになったのが70年代で、発信元は大阪だったということを知る。
陶邑の発掘
◆大阪府企業局、堺の埋め立て、その土は泉北やわな。土取って、大阪湾を埋め立て工場にすると(ものすごい大気汚染だったという)。陶邑の発掘というのは、そういうわけだ。大阪が不幸なのは東京とならぶ都市やったからなんや。開発の時期が早く、かつ東京に遅れをとるまいとのスピード圧力が強かっただろうという意味。後発の方が、乱開発でなく、先行地域の成功や失敗もふまえつつ、議論して計画を立てられうるだろう。埋文が悪者にされることも、時代でだいぶ違うだろう。とはいえ、首都圏・阪神圏があってこその埋文行政の進展という側面も否定できないだろう。
◆陶邑の発掘については、石部先生からいろいろ話を聞くことがある。是非、石部先生には書き残しておいてほしいものである。田辺さんの時代か、大阪府がやり出した頃の話か。確認調査をやったら窯跡が露出すると、翌日行ったら重機で掘り返されているという話。窯と遺物がごちゃごちゃになった。それを採集せざるをえないが、窯ごとにきっちり遺物が分けられない状態になったものが驚くほど多いのだそうである。
◆いかに劣悪ななかで調査が行われたのか、われわれは知り得ない。どれだけ掘って、どれだけの遺物があるのかもあまり知らないが、わかりやすくファクトをまとめてほしいものである。
◆陶邑の発掘については、石部先生からいろいろ話を聞くことがある。是非、石部先生には書き残しておいてほしいものである。田辺さんの時代か、大阪府がやり出した頃の話か。確認調査をやったら窯跡が露出すると、翌日行ったら重機で掘り返されているという話。窯と遺物がごちゃごちゃになった。それを採集せざるをえないが、窯ごとにきっちり遺物が分けられない状態になったものが驚くほど多いのだそうである。
◆いかに劣悪ななかで調査が行われたのか、われわれは知り得ない。どれだけ掘って、どれだけの遺物があるのかもあまり知らないが、わかりやすくファクトをまとめてほしいものである。
211集会で宮本憲一の講演を聞く(2)
◆病没とともに実現しなかったことも多い。しかし、大阪は日本の最先端であった。
◆しかし、戦後、占領の時期、その後の高度経済成長時代、すべて国主導。明治期もそうだったが、戦後も急速な現
代化を国が主導して国土を開発する中で、大阪市は(あるいは大阪府は)、関一のように、大阪に必要なもの、ふさわしいものを、自分たちが考え実施することをしなかったと。どこでもそうかもしれないが。そしてすべては首都圏がリードする。阪神圏は、政治的にはともかく経済的な中心であったが、すべて首都圏に負けないように後を追ったと。宮本さんの言葉でいえば、「大阪の財界と大阪市・大阪府は、大阪ひいては近畿の独自の発展戦略を検討せず、時代に乗り遅れまいとして、東京の二番煎じの戦略を進めた」と。しかも、まあだいたいが失敗・・・
◆京浜工業地帯に加え京葉工業地帯の開発に対し、大阪府は企業局を作り、堺泉北の開発を進め、堺沖に埋め立て地を造成し工場を誘致する。東京オリンピックに対し、万博。成田に対して関空。つくばに対して京阪奈学研都市。TDLに対するUSJもそうだろう。堺の工場も原料を輸入して製品を輸出するもので、大阪の工場に一次加工品を供給し製品化するといった、大阪の産業を活性化させるものにはならなかったという。
◆梅棹忠夫の言葉がよい。大阪は経済だけじゃない学術文化の中心でもあったが、いまや「ゲスの町」になりさがったと。これ1970年代前半の発言という紹介だったと思う。もうひとつ、この梅棹の発言は、新幹線も通り、どんどん東京に吸収されていく、大阪は学術文化の拠点をつくるべし、というのが趣旨だった。万博跡地こそ、学研都市として、学術・文化の中枢をおくべきだったんでしょうね。で、逆に大阪市域から4年生大学を分散させた、と。このへんの実情は知らないが。
◆しかし、戦後、占領の時期、その後の高度経済成長時代、すべて国主導。明治期もそうだったが、戦後も急速な現
◆京浜工業地帯に加え京葉工業地帯の開発に対し、大阪府は企業局を作り、堺泉北の開発を進め、堺沖に埋め立て地を造成し工場を誘致する。東京オリンピックに対し、万博。成田に対して関空。つくばに対して京阪奈学研都市。TDLに対するUSJもそうだろう。堺の工場も原料を輸入して製品を輸出するもので、大阪の工場に一次加工品を供給し製品化するといった、大阪の産業を活性化させるものにはならなかったという。
◆梅棹忠夫の言葉がよい。大阪は経済だけじゃない学術文化の中心でもあったが、いまや「ゲスの町」になりさがったと。これ1970年代前半の発言という紹介だったと思う。もうひとつ、この梅棹の発言は、新幹線も通り、どんどん東京に吸収されていく、大阪は学術文化の拠点をつくるべし、というのが趣旨だった。万博跡地こそ、学研都市として、学術・文化の中枢をおくべきだったんでしょうね。で、逆に大阪市域から4年生大学を分散させた、と。このへんの実情は知らないが。
211集会で宮本憲一氏の講演を聞く(1)
◆1965~1993年まで大阪市大商学部におられたんですね。でそのあと立命に出たと。なんで出たんでしょうね、出して
しまったんでしょうね。それはともかく、まずは関一の話から。関一の話もあいまいな知識しかなかったが。
◆近代大阪市の市政は、近代化がもたらす富にたかる乱脈な市政だったのだそうだ。それをまともにしたのが、会津出身の池上四郎市長だったと。その池上が社会政策学会に人を求め、ただちに名前があがったのが関一で、ラブコールの末、大阪市助役となる。関は一橋の一流学者で、三羽ガラスの一人だったが、一橋を帝大に昇格させる運動の中心にもいたが、二度にわたって実現せず、自分の理論を大阪で実践する道を選んだ、と。
◆その後、大阪市長になり、1935年にチフスで病没するまで20年間にわたって市長を務め、当時、西欧で最先端の議論であった都市計画を日本にはじめてもちこむ。そのなかで、近代都市のめざすは「暮らしやすい都市」であるとし、労働者の住環境改善のための市営住宅の設置、福祉政策などを手がけたという。御堂筋や地下鉄だけではないわけだ。近代都市は市民が主人公であり、市の行政の使命はそこにあると。
◆近代大阪市の市政は、近代化がもたらす富にたかる乱脈な市政だったのだそうだ。それをまともにしたのが、会津出身の池上四郎市長だったと。その池上が社会政策学会に人を求め、ただちに名前があがったのが関一で、ラブコールの末、大阪市助役となる。関は一橋の一流学者で、三羽ガラスの一人だったが、一橋を帝大に昇格させる運動の中心にもいたが、二度にわたって実現せず、自分の理論を大阪で実践する道を選んだ、と。
◆その後、大阪市長になり、1935年にチフスで病没するまで20年間にわたって市長を務め、当時、西欧で最先端の議論であった都市計画を日本にはじめてもちこむ。そのなかで、近代都市のめざすは「暮らしやすい都市」であるとし、労働者の住環境改善のための市営住宅の設置、福祉政策などを手がけたという。御堂筋や地下鉄だけではないわけだ。近代都市は市民が主人公であり、市の行政の使命はそこにあると。
柏原市長選ほか
◆2月3日、朝、いきなり選挙運動のガナリタテが始まる。国分駅前。娘がウルサイと起きてくる。たぶん8時からならOKな
んだろう。10日投開票の市長選と府議補選(市議選は投票なし)。聞いていると、ヒガシコク
バルという名前が聞こえ、例の声が聞こえてきた。ベランダに出てびっくり、なにやら駅前に人が集まっているではないか。そうこうしているうちに、聞いたことのある声に変わった。維新の会代表のひとりである。ナマ橋下をまたベランダに見に行った。
◆上からウルサイと言ってやりたいところである。カミサンは拡声器を禁止せよ、とも。9日も、朝からまたヒガシコクバルがやってきていた。両日とも、別に耳をそばだてて聞くこともなく、家を出る。ニュースを見ていると、維新のなんだっけか、勉強会の第1期修了生の会が、この日、大阪のホテルで開かれたらしい。9日、朝、大学にむかうため集会をやっている脇を通りつつ、これだけのタレントを呼んできて、またその動員力を見たら、パワーが違う、なにかやってくれそうだ、と普通はそうなってしまうことだろう、必然だわなと感じていた。
◆が、市から配布されたものとか、平日の候補者の国分駅前の発言を聞いていると、こうします、とは書かれていても、どうやってそれを実現するかといったことは、どこにも書かれていないし言いもしない。絶叫するだけ。新市長になったヤツのがいちばんサイテー。唖然としたのは、例えば教育環境(大阪ナンバー1)とか、いろんな項目を挙げてナンバー1と書くが、どうやってという以前に、具体的に何をするのかさえ書いていない。マイクを握ってもイシン・イシンとしか言わない。なんでその項目が大事と自分は考えるのか、ということを語れ!。柏原市をどう考えてこうしたい、といったことは何も考えていない。
◆上からウルサイと言ってやりたいところである。カミサンは拡声器を禁止せよ、とも。9日も、朝からまたヒガシコクバルがやってきていた。両日とも、別に耳をそばだてて聞くこともなく、家を出る。ニュースを見ていると、維新のなんだっけか、勉強会の第1期修了生の会が、この日、大阪のホテルで開かれたらしい。9日、朝、大学にむかうため集会をやっている脇を通りつつ、これだけのタレントを呼んできて、またその動員力を見たら、パワーが違う、なにかやってくれそうだ、と普通はそうなってしまうことだろう、必然だわなと感じていた。
◆が、市から配布されたものとか、平日の候補者の国分駅前の発言を聞いていると、こうします、とは書かれていても、どうやってそれを実現するかといったことは、どこにも書かれていないし言いもしない。絶叫するだけ。新市長になったヤツのがいちばんサイテー。唖然としたのは、例えば教育環境(大阪ナンバー1)とか、いろんな項目を挙げてナンバー1と書くが、どうやってという以前に、具体的に何をするのかさえ書いていない。マイクを握ってもイシン・イシンとしか言わない。なんでその項目が大事と自分は考えるのか、ということを語れ!。柏原市をどう考えてこうしたい、といったことは何も考えていない。
2012年12月27日第5回ねごろ保存管理計画策定の委員会
◆当日の委員の意見もふまえて修正されていくであろうが、この日示された策定書案から状況を。まず、保存管理計画の策定範囲は、旧境内地全体とすると謳う。そして①史
跡地②史跡指定予定地(黄色)③「史跡指定地周縁ゾーン」(青)④その他の旧境内地(破線)、に区分する(地図の通り)。いまさらですが、③は蓮華谷川以東とし、その西側の南北尾根ははずされている。一乗閣移転の話がなければ組み込まれたかも・・・。
◆③史跡の周縁ゾーン(民有地がほとんど)、いまの史跡の「周縁」なので正確な表現。だが、ねごろの本体だ。そこの説明。「追加指定の必要性は高いが現段階では予定されていない地区」、「遺構・遺物が確認あるいは考慮される地区」。役人らしい表現ながら、これまで発掘して、ほぼ密に遺構が集中する子院中心部である。「考慮される」どころではない。
◆そこの保存管理案は次のよう。「長期的な史跡の追加指定も視野に入れながら、保全に努めていく必要がある。民有地については、調査して遺構が出た場合は、記録保存していくことを原則とし・・・」。ここのところは、あまりの表現にクレームがつき、訂正されそうである。だが、それが本音。視野に入れる・・・、本来は、この青は「ぜんぶ史跡をめざす。やれるところから段階的に史跡指定を実現させるべきゾーン」と言うべきもの。視野に入れても、民有地について基本的にやりたくないわけだ。できるだけ景観は維持していきましょう、ができる範囲でね、ということ。いちおう、土地を手放したいとか、同意がえられれば追加指定する、とも。別のところでは、史跡のバッファゾーンだって。本体やろ。
◆そして旧境内地全体を取り扱うと謳い、④として「その他の旧境内地」を設定するものの、④についての保存管理計画の文章はまだ書かれていない。白紙。③でさえ上のようなこと。④の地区は、本来、保存管理計画に入れたくなかったのに、委員が入れろと言ったから、いちおう入れてはいるものの、どうするか考えてもいないし議論もしていない、ということだろう。「ああ~、どう書くかな~」と思案中なのだろう。
◆管理運営組織を作るのだそうである。③の記録保存は書き直されるとのことだが、長期にわたると言いつつも、一方で高齢化で空き家等が増えていくだろうとの見通しも示す。長期にわたるから保全に努め、できるところから、という書き方が間違っているとは言えないが、「長期にわたっても史跡の追加指定を図る地区」と明記する合意ができないところが、この会議の限界である。実際には、どちらにせよ(いまの書き方でも、史跡にする地区と書いても)、もしかしたら同じような推移をたどり、史跡地がだんだんと増えていくことになるかもしれない(祈り、ですね)。が、これだけ掘ってきて、いろんなものが検出されている、伽藍よりもむしろ、根来住人の活動の舞台そのものである③を、「史跡を目指す」と打ち出せないのである(湯屋を含め)。史跡地として不可欠とは考えない、と言う意味でもある。根来とは何だったのか。
◆③史跡の周縁ゾーン(民有地がほとんど)、いまの史跡の「周縁」なので正確な表現。だが、ねごろの本体だ。そこの説明。「追加指定の必要性は高いが現段階では予定されていない地区」、「遺構・遺物が確認あるいは考慮される地区」。役人らしい表現ながら、これまで発掘して、ほぼ密に遺構が集中する子院中心部である。「考慮される」どころではない。
◆そこの保存管理案は次のよう。「長期的な史跡の追加指定も視野に入れながら、保全に努めていく必要がある。民有地については、調査して遺構が出た場合は、記録保存していくことを原則とし・・・」。ここのところは、あまりの表現にクレームがつき、訂正されそうである。だが、それが本音。視野に入れる・・・、本来は、この青は「ぜんぶ史跡をめざす。やれるところから段階的に史跡指定を実現させるべきゾーン」と言うべきもの。視野に入れても、民有地について基本的にやりたくないわけだ。できるだけ景観は維持していきましょう、ができる範囲でね、ということ。いちおう、土地を手放したいとか、同意がえられれば追加指定する、とも。別のところでは、史跡のバッファゾーンだって。本体やろ。
◆そして旧境内地全体を取り扱うと謳い、④として「その他の旧境内地」を設定するものの、④についての保存管理計画の文章はまだ書かれていない。白紙。③でさえ上のようなこと。④の地区は、本来、保存管理計画に入れたくなかったのに、委員が入れろと言ったから、いちおう入れてはいるものの、どうするか考えてもいないし議論もしていない、ということだろう。「ああ~、どう書くかな~」と思案中なのだろう。
◆管理運営組織を作るのだそうである。③の記録保存は書き直されるとのことだが、長期にわたると言いつつも、一方で高齢化で空き家等が増えていくだろうとの見通しも示す。長期にわたるから保全に努め、できるところから、という書き方が間違っているとは言えないが、「長期にわたっても史跡の追加指定を図る地区」と明記する合意ができないところが、この会議の限界である。実際には、どちらにせよ(いまの書き方でも、史跡にする地区と書いても)、もしかしたら同じような推移をたどり、史跡地がだんだんと増えていくことになるかもしれない(祈り、ですね)。が、これだけ掘ってきて、いろんなものが検出されている、伽藍よりもむしろ、根来住人の活動の舞台そのものである③を、「史跡を目指す」と打ち出せないのである(湯屋を含め)。史跡地として不可欠とは考えない、と言う意味でもある。根来とは何だったのか。
【追記】そろそろ、いや既に?尾根の造成工事も始まる、始まっている、のだろう。
オレオレブログ
◆このブログ、オレオレブログという名前が付けられているそうな。なるほどね~、面白い!。詐欺まがいのブログではありませんよ、念のため。わたしくしめ、オレというのは、普段はあんまり使いませんねん。ブログを書くときに、わたしは、というのも何か引っかかり、かといってワイというのも加古川弁だし(ほんまか?)。ワシは使いません。これからはアッシにしましょうか。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。