人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
田辺から中辺路で本宮へ
◆熊野古道の話も、仁木さんの解説を聞き、いろいろとパンフや学生の解説、いろんなところの説明文で、ずいぶんと学
習させていただきました。熊野は3回目、1回目は1990年代前半のはず。2回目
は、世界遺産になったあと、家族で瀞峡遊覧とかして熊野をめぐった。
◆道の駅にある、熊野行幸に同行した藤原定家の日記から、その工程を再現した説明板はよかった。だいたい片道2週間くらいのよう。そこから平岩口まで
移動し、ちょこっとだけ本宮まで古道を歩く。車で行くと、神社の駐車場に乗り付けることになるので、初めて。まあしかし、もっとも整えられているような場所になるんだろう。また森のなかも植林ばかりで、これはこれで近現代の産物で、景観はだいぶちがったものであったろう。
◆本宮。今回、教室旅行で、すべて宝物館が組み込まれ、普段なら金出して入ることのない宝物館に入る。本宮の宝物館は新しくしたのか、展示は整っている。鉄釜がデーンとあり、オヤ、鏡が2面。うち1面は贋物くさい。
◆神社の方に説明もいただいた。イザナミ・イザナギ・スサノヲ・アマテラスを祀っているんだとか、そんなことも、ちゃんと知っておりませんでした。で、メインはスサノヲとのことです。なんで?。これも追求し始めると、クマノというのがどういう場所と考えられてきたとか、いろいろあるんでしょうね。
◆弁当を買ってみなで河原へ。そして熊野川で石投げ。まったく家族で来たときと同じことをやりましたが、みんな、石投げとか、あんまりしないみたいでヘタです。
◆ヤタガラスの話を聞く。『日本書紀』のヤタガラスが3本足だとはどこにも出てこないわけで、それが3本足にむすびつくのは、東アジア共通の話ですよね。まあ別にいいのですが、それが本宮で定着し、文字ができるのも文化としてよいのですが、サッカー日本代表のマークにはふさわしくないように思うが。
◆それと本宮は川にあってこそだったわけだが、明治22年だかに流出して現在地に移されたという。それはそれでいたしかたないことだが、熊野古道のめざす先という場合、ちょっとね~とも思う。
◆道の駅にある、熊野行幸に同行した藤原定家の日記から、その工程を再現した説明板はよかった。だいたい片道2週間くらいのよう。そこから平岩口まで
◆本宮。今回、教室旅行で、すべて宝物館が組み込まれ、普段なら金出して入ることのない宝物館に入る。本宮の宝物館は新しくしたのか、展示は整っている。鉄釜がデーンとあり、オヤ、鏡が2面。うち1面は贋物くさい。
◆神社の方に説明もいただいた。イザナミ・イザナギ・スサノヲ・アマテラスを祀っているんだとか、そんなことも、ちゃんと知っておりませんでした。で、メインはスサノヲとのことです。なんで?。これも追求し始めると、クマノというのがどういう場所と考えられてきたとか、いろいろあるんでしょうね。
◆弁当を買ってみなで河原へ。そして熊野川で石投げ。まったく家族で来たときと同じことをやりましたが、みんな、石投げとか、あんまりしないみたいでヘタです。
◆ヤタガラスの話を聞く。『日本書紀』のヤタガラスが3本足だとはどこにも出てこないわけで、それが3本足にむすびつくのは、東アジア共通の話ですよね。まあ別にいいのですが、それが本宮で定着し、文字ができるのも文化としてよいのですが、サッカー日本代表のマークにはふさわしくないように思うが。
◆それと本宮は川にあってこそだったわけだが、明治22年だかに流出して現在地に移されたという。それはそれでいたしかたないことだが、熊野古道のめざす先という場合、ちょっとね~とも思う。
白浜の宿
◆白浜の宿に着く。白浜も初めて。学生の合宿で、たびたび救急車を呼んだことがあるらしく、くれぐれもホドホドにしてくれとの強いお達し。
学生のサークルの合宿とは違う、教員付きの旅行なのだが・・・。しかし呑み会は呑み会で、この日は2:30まで(一部学生3名はさらに4時まで呑んだらしい)。+確かに事件は起こった。
◆夕食後(たいへんショボかった・・・)、宴会まで時間があるので、ふとタバコを買いに、白良浜の中心部に向かう。そうすると、外湯、牟婁の湯というのがある。何ももっていないので、タオルと石けんを買い、入る(400円)。これは宿に近い手前のところ。外湯もいろいろあるようだが、早い時間に閉めるところも多い。町中に行くと、やたら焼肉はじめ韓国料理屋が目立つな~と思ったら、
むこうから3人の女性が浴衣姿で進んでくる(あまり若くはなかった・・・)。通り過ぎるとき、会話が聞こえ
たが、これが韓国語だった。韓国からの観光客が多くなったんだろう、と納得。
◆で中心部には、白良湯というのがあり、これ、さっきのより、雰囲気のある建物で、町中でもあり、近所の入浴客もちらほら。ということで、二つも入ってしまいました。夜の白良浜を見る。
◆それにしても、学生の参加は思わしくなく、卒論をかかえる4回生が目立つ。3回生と2回生、この参加率を上げないと、このままだと成立しなくなるかもしれない。
◆なぜか腕相撲大会が始まりまして・・・
◆夕食後(たいへんショボかった・・・)、宴会まで時間があるので、ふとタバコを買いに、白良浜の中心部に向かう。そうすると、外湯、牟婁の湯というのがある。何ももっていないので、タオルと石けんを買い、入る(400円)。これは宿に近い手前のところ。外湯もいろいろあるようだが、早い時間に閉めるところも多い。町中に行くと、やたら焼肉はじめ韓国料理屋が目立つな~と思ったら、
◆で中心部には、白良湯というのがあり、これ、さっきのより、雰囲気のある建物で、町中でもあり、近所の入浴客もちらほら。ということで、二つも入ってしまいました。夜の白良浜を見る。
◆それにしても、学生の参加は思わしくなく、卒論をかかえる4回生が目立つ。3回生と2回生、この参加率を上げないと、このままだと成立しなくなるかもしれない。
◆なぜか腕相撲大会が始まりまして・・・
南方熊楠顕彰館(2006年開館)
◆田辺もはじめて。まずは和歌山県の地理。和歌山-海南-湯浅-広川-御坊(むかし行った)-印南-みなべ
-田辺-白浜。以下、和歌山県の人口。
和歌山市386,986/海南市60,098/橋本市70,123/有田市33,563/御坊市27,152/田辺市85,647/新宮市34,280/紀の川市70,550/岩出市50,760/紀美野町12,060/かつらぎ町20,416/九度山町5,763/高野町4,414/湯浅町14,740/広川町8,166/有田川町29,313/美浜町8,550/日高町7,655/由良町7,540/印南町9,800/みなべ町14,895/日高川町11,663/白浜町24,554/上富田町15,295/すさみ町5,504/那智勝浦町18,998/太地町3,733/古座川町3,624/北山村562/串本町20,854/合計1,067,258
和歌山市386,986/海南市60,098/橋本市70,123/有田市33,563/御坊市27,152/田辺市85,647/新宮市34,280/紀の川市70,550/岩出市50,760/紀美野町12,060/かつらぎ町20,416/九度山町5,763/高野町4,414/湯浅町14,740/広川町8,166/有田川町29,313/美浜町8,550/日高町7,655/由良町7,540/印南町9,800/みなべ町14,895/日高川町11,663/白浜町24,554/上富田町15,295/すさみ町5,504/那智勝浦町18,998/太地町3,733/古座川町3,624/北山村562/串本町20,854/合計1,067,258
◆南方熊楠邸+顕彰館に行く。前になんか行ったことある、そこだと思っていたが、ずいぶんと新しく、違うことが判明。前に行ったことがあるのは白浜の記念館(1965年開館)の方のよう。いろいろと、熊楠のハチャメチャ振りを知る。熊楠を顕彰するには、弟の常楠の貢献をきちんと紹介すべきだろう。
◆ここは、イギリスから戻り、那智にしばらくいたあと、死ぬまで住んでいた場所で、あらゆる資料が保存されている。顕彰館とはいえ、資料保存館に近い。
栖原角兵衛
◆栖原角兵衛なるものの存在を知る。以下WEB。
栖原角兵衛(初代、1601-1673)江戸時代前期の漁業家。慶長6年生まれ。紀伊有田郡栖原の人。元和の末,上総天羽郡萩生に移住し,この地方の漁場をひらいた。寛文13年1月20日死去。73歳。名は茂俊。
第7代、1780-1851。江戸中・後期,松前藩城下を拠点に蝦夷地場所経営に当たった紀州有田郡栖原出身の漁業家,海産物・材木商,廻船業者。本姓北村,名は信義,角兵衛は世襲名。城下に設置した松前物問屋を統括店として石狩・樺太場所を請け負う。初代が敢行した紀州からの関東鰯旅漁 や房総富津の鯛桂網漁と,5代以降の蝦夷地各地での鰊・鮭・鱒漁など累代による漁業基盤の上に立ち,さらに紀州藩を後ろ盾にそれらを拡張し,海産物を大坂店や江戸店を通じて販売した。なかでも,アイヌの強制徴用に基づく伊達林右衛門との共同樺太漁業経営は年額2000~3000両の利益を生み出し,天保期には松前城下第3位の分限者にのし上がった。 しかし,アイヌの徴用は9代角兵衛の安政期に最も苛酷になり,悪者を象徴する「スワラノチゥ」(栖原の星)というアイヌ語が生まれた。こうした事業のかたわら,幕府設立の箱館産物会所の御用達も務めていた。 10代角兵衛は維新後は樺太を引き揚げ,千島列島漁場の開発経営に専念し,新時代への対応を計るが,明治28(1895)年,北海道における漁業の多くを三井物産会社に移譲した。
◆だそうである。
栖原角兵衛(初代、1601-1673)江戸時代前期の漁業家。慶長6年生まれ。紀伊有田郡栖原の人。元和の末,上総天羽郡萩生に移住し,この地方の漁場をひらいた。寛文13年1月20日死去。73歳。名は茂俊。
第7代、1780-1851。江戸中・後期,松前藩城下を拠点に蝦夷地場所経営に当たった紀州有田郡栖原出身の漁業家,海産物・材木商,廻船業者。本姓北村,名は信義,角兵衛は世襲名。城下に設置した松前物問屋を統括店として石狩・樺太場所を請け負う。初代が敢行した紀州からの関東鰯旅漁 や房総富津の鯛桂網漁と,5代以降の蝦夷地各地での鰊・鮭・鱒漁など累代による漁業基盤の上に立ち,さらに紀州藩を後ろ盾にそれらを拡張し,海産物を大坂店や江戸店を通じて販売した。なかでも,アイヌの強制徴用に基づく伊達林右衛門との共同樺太漁業経営は年額2000~3000両の利益を生み出し,天保期には松前城下第3位の分限者にのし上がった。 しかし,アイヌの徴用は9代角兵衛の安政期に最も苛酷になり,悪者を象徴する「スワラノチゥ」(栖原の星)というアイヌ語が生まれた。こうした事業のかたわら,幕府設立の箱館産物会所の御用達も務めていた。 10代角兵衛は維新後は樺太を引き揚げ,千島列島漁場の開発経営に専念し,新時代への対応を計るが,明治28(1895)年,北海道における漁業の多くを三井物産会社に移譲した。
◆だそうである。
2012年11月9日~11日、教室旅行(南紀)
◆金土日と2泊3日の教室旅行。8時天王寺駅集合なので、久しぶりに高井田から大和路線に乗る。8:30予定通り出発。

◆湯浅10時過ぎに到着。バスから降り立つと、醤油の香りが漂ってくる。湯浅は初めて。2006年伝建選定。町の担当の方とボランティアさんに案内いただく。そちこちで修理の工事もやっている。金山寺味噌(もとは中国の径山寺味噌で鎌倉時代に伝えられる)は知っていたが、それが醤油のモトになったのだという。大豆50%(岡山)と小麦50%(岐阜)の濃口醤油(塩は瀬戸内)、日本の醤油のふるさと、であるらしい。。
◆その前の湯浅氏という強力な集団がいたそうだ。醤油屋は最盛期には92軒、だが、近代以降、減少を続け、いまや古来の方法による操業を続けているのはわずか。全体が二班に分かれ説明を聞いたあと、昼飯を含めた自由行動となり、海の方も含めて歩き回る。駅前が集合なので、全体としてはそちらに移動していき、しらす丼を食べる。
◆かなりさびれていることは否めないが、いま残る町並みを再生していこう
と、取り組みが始まったところ、という印象を受けた。古い家屋のところが、みな、その家?にある古いモノを表にディスプレイしている。おばさんが魚を焼いていたりするのもいい。醤油という、ほかにはない材料がある。近世期の最盛期の様子も、もっともっと伝えられるだろうし、近傍を含めて、いろんな商売人や文化人などが輩出している地域であり、ネタにはコト欠かないように思う。醤油造り、江戸期の町並みが軸ではあるが、有田における湯浅という地域の、さらに古くからの歴史も大きな魅力がある。
◆なかなか魅力的なところだ。町並み部分に飲食店が少ない。そのうちできてくるか。和歌山大学の学生が作成した「つれもて食べよう!しらす丼」のリーフレットもよくできている。
◆湯浅10時過ぎに到着。バスから降り立つと、醤油の香りが漂ってくる。湯浅は初めて。2006年伝建選定。町の担当の方とボランティアさんに案内いただく。そちこちで修理の工事もやっている。金山寺味噌(もとは中国の径山寺味噌で鎌倉時代に伝えられる)は知っていたが、それが醤油のモトになったのだという。大豆50%(岡山)と小麦50%(岐阜)の濃口醤油(塩は瀬戸内)、日本の醤油のふるさと、であるらしい。。
◆その前の湯浅氏という強力な集団がいたそうだ。醤油屋は最盛期には92軒、だが、近代以降、減少を続け、いまや古来の方法による操業を続けているのはわずか。全体が二班に分かれ説明を聞いたあと、昼飯を含めた自由行動となり、海の方も含めて歩き回る。駅前が集合なので、全体としてはそちらに移動していき、しらす丼を食べる。
◆かなりさびれていることは否めないが、いま残る町並みを再生していこう
◆なかなか魅力的なところだ。町並み部分に飲食店が少ない。そのうちできてくるか。和歌山大学の学生が作成した「つれもて食べよう!しらす丼」のリーフレットもよくできている。
2012年10月11日第4回ねごろ保存管理計画策定委員会
◆資料をいただいたので、『ヒストリア』10月号では第3回まで収録した、この会議の第4回議事録をアップしておく。
復命書 1.日時 平成24年10月11日(木) 13:20~16:00/2.場所 岩出市総合保健福祉センター/4.内容 第2回史跡根来寺境内保存管理計画策定小委員会/第4回史跡根来寺境内保存管理計画策定委員会
第2回史跡根来寺境内保存管理計画策定小委員会
(1)保存管理計画(案)について
・今回は枠組みを確認するのが目的であり、個別内容については今後詰めていく。
・「管理団体を岩出市とするが望ましい」という内容を入れるべき。将来的に寺有地以外が指定となった場合に備える。(計画内で記載のある)管理運営団体を設置するにしても管理団体が必要。民有地で出てくる開発情報等をいち早く把握するためにも岩出市が適当。(現在開発事業を文化財保護部局でチェックできる体制があるのならばその内容掲載すべき)
・3-5現状変更取扱い基準の項で「(現状変更を)める」となっている所は文言変更すべき
・第4章 史跡の整備活用で、具体的な活用内容を考えておくべき。
(2)京奈和自動車道の建設に関する報告
国交省○○課長より、史跡に配慮した工事計画について説明。主な内容は以下のとおり。
(省略)
(3)旧県会議事堂について
・大阪歴史学会からの再々要望書について要望書の提出があった。一部の委員にも届く可能性がある。
第4回史跡根来寺境内保存管理計画策定委員会
(1)H24.3.6根来寺座主並びに関係各位からの依頼に対する回答について
小委員会で了承された回答案について、委員会に諮った。意見は以下とおり。
・回答文案に根来寺も協議に参加したとあるが、その事実がないので改めてほしい。
→平成9、11年に座主と協議がなされている(岩出市)
→確かに史跡指定前に京奈和自動車道についてはOKした。道路が通ること自体に反対しているわけではない。重要な遺跡を破壊してまで通す合理的な説明を求めているだけ。今回の要望は歴史的な観点から自由な立場で学術的に検討してもらいたいという要望。
・回答文に「・・・その権限はないものである・・・」とあるが、5月17日の委員会で保存範囲(検討対象という意味か?)を旧境内地全体としたので、高速部分についても権限がないとは言えない。
→根来寺に協議がなされたかどうかは別として、高速道路と旧県会議事堂の件については、委員会発足前から交渉されているので本来は計画に入れるべきものではない。また、その成果を全く無視して計画を壊す訳にはいかない。
→このような中でも当委員会ではこの問題を重要視して、国交省に数々の検討依頼を行ってきた。実際の所、現段階まで計画が進んでいる状況では、(ルート変更等の)大きな変更は困難。景観への配慮等、細かな要望を実現してもらう。
・(座主からの伝言で)旧境内の結界、その地番、どこを指定候補とするかについて学術的に検討した計画書にしてほしい。
→根来寺の意見も聞きながらこれから本格的に検討する内容。ただし、地番については実際の指定の際に必要となる内容で、この委員会で取りまとめることはしない。
・重要な委員会なので出席を希望していた委員もいる。これらの委員が出席できる日程調整はできなかったのか?。欠席している委員の意見は聞かないのか?。
→最も委員が集まる本日に設定した(岩出市)
→欠席委員には申し訳ないが、本委員会で回答文を承認する。欠席委員の意見は今後に生かしていく。
(2)保存管理計画(案)について
・計画策定の対象範囲は計画書の前の方で言及すべき。
・コンサルのたたき台である紫の一点鎖線範囲(A3資料2枚目参照)で良いのか、その外側を部分的に拾うのかは今後の検討による。
→旧境内地全体が範囲ではないか?
→一点鎖線範囲以外でどこを拾うかは今後の検討内容である。西側は改変されたところが多く、旧県会議事堂、市の駐車場もある。このあたりを見ながら検討を進める必要がある。
◆ま、よくわかりませんが、うかがえる範囲で論評を。京奈和については、お寺は高速道路が通ることは了解したが、実際の具体案が出てきてびっくり、こういうのとは聞いていない、ということでモメているようである。保存管理計画については、紫の一点鎖線なるものが現時点では不明ながら、やっぱり事務局案としては、絞ってきたものをコンサルに描かせたようで、話がちゃうやないか、という意見も出ているよう。
復命書 1.日時 平成24年10月11日(木) 13:20~16:00/2.場所 岩出市総合保健福祉センター/4.内容 第2回史跡根来寺境内保存管理計画策定小委員会/第4回史跡根来寺境内保存管理計画策定委員会
第2回史跡根来寺境内保存管理計画策定小委員会
(1)保存管理計画(案)について
・今回は枠組みを確認するのが目的であり、個別内容については今後詰めていく。
・「管理団体を岩出市とするが望ましい」という内容を入れるべき。将来的に寺有地以外が指定となった場合に備える。(計画内で記載のある)管理運営団体を設置するにしても管理団体が必要。民有地で出てくる開発情報等をいち早く把握するためにも岩出市が適当。(現在開発事業を文化財保護部局でチェックできる体制があるのならばその内容掲載すべき)
・3-5現状変更取扱い基準の項で「(現状変更を)める」となっている所は文言変更すべき
・第4章 史跡の整備活用で、具体的な活用内容を考えておくべき。
(2)京奈和自動車道の建設に関する報告
国交省○○課長より、史跡に配慮した工事計画について説明。主な内容は以下のとおり。
(省略)
(3)旧県会議事堂について
・大阪歴史学会からの再々要望書について要望書の提出があった。一部の委員にも届く可能性がある。
第4回史跡根来寺境内保存管理計画策定委員会
(1)H24.3.6根来寺座主並びに関係各位からの依頼に対する回答について
小委員会で了承された回答案について、委員会に諮った。意見は以下とおり。
・回答文案に根来寺も協議に参加したとあるが、その事実がないので改めてほしい。
→平成9、11年に座主と協議がなされている(岩出市)
→確かに史跡指定前に京奈和自動車道についてはOKした。道路が通ること自体に反対しているわけではない。重要な遺跡を破壊してまで通す合理的な説明を求めているだけ。今回の要望は歴史的な観点から自由な立場で学術的に検討してもらいたいという要望。
・回答文に「・・・その権限はないものである・・・」とあるが、5月17日の委員会で保存範囲(検討対象という意味か?)を旧境内地全体としたので、高速部分についても権限がないとは言えない。
→根来寺に協議がなされたかどうかは別として、高速道路と旧県会議事堂の件については、委員会発足前から交渉されているので本来は計画に入れるべきものではない。また、その成果を全く無視して計画を壊す訳にはいかない。
→このような中でも当委員会ではこの問題を重要視して、国交省に数々の検討依頼を行ってきた。実際の所、現段階まで計画が進んでいる状況では、(ルート変更等の)大きな変更は困難。景観への配慮等、細かな要望を実現してもらう。
・(座主からの伝言で)旧境内の結界、その地番、どこを指定候補とするかについて学術的に検討した計画書にしてほしい。
→根来寺の意見も聞きながらこれから本格的に検討する内容。ただし、地番については実際の指定の際に必要となる内容で、この委員会で取りまとめることはしない。
・重要な委員会なので出席を希望していた委員もいる。これらの委員が出席できる日程調整はできなかったのか?。欠席している委員の意見は聞かないのか?。
→最も委員が集まる本日に設定した(岩出市)
→欠席委員には申し訳ないが、本委員会で回答文を承認する。欠席委員の意見は今後に生かしていく。
(2)保存管理計画(案)について
・計画策定の対象範囲は計画書の前の方で言及すべき。
・コンサルのたたき台である紫の一点鎖線範囲(A3資料2枚目参照)で良いのか、その外側を部分的に拾うのかは今後の検討による。
→旧境内地全体が範囲ではないか?
→一点鎖線範囲以外でどこを拾うかは今後の検討内容である。西側は改変されたところが多く、旧県会議事堂、市の駐車場もある。このあたりを見ながら検討を進める必要がある。
◆ま、よくわかりませんが、うかがえる範囲で論評を。京奈和については、お寺は高速道路が通ることは了解したが、実際の具体案が出てきてびっくり、こういうのとは聞いていない、ということでモメているようである。保存管理計画については、紫の一点鎖線なるものが現時点では不明ながら、やっぱり事務局案としては、絞ってきたものをコンサルに描かせたようで、話がちゃうやないか、という意見も出ているよう。
森浩一先生の『記紀の考古学』
◆おとつい?、5限の授業が終わって、なにをする気力もなく、上記の本をパラパラぜんぶ読んだ。そのメモ。
◆「ある時期の天皇は一人」という前提でものを考えているが、「大草香皇子や市辺王のように、大王扱いされていた人物
が、同時期に複数いたとういう状況をも想定してかからねばならない」と書いている。→293頁
◆滋賀県のケンサイ塚古墳は大きな円墳(径80m)だが、埋葬施設である粘土槨はあるが、遺物はなかったそうである。森先生は、改葬を考えている。→296頁。掘り出した痕跡があるのか?、ないんでしょうね。
◆陶邑などの邑と表記されているものについて、村でなく拠点的なもので、「まち」というほうが実態に近いと考え、本書ではそのように書いたとある。→348頁。まあ、そうなんでしょうね。村と邑、区別されていたんでしょうね。
【追記】金・土・日と、研究室旅行に行きます。
◆「ある時期の天皇は一人」という前提でものを考えているが、「大草香皇子や市辺王のように、大王扱いされていた人物
◆滋賀県のケンサイ塚古墳は大きな円墳(径80m)だが、埋葬施設である粘土槨はあるが、遺物はなかったそうである。森先生は、改葬を考えている。→296頁。掘り出した痕跡があるのか?、ないんでしょうね。
◆陶邑などの邑と表記されているものについて、村でなく拠点的なもので、「まち」というほうが実態に近いと考え、本書ではそのように書いたとある。→348頁。まあ、そうなんでしょうね。村と邑、区別されていたんでしょうね。
【追記】金・土・日と、研究室旅行に行きます。
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。