人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
天武持統陵の調査も遠からず、か
◆陵墓懇談会で、昭和30年代の天武持統陵の調査について話題となる。図面がないらしいですね。写真はあるが、どこの部位かわからんし、そのまま生で出すのもどうかと。NHKの報道もあり、『所領不器用』(このままの誤変換も味わい深いですね、いえ書陵部をちゃかしているわけではないんですよ、誤解の無いように。不器用が気に入った、ということです)で公表するんだろうと思っていたが、ちゃんと資料として使えるものとして出そうとしておられるようで、一定の調査をはさんでまとめる意向のようらしい。いずれ楽しみですね。
◆土曜日の準備をしていて、いくつか気づくこともある。いまの段階でも、全体として何をしゃべるか不明確なまま、全体を調べている。メリハリなしのダラダラした発表になりそう。
◆磐之媛だ。4~5世紀の妃墓で『延喜式』にあるのはこれのみ(神功は別格ですよ、書記に紀年があるんですから、+飯豊)。これは、もしかして光明立后シフト?って思ってしまいますね。既に誰か言ってそうですが。
◆土曜日の準備をしていて、いくつか気づくこともある。いまの段階でも、全体として何をしゃべるか不明確なまま、全体を調べている。メリハリなしのダラダラした発表になりそう。
◆磐之媛だ。4~5世紀の妃墓で『延喜式』にあるのはこれのみ(神功は別格ですよ、書記に紀年があるんですから、+飯豊)。これは、もしかして光明立后シフト?って思ってしまいますね。既に誰か言ってそうですが。
7月18日の水曜日、宮内庁懇談会
◆土師ニサンザイのこと・・・、またあとで。キナシカルや、と言ってるんですけど・・・。彼は、文献では、軽部とかの存在か
ら実在したと考えられてるんだった、ように記憶しますが。気になるのは軽里前の山ですね。いま白鳥陵(ヤマトタケル)、これぞ清寧陵ちゃうか、と2月にしゃべりました。気になるのは、軽郷(里)という地名。
◆今尾さんが季刊考古学の陵墓特集号を担当するらしく、治定陵の検討をやるところの分担原稿依頼を受けたのですが、前期・中期でなく、なんと後期・終末期でやれと・・・。まあ受けましょう。鎌足墓からも逃げられない、なんとか自分の結論を出さなあかんみたい。あとは、だいたいこのブログで書いているとおりだが、またまた白石さんに楯突く原稿になるのは必然ですね。山背大兄王墓は『延喜式』に北岡墓で挙がっているんだ。まあ、斑鳩周辺では見いだせない以上、西宮は浮上するだろう。こないだの青木の本で新納さんが古墳時代の週末を書いており、その図がそこそこいいもので、言いたいことが網の帯で示されていて共感する。
◆ちなみに、中期あたりのオレの被葬者論って、ダアレも知らないみたい。大仙は允恭ですと言っても「なんで~」と来る。誰とは言いませんが、オレの書いたものなんざ読みやしないんだろう。と同時に、仲津山=オオササギというのも、たぶんちゃんと書いてないんでしょうね。どこまで公式に何で書いたやら、確認が必要だ。それと新納さんには非難ご~ご~であれ、徹底的に被葬者論の専論を書いておかないとインパクトはないみたい。
◆今尾さんが季刊考古学の陵墓特集号を担当するらしく、治定陵の検討をやるところの分担原稿依頼を受けたのですが、前期・中期でなく、なんと後期・終末期でやれと・・・。まあ受けましょう。鎌足墓からも逃げられない、なんとか自分の結論を出さなあかんみたい。あとは、だいたいこのブログで書いているとおりだが、またまた白石さんに楯突く原稿になるのは必然ですね。山背大兄王墓は『延喜式』に北岡墓で挙がっているんだ。まあ、斑鳩周辺では見いだせない以上、西宮は浮上するだろう。こないだの青木の本で新納さんが古墳時代の週末を書いており、その図がそこそこいいもので、言いたいことが網の帯で示されていて共感する。
◆ちなみに、中期あたりのオレの被葬者論って、ダアレも知らないみたい。大仙は允恭ですと言っても「なんで~」と来る。誰とは言いませんが、オレの書いたものなんざ読みやしないんだろう。と同時に、仲津山=オオササギというのも、たぶんちゃんと書いてないんでしょうね。どこまで公式に何で書いたやら、確認が必要だ。それと新納さんには非難ご~ご~であれ、徹底的に被葬者論の専論を書いておかないとインパクトはないみたい。
シェリー酒
◆スペインに行ったとき、そこはシェリー酒の本場で、醸造所がたくさんあり、初日夜は酒屋めぐりだった(オレは行かな
かった)。で、カミサンが、東京のスペイン市場というところからシェリー酒を通販で購
入したというので、ちびり、と呑む。
◆ちなみに国分駅から撮影した、いまの我が家である。暑そうですね。むこうに見える緑は玉手山1号墳でR。
◆大津のいじめ、役所・学校も問題だが、加害者側もタチが悪いみたいですね。週刊誌など読みませんが、カミサンが少し教えてくれました。とはいえ、未成年で、どっかの時点では和解とせざるをえないだろうが、加害者側がいまのままなら、ある程度、徹底的に裁判でコトを明確にせざるをえないだろう。人を死に追いやったことの重大さに何とも思わない、そんな子供が育っていることの恐ろしさよ・・・。
◆ちなみに国分駅から撮影した、いまの我が家である。暑そうですね。むこうに見える緑は玉手山1号墳でR。
◆大津のいじめ、役所・学校も問題だが、加害者側もタチが悪いみたいですね。週刊誌など読みませんが、カミサンが少し教えてくれました。とはいえ、未成年で、どっかの時点では和解とせざるをえないだろうが、加害者側がいまのままなら、ある程度、徹底的に裁判でコトを明確にせざるをえないだろう。人を死に追いやったことの重大さに何とも思わない、そんな子供が育っていることの恐ろしさよ・・・。
21日の陵墓の発表
◆一方の陵墓。土日に本を読み資料を作成するが、なかなか既存のものを吸収するのもたいへん。アラアラ
何をやるかは決めているものの・・・。で延喜式を表にしていて大きく時間を割かれる。何をやっとんのかとは思うが、学生にも言うのだが、人の図表を使っていては認識は身につかない。『延喜式』にちゃんと向き合うのは、これが初めてだろう。自分で入力しているだけだが、どういう表を作るか頭を使ったり、明治に進められた王族墓を加え、今井堯さんの労作の治定年を書き込んだり、ハマッテくるわけだ。こういう作業によって、ようやく延喜諸陵式が自分のなかで認識される。
◆まだ古代でうろうろしており、幕末維新期までは遠い・・・。いまからは木曜の授業の準備、なかなか今週は時間なく厳しい。ブログを書く気力も、暑さもあって、減退気味。サウナに行きたい!。
◆まだ古代でうろうろしており、幕末維新期までは遠い・・・。いまからは木曜の授業の準備、なかなか今週は時間なく厳しい。ブログを書く気力も、暑さもあって、減退気味。サウナに行きたい!。
7月16日、しつこいですが郷
◆月曜日の海の日、バイト2人にも出勤してもらい、和泉市史の仕事を進める。図面は最終段階、自分も「郷は領域であ
る」に参考文献を散りばめる。その過程で、けっこう決定的な史料を見つけたので報告する。
◆法隆寺の資財帳だ。そのなかに「山林岳嶋等」のリストがある。大和国には3箇所あり、平群郡屋部郷の1箇所、平群郡坂戸郷の「岳」1箇所、添下郡菅原郷の「深川栗林」1箇所が、河内国では「日根郡鳥取郷深日松尾山」1地、摂津国では「雄伴郡宇治郷宇奈五岳」1地とある。四至から現在地の比定も可能であろうが、山岳等の規模はあれ、それぞれ所在地の郷が記されていることは無視できない。『播磨国風土記』をあわせれば、もう郷域があるとしか考えられませんね。
◆弥永貞三を読めば、もう洗いざらい、やられているのかもしれませんね。あと、郷里制についても、けっこう書きました(岸俊男をまっとうには読んでませんが)。郷里制導入は、50戸一里を放棄する、ということだ、と。人間は里で把握しようとした、が土地の分割はもうや~めた、ということだろう。
◆法隆寺の資財帳だ。そのなかに「山林岳嶋等」のリストがある。大和国には3箇所あり、平群郡屋部郷の1箇所、平群郡坂戸郷の「岳」1箇所、添下郡菅原郷の「深川栗林」1箇所が、河内国では「日根郡鳥取郷深日松尾山」1地、摂津国では「雄伴郡宇治郷宇奈五岳」1地とある。四至から現在地の比定も可能であろうが、山岳等の規模はあれ、それぞれ所在地の郷が記されていることは無視できない。『播磨国風土記』をあわせれば、もう郷域があるとしか考えられませんね。
◆弥永貞三を読めば、もう洗いざらい、やられているのかもしれませんね。あと、郷里制についても、けっこう書きました(岸俊男をまっとうには読んでませんが)。郷里制導入は、50戸一里を放棄する、ということだ、と。人間は里で把握しようとした、が土地の分割はもうや~めた、ということだろう。
ねんきん
◆息子が6月に20歳になったので、年金の書類が来た。説明と、学生の場合は留保できるので、そういう説明の書類が来て、返送すれば、今年の振り込み用紙や引き落としの書類などが、また送られてくる。自分の時はどうやったんかね~。それと彼らが現役を引退する時代が来たとき、果たして年金を受け取れるのだろうか・・・。
筑備播讃
◆筑備播讃、倭国明治維新説で、明治維新と違うのは、江戸に本拠を構えたことだろう。むろんサラの地に本拠をつくることはある。藤原や平城や平安もそうだろう。倭国形成を東部瀬戸内なりの勢力が乗り込んできて、と考えているみなさんは、纒向は新たに形成したと見ているんだろう。江戸→東京と、そこは違うわけである。江戸というベースがあり、そこに乗り込んで行った薩長。
◆藤原や平城や平安はいい、国家権力がデンとあって、次はココ、立ち退き!、と簡単に命じることができる。が、そういうことが、外部勢力が乗り込んできて可能であるんだろうか。たとえとしての明治維新との違和感をひとまず指摘しているだけ。そんなことあり?。東との接点でもあり、選地したと、そりゃ勝手だが、「そこがいい」からといって実現するだろうか。
◆それよりも、昨今の年代観からいけば、纒向は卑弥呼共立にさかのぼるヤマトの自律的な動きなのだ。それは、ヤマト国が自分の内部に本拠を建設するのだから、サラ地にあたらしくふさわしいものを作りあげる、というのはあっていいわけである。
◆で、そうなると筑備播讃説は、江戸→東京に近づく。だから成り立つわけではないが、評価も変わる。ヤマトが纒向を建設するだけのジツリキを有しており、石塚を生み出していくことは、出雲や吉備となんら変わりはないのである。さて、纒向に仮に連合国家本拠が置かれたのだとしても、その前提としてのヤマト国・纒向を評価しなければならない。
◆藤原や平城や平安はいい、国家権力がデンとあって、次はココ、立ち退き!、と簡単に命じることができる。が、そういうことが、外部勢力が乗り込んできて可能であるんだろうか。たとえとしての明治維新との違和感をひとまず指摘しているだけ。そんなことあり?。東との接点でもあり、選地したと、そりゃ勝手だが、「そこがいい」からといって実現するだろうか。
◆それよりも、昨今の年代観からいけば、纒向は卑弥呼共立にさかのぼるヤマトの自律的な動きなのだ。それは、ヤマト国が自分の内部に本拠を建設するのだから、サラ地にあたらしくふさわしいものを作りあげる、というのはあっていいわけである。
◆で、そうなると筑備播讃説は、江戸→東京に近づく。だから成り立つわけではないが、評価も変わる。ヤマトが纒向を建設するだけのジツリキを有しており、石塚を生み出していくことは、出雲や吉備となんら変わりはないのである。さて、纒向に仮に連合国家本拠が置かれたのだとしても、その前提としてのヤマト国・纒向を評価しなければならない。
新納さんの3権力系列
◆ウチの弥生の授業のなんとか終え、明日の神戸大学の授業の準備をサッサとやって条里の原稿を!と思いつつ、
なかなか進まず。で、神戸大での授業もあと2回、明日は継体の話。で、新納さんの権力系列論である。
◆結局、列島の中で、地域的まとまりの中で相互関係が強化され、利害関係の一致する圧力団体が形成されると。瀬戸内系列、日本海・東海系列、東国系列。新納さんのそれは6世紀のイメージを明確に出しているが、本文に明らかなとおり、早くから形成されてきているのだろう。5世紀の雄略は3者のバランスを取っていたと。日本海・東海系列は、さかのぼれば3世紀くらいになるのだろうし、近江を介して、東海と北陸が結びついているあり方は古いものだろう。これに対して東国系列もまた、原型は3世紀くらいなのか。しかし、物部が統括していく時期は6世紀になるんだろう。石上神宮があそこにあるのは意味があるのですね、ということに気づく(遅い!)。
◆瀬戸内は倭王権形成時からの保守本流。カヤとの結びつきが強い。しかし、5世紀後半、大カヤはあるが、次第に百済や新羅が台頭してくる。日本海と朝鮮半島との関係は、丹後に変わり、若狭や越前が5世紀に入りそれを担っていく。もひとついえば、有明海沿岸の、九州の独自のパイプもある、これ百済とされてますよね。で、案外と九州と北陸は結びついていると。
◆雄略は瀬戸内系列を弾圧し、大伴が台頭し、瀬戸内海上交通を担っていく(紀伊は北部勢力から南部勢力へ)。で、河内政権末期に、対外関係をカヤから百済へと基軸を移していこうとするなかで、日本海・北陸系列の圧力団体の選挙運動の結果、ヲホドがかつがれる。大伴のもとで、日本海・北陸系列や有明海系列も糾合されていく?。
◆で、そのあとだ。大伴は排除され、安閑が殺害され、欽明をかつぐ蘇我氏が急速に台頭してくる。蘇我氏は大伴の利権であった瀬戸内系列を吸収しつつ、日本海・北陸系列とも結びつき高句麗と接近する?。これで物部―東国との、東西2軸となり、587年に物部が倒されこれをも糾合し、蘇我氏のもとで権力の1本化が最終的に実現する。こうした筋書きが新納説ですよね。なかなか細部は、「どう考えてはる」のかわからないのですが。
◆最後は、その蘇我氏を倒すことで、利権がはりめぐらされた人民と土地が王権に直属し、領域支配への道が開ける。天下立評そして条里施工(検地)に進む。
※「○○しはる」という京都弁は便利である。「考えておられる」というよりシンプルかつ敬語的言い回しをせずにすむ。
◆結局、列島の中で、地域的まとまりの中で相互関係が強化され、利害関係の一致する圧力団体が形成されると。瀬戸内系列、日本海・東海系列、東国系列。新納さんのそれは6世紀のイメージを明確に出しているが、本文に明らかなとおり、早くから形成されてきているのだろう。5世紀の雄略は3者のバランスを取っていたと。日本海・東海系列は、さかのぼれば3世紀くらいになるのだろうし、近江を介して、東海と北陸が結びついているあり方は古いものだろう。これに対して東国系列もまた、原型は3世紀くらいなのか。しかし、物部が統括していく時期は6世紀になるんだろう。石上神宮があそこにあるのは意味があるのですね、ということに気づく(遅い!)。
◆瀬戸内は倭王権形成時からの保守本流。カヤとの結びつきが強い。しかし、5世紀後半、大カヤはあるが、次第に百済や新羅が台頭してくる。日本海と朝鮮半島との関係は、丹後に変わり、若狭や越前が5世紀に入りそれを担っていく。もひとついえば、有明海沿岸の、九州の独自のパイプもある、これ百済とされてますよね。で、案外と九州と北陸は結びついていると。
◆雄略は瀬戸内系列を弾圧し、大伴が台頭し、瀬戸内海上交通を担っていく(紀伊は北部勢力から南部勢力へ)。で、河内政権末期に、対外関係をカヤから百済へと基軸を移していこうとするなかで、日本海・北陸系列の圧力団体の選挙運動の結果、ヲホドがかつがれる。大伴のもとで、日本海・北陸系列や有明海系列も糾合されていく?。
◆で、そのあとだ。大伴は排除され、安閑が殺害され、欽明をかつぐ蘇我氏が急速に台頭してくる。蘇我氏は大伴の利権であった瀬戸内系列を吸収しつつ、日本海・北陸系列とも結びつき高句麗と接近する?。これで物部―東国との、東西2軸となり、587年に物部が倒されこれをも糾合し、蘇我氏のもとで権力の1本化が最終的に実現する。こうした筋書きが新納説ですよね。なかなか細部は、「どう考えてはる」のかわからないのですが。
◆最後は、その蘇我氏を倒すことで、利権がはりめぐらされた人民と土地が王権に直属し、領域支配への道が開ける。天下立評そして条里施工(検地)に進む。
※「○○しはる」という京都弁は便利である。「考えておられる」というよりシンプルかつ敬語的言い回しをせずにすむ。
なぜヤマト国は1世紀にできあがったのか
◆BC1世紀には、石鏃の大型化など、地域紛争が頻発した。北部九州で戦死者が福岡平野で少なくなり、周囲に広がっていくことに、紛争の波及のみならず、そうした紛争を経てナ国内部が統合を果たし平和が訪れたこともまた示す。
◆一方で鉄器化が進行する。オレは鉄器化の影響を認める立場に立つ。後期の地域統合の背景について、鉄器化によるものと考えてきた。だが、両者はミックスさせなあかんのかなと。吉備や出雲では、BC1世紀頃、集落は山に上がるらしいが、同じように石鏃が発達するのでしょ。で、後期になると平野部に集落が現れる。ひとまず平和が訪れた、ということ。そうして広域土器圏の形成に進む。農耕社会の成熟による必然なんだろうが、吉備や畿内や尾張ではBC1世紀の頃にそうした地域紛争に進むわけだが、そうしたさなかに鉄器が入ってくる。
◆後期社会が広域地域圏が形成された時代だとして、そしてそれは急速に進行するわけだが、その要因をどう考えるのか、ということ。地域紛争は、落ち着いても、またぶりかえしたりするだろう。とくに鉄器化以前は決定力がない。しかし弥生後期は、そんなにダラダラ戦国時代が続かない。実に急速に地域統合へと進む。
◆鉄器化が進行せず、石の武器だけの時代が続いた場合、BC1世紀の紛争はどのように推移したろうか。例えば、大和・河内・三島・和泉・豊島といった、地域圏が強固になり戦国時代が続くのだろうか。なので、Aやはり鉄器化の影響は大きい。だからこそ地域圏ができあがったのだ。Bいや、地域間紛争がそのまま畿内統合への戦争へと移行していったのであって、鉄器化はあまり影響ない。鉄器化の影響はいかに。
◆中期末は戦争が本格化すると教えられ、後期は広域地域圏ができると、その両者をあまり結びつけて考えてこなかったのだ(アホみたい)。中期末の紛争は、どこでも通過せにゃならん過程と当たり前のように考え、それがどう結果するか、ということを考えてこなかったような気がする。それをほっといて、鉄器化で広域地域圏ができあがるんだ、と考えてきた。両者をどのようにカラメテ(たぶんカラムと思うが)考えるか、だ。見通しとしては、「競合する社会へ移り変わっているところに鉄器がやってきたことで、地域内紛争から、特定勢力が畿内といった規模での覇権をめざす運動にまで進み、急速に広域地域圏を形成するに至ったのだ」、とか。
◆一方で鉄器化が進行する。オレは鉄器化の影響を認める立場に立つ。後期の地域統合の背景について、鉄器化によるものと考えてきた。だが、両者はミックスさせなあかんのかなと。吉備や出雲では、BC1世紀頃、集落は山に上がるらしいが、同じように石鏃が発達するのでしょ。で、後期になると平野部に集落が現れる。ひとまず平和が訪れた、ということ。そうして広域土器圏の形成に進む。農耕社会の成熟による必然なんだろうが、吉備や畿内や尾張ではBC1世紀の頃にそうした地域紛争に進むわけだが、そうしたさなかに鉄器が入ってくる。
◆後期社会が広域地域圏が形成された時代だとして、そしてそれは急速に進行するわけだが、その要因をどう考えるのか、ということ。地域紛争は、落ち着いても、またぶりかえしたりするだろう。とくに鉄器化以前は決定力がない。しかし弥生後期は、そんなにダラダラ戦国時代が続かない。実に急速に地域統合へと進む。
◆鉄器化が進行せず、石の武器だけの時代が続いた場合、BC1世紀の紛争はどのように推移したろうか。例えば、大和・河内・三島・和泉・豊島といった、地域圏が強固になり戦国時代が続くのだろうか。なので、Aやはり鉄器化の影響は大きい。だからこそ地域圏ができあがったのだ。Bいや、地域間紛争がそのまま畿内統合への戦争へと移行していったのであって、鉄器化はあまり影響ない。鉄器化の影響はいかに。
◆中期末は戦争が本格化すると教えられ、後期は広域地域圏ができると、その両者をあまり結びつけて考えてこなかったのだ(アホみたい)。中期末の紛争は、どこでも通過せにゃならん過程と当たり前のように考え、それがどう結果するか、ということを考えてこなかったような気がする。それをほっといて、鉄器化で広域地域圏ができあがるんだ、と考えてきた。両者をどのようにカラメテ(たぶんカラムと思うが)考えるか、だ。見通しとしては、「競合する社会へ移り変わっているところに鉄器がやってきたことで、地域内紛争から、特定勢力が畿内といった規模での覇権をめざす運動にまで進み、急速に広域地域圏を形成するに至ったのだ」、とか。
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1964/03/22
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自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。