人を幸せにする人になろう

アンダルシアの旅(43)カディス博物館

◆最初、間違って別館から入り、これだけ?と思ったが、本体は大き1b876d69.JPG3c257e57.JPGかった。写真の正面が別館で、右側が本館。別館は企画展用らしい。《カディスの歴史展》を開催中であった。
◆本体は、旧考古学博物館と美術館が1980年に合体したものという。1階が考古学展示。2階は絵画。カディスそのものが、ガデアというローマ都市であったことを知る。それと先端の旧市街だけが島なのではなく、砂州および背後の部分を含めた全体が大きい島である。陸地側からは低湿地に阻まれ、容易に近づけない、そんな場所であったようだ。
◆1階。なにやらエジプトくさいのだ。が、これはエジプト直ではなく、フェニキア人のもたらしたものらしい。そしてローマとなる。
◆ローマ時代の推定復元の絵があったが、どこまでわかっているんだろうか。こうした歴史的都市
は、なかなか日本のように発掘調査ができるとは思えない。壁面には、このあと、ローマが衰退してa576ccbf.JPG諸施設が荒b7623c15.JPG廃している段階の絵もあったが、どっかの時点で壊すんだろうが、基礎はたぶん残っているんだろう。しかしその上に再生された都市は、石造りで、それも何度かの作り替えはあるのだろうが、いずれにしても日本の木造建築やコンクリート建築と違って寿命は長い。あるブロックを立て替えるにしても、数100年に一度くらいかもしれない。発掘調査の機会はほとんどないわけだ。近代化のなかで古いものが顔を出し、記録され出土物が取り出され、そうしたものを収集保管する博物館が必然的に生まれるのだろうが、現代都市が丸ごと遺跡で、計画的に調査しようにもできない。それはしかし地下に残っているということでもある。大阪城下町も同様ではあるが、頻度がかなり違うのだろうと感じた。

アンダルシアの旅(42)製塩

◆○○川に沿ったサンタマリア港沿いに歩いてバス乗り場まで行く。そこで2組に分かれて乗り込む。11時発。
◆この地は、製塩の盛んなところらしい。低湿地といったが、干潟風のところで、雨は少なく天日は強い。塩づくりにはf9530502.JPGうってつけということになる。バスが発車すると、すぐに塩づくりのモニュメントが目に入ったので掲げておく。実際に、カディス方面では、塩が盛り上げられている状態を見ることもできる。
◆日本じゃ、入浜式の製塩はもはやないが、スペインでは、いま能登半島などに残るような天日による製塩が、中世と変わることなく続けられているのかもしれない。その前は土器製塩だったのだろうか。近藤先生の本を読めば、なにか書いてあるだろう。
鉄道がぐるりと南へ迂回しているのと異なり、カディス湾を横切る道路ができており、車の方が早い。
◆カディスに到着。月曜日と違って、港に巨大な観光船が入っていた。14:30にカディス大学に集合ということで、そa54f2677.JPGれまで約2時間半の自由行動となる。みなさんと異なり、カミさんとカディス博物館に向かう。

アンダルシアの旅(41)28日の水曜日

◆さてと、月曜日にカディスのバス乗り場で、グラナダ行きが日に4本出ていることを知る。アルハンブラへ行けるのではないかと・・・。が、アルハンブラはガイドブックによればb9fd73c4.JPG、当日券もあるが、朝のうちになくなるそうで、ネットで事前に予約するのだそうだ。午前の部と午後の部、人数上限あり、これに加え、なんとか宮殿には30分刻みの枠を選択する。29日の木曜日にカミさんとグラナダへ行くことにして予約はしたが、帰ってこれる保証はない。アンダルシアバスの時刻表を調べると片道5時間強、なんとか、その日の23時半くらいにはサンタマリアには帰り着く。カミさんはイヤヤと言い出し、それなら、この日、水曜日に単独行をすべきだったが、前日までに予約ができなかった(ま、いろいろあったのですが)。ということで、この日は、学会のカディスツアー+ディナーに同行することに。
◆朝食時、みなゼネストで、帰りを心配する話題でもちきり。先週の金曜日だかに賃下げかなにかが発表され、労働組合が昨日(火曜日)に、29日木曜日にゼネストを行うことを発表したらしい。b2dd9f66.JPG
◆朝、セッションを終えて、11時に開場を出る。ちなみにまだ暗いのに、毎日、朝8:30から学会やるのである。そして、昼は14時から16時までが休みときている。いつもは11時にコーヒーブレイクが入るものの、8:30から14時までガッツリやるのだそうだ。
◆この放散虫の会議、3年に1度大会をやるのだそうだが、今回の世話役の人はカディス大学の先
生ということで、この日、カディスの見学となる。ほんとうはサンタマリアから蒸気船でカディスに向かう予定だったが、この日も風が強く船が出ないということでバスになる。
 

アンダルシアの旅(40)遊覧船

◆まず川下に下ってゆき、Uターンして川上に向かう。船着き場に立つのは「黄金の塔」というもの。古いセビリヤの絵0b7d83af.JPG図でも、川に面して建つ姿が描かれている。セビリヤは内陸だが、川を遡上して荷揚げcb09420c.JPGができ、ウィキによれば、「イベリア半島西岸と航路で結ばれているセビリアは、アメリカとの貿易の独占港となって繁栄を誇り、16世紀から17世紀には、スペインでもっとも人口の多い都市となり1649年には13万人を数えた」とある。
◆セビリヤ万博が1992年に開催され、そのパビリオン等の残ったものらしきものが望める。+高い展望台のようなものが建設中であった。川にはカヌーが多数。これ、大阪の大川と似たようなものなのだが、景観が違うわな~。橋もすべて設計としてもデザイン的に独特のものであった。大阪にもたくさんの橋があり、遊覧船でいくつもくぐるのだが。
◆本日はここまで。駅に向かう。サンタマリア行き発まで1時間ほど時間があり、カフェバーでちょっと引っかけて帰る。20:03発、サンタマリア21:15着。
◆よくわからんが、鉄道は真新しい駅が多い。高速道路も。こうしたインフラ整備が実はけっこう遅れていたのではないだろうか。新幹線もようやく主要都市間でできつつある。が、鉄道も、いたって本数は少ない。レンファ(renfa)というのがスペイン鉄道なのだが、いまはネットで時刻表も見ることができるので便利。スペイン語は無理でも、英語表記を選択すれば、なんとかたどることができる。

アンダルシアの旅(39)セビリヤ大聖堂

◆アルカサルを出て、正面のカテドラルに向かう。その尖塔は約100m、驚くほどに高い。そのかなり高いところにまで51d6c3f5.JPG観光客の姿が見える。ちなみに、アルカサルとカテドラルと古文書館が世界文化遺産となっている。オレたちも、と思うが入口がわからず、南にまわると確かに入口だったのだが、入館は16時までで、もう閉まっていた。ガイドブックの時間帯とちゃうやないか!
◆見て回る順番を逆にすればよかったのだが、まあ、仕方がない。この大聖堂、サンピエトロ大聖堂をのぞけば、カトリックで最大のものという。
◆さてと、ええ加減、かなり歩いてきたわけで、さてこれからどうしようか、サンタマリアに戻って飯でも食うか、といいつつ、川沿いに店がならぶとあり、グアダルキビル川に出る。16ユーロで1時間楽しめる遊覧船に乗ることにする。
 

アンダルシアの旅(38)タイル文化

◆タイル文化が目立つ。これはイスラムのもんかね~。例としてホテルの案内板を示すが、こっちレストランにしろ、トイf7002065.JPGレにしろ、客室だとか、フロントだとか、とにかくタイルに焼き、それを壁に張り込む。街に出てもそうだ。ここは何だというのに、多くタイルが使われている。これだけ需要があるから、タイルを焼く窯業も盛んなんだろう。それはセビリヤのアルカサルの壁が、幾何学的で色鮮やかに彩色されたタイルで埋め尽くされている、そうした建築技術の伝統がいまに継承されているということなんだろう。そしてそれはさらにイスラムへとさかのぼるのだろう。
 

アンダルシアの旅(37)アルカサル

◆スペイン語で城という意味だそうです。が、ここではセビリヤのアルカサル。以下、ウィキ。698c1a0b.JPG
アルカサルは、スペインのセビリアにあるスペイン王室の宮殿である。14世紀、ペドロ1世の命により、イスラム時代の宮殿の跡地にムデハル様式で建設が始められた。グラナダのアルハンブラ宮殿を意識した構造になっている。15世紀から16世紀にも増築されたため、ゴシックやルネサンスなどの様式も混じっている。

◆で、世界遺産だそうです。まあ、見ごたえはありました。実は城そのものは一周せず、半周までいかない手前で庭園の方に出て、主に庭園をぐるぐる回りました。
◆グッズもたくさんあり、日本語のセビリヤ観光案内とメモ帳などを買いました。庭にはさまざまな樹木があり、オレンジやレモンがなり、キジも放し飼い
7d9ff80e.JPGされています。8aca34fa.JPGいろんな様式の四阿なども配されています。むろん、アルハンブラもいいのでしょうが、ここも飽きずにブラブラできますよ。
◆ネットで見ると、ここを舞台にした歴史マンガも刊行されているとのことです。屋内には用いられていたタイルの展示があり、年代を見るといちばん古いので15世紀、多くは16世紀でした。
 

アンダルシアの旅(36)スペイン史(3)

◆ ボルボン朝(スペイン・ブルボン朝) 18世紀に入るとスペインハプスブルク家が断絶し、フランスのルイ14世は自らの孫、ブルボン家のフィリップをスペ イン王にしようとした。ところがそれに各国が異議を唱えスペイン継承戦争が始まった。この戦争は12年に及び、1713年のユトレヒト条約でフィリップが フェリペ5世として即位することは承認されたが、イギリスにジブラルタルを割譲。さらに新大陸におけるアシエント(奴隷供給契約)を譲り、海外での影響力 は著しく低下した。その後、オーストリア継承戦争、7年戦争に参加するがイギリス・フランス・オランダなどの新興勢力の後塵を拝することとなった。
◆ ナポレオンの侵攻 1808年、ナポレオンの侵攻を許し、カルロス4世退位。その結果ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王ホセ1世となり、カ タルーニャはフランス帝国の直轄地になる。しかし、スペイン人がそれに反発し1808年の5月ごろからスペイン独立戦争と呼ばれる内戦となる。このとき に、新大陸の植民地にも独立の動きが生じる。
◆王制復古 1820年1月、リエゴ革命が起こる。自由主義勢力がスペインの王朝を倒し、一時革命政府を樹立した。この混乱期にイスパノアメリカの植民地がスペイン王党派を破り、相次いで実質的な独立を達成する。
◆ 第一次世界大戦におけるスペイン 第一次世界大戦において、スペインは中立政策をとった。大戦中のインフレーションは、貧民層の困窮化を深めさせ、労働運 動が急速な高揚をみせた。1917年におけるロシア革命の成功は、労働運動をさらに刺激しただけでなく、カタルーニャやバスクにおける反専制・地域独立の 意識を高めさせた。都市部・農村部を問わず各地で頻発していた暴動や要人テロは第一次大戦後も続き、深刻な政治的混乱が起こっていることは明らかだった。 さらに、第一次大戦後のスペイン領モロッコにおける民族運動鎮圧に苦慮したことから、軍部の責任問題が浮上していた。
◆プリモ・デ・リベーラ独 裁 政権 こうした中、1923年9月にプリモ・デ・リベーラ将軍がクーデタを起こし政権を握った。混乱の収拾を望む世論が強かったため、共産党や急進的な労 働組合の一部が抵抗したものの、プリモ・デ・リベーラ独裁政権の成立は総じて各層から容認された。しかし、プリモ・デ・リベーラ独裁は第一次大戦直後の混 乱を乗り切るための暫定的措置として支持されたにすぎず、その独裁が長期化の様相を示すと反独裁の動きが各地で高まった。左翼勢力、地域主義政党の活動が 強まり、軍内部でもプリモ・デ・リベーラ独裁に反発する動きがみられた。こうして1930年にプリモ・デ・リベーラは退陣へと追い込まれ、新たにベレン ゲール将軍が首相の地位についた。プリモ・デ・リベーラ独裁政権の崩壊は、王制打倒を目指す共和派を勢いづけた。共和派や地域勢力はサン・セバスティアン で協定を結び、革命委員会を発足させた。1930年末の革命運動は失敗に終わったものの、1931年選挙において都市部で革命勢力は躍進、民衆の共和政を 求めるデモが各地で起こった。カタルーニャなどの地域運動も高揚した。こうした中、国王アルフォンソ13世は退位へと追い込まれたことで無血革命が成功 し、第二共和政が成立した。
◆1935年のコミンテルン第7回大会において、人民戦線戦術(反ファシズムの統一戦線)が採択されたことは、左派 勢 力の再結集を促した。当時の右派勢力の足並みが乱れていたこともあり、左派の巻き返しが進んだ。こうした中行われた1936年選挙では左派が圧勝、人民戦 線政府が成立した。
◆スペイン内戦 人民戦線政府の成立後も政治的混乱は続き、都市部ではストライキ、農村部では貧農による暴動が続いた。こう し た中、1936年7月にスペイン領モロッコへと遠ざけられていたフランシスコ・フランコ将軍がクーデタを起こし、各地で右派による反乱が勃発、スペイン内 戦へと突入した。フランコはドイツ(ヒトラー政権)とイタリア(ムッソリーニ政権)のファシズム政権から支持を受けて戦いを有利に展開した。一方、人民戦 線側はソビエト連邦から支持を受けたものの、イギリス・フランスは不干渉政策をとったために劣勢が続いた。国際義勇軍である国際旅団が各国から集まって人 民戦線を支援したが、1939年にはマドリードが陥落、フランコ側が勝利を収めた。
◆フランコ独裁 フランシスコ・フランコ・バアモンデは、 1937年に自ら組織するファランヘ党の総統となり、1939年、内戦終結後は国家元首として、その独裁は彼の死1975年まで続いた。フランコ政権はそ の成立時からドイツ・イタリアのファシズム政権から支援を受け、ファランヘ党の一党独裁、軍隊と秘密警察による厳しい支配を行った。1939年 に 始まる第二次世界大戦では、ヒットラーの要請にもかかわらず、スペインは枢軸国に入らず、参戦もしなかった。しかし、大戦終結後に成立した国際連合は、 1946年12月の国連総会で、スペインをファシストの国として国連から排除する決議を採択、フランコ政権は国際社会から孤立する。
◆一方、戦後 は東西対立、いわゆる冷戦が進行し、1950年には朝鮮戦争が勃発する。これをきっかけに、西側諸国は反共産主義という点でフランコ政権との関係の修復を 模索する。1953年9月に、アメリカ合衆国はスペインと米西防衛協定を締結。1955年にスペインは国連に加盟。1958年には国際通貨基金に加盟す る。1975年、フランコ死去。遺言によりフアン・カルロス1世が即位。独裁は終わりを告げる。
◆独裁政権の終結と現在 フアン・カルロス1世は即位後、フランコの独裁を継承せず立憲君主制の下、民主化と欧米諸国との協調を進めるようになった。

アンダルシアの旅(35)スペイン史(2)

◆アブスブルゴ朝(スペイン・ハプスブルク朝) アラゴン王フェルナンド2世とカスティー リャ女王イサベル1世の王女フアナを神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子ブルゴーニュ公フィリップ(美公)と結婚させた結果、2人の間に男子が2人生 まれた。スペインの貴族の多くはカスティーリャで育った二男のフェルナンドに好意的だったが、長男のカルロスがフェルナンド2世の死後、1516年にブ リュッセルでスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王への即位を宣言した。翌1517年にカルロスはスペイン入りしたが、スペイン語を一語も知らずに王位 に就いたカルロスは多くのスペイン人の反感を買った。1520年に南ドイツのフッガー家の援助を受けて神聖ローマ皇帝選挙に勝利したカルロスが、神聖ロー マ皇帝カール5世として戴冠するためにアーヘンに赴いた最中に、コルテスでカルロスが新たに定めた40万ドゥカットの上納金を不服としたカスティーリャの 諸都市が反乱を起こし、コムネロスの反乱が勃発した。当初、諸都市はオーストリア人の支配に抵抗する構えを見せていたが、1521年のビリャラー ルの戦いでカルロスが勝利するとコムネロスの反乱は終息した。こうしてスペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)が成立した。この時代は、ハプスブルク 家がヨーロッパで覇を唱え、「新大陸の発見」による植民地獲得によって隆盛を極める一方、スペインの利害はハプスブルク帝国全体の利害の前に沈黙すること になった。
◆1492年 スペイン女王イサベル1世の援助を受けたジェノヴァ人クリストーバル・コロンが新大陸を「発見」した。これにより、1488年に喜望峰を探検しているポル トガルと利害が衝突する怖れがでたため、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介で1494年にスペインとポルトガルとの間にトルデシリャス条約が結ばれた。 またスペインは地中海へも勢力を伸ばし1503年にはナポリ王国を獲得した。新大陸への征服は継続され、エンコミエンダ制のもとイスパニョーラ島やキュー バなどで砂金の採掘が始まった。また苛酷な労働と疫病で先住民が死亡したため、スペイン人はアフリカから黒人奴隷を新たな労働力として持ち込み、プラン テーションでの奴隷労働に従事させた。ポルトガルがインド航路を発見したことに対抗して、フェルナンド・デ・マガリャーネス(マゼラン)に新大陸周りで香 料諸島への航路を探検させた。この大航海をきっかけに、スペインは東南アジアのフィリピンを植民地にした。
◆1521年にはエルナン・コルテスが アステカ文明を滅ぼし、1520年代中にはペドロ・デ・アルバラードがマヤ文明を滅ぼし、続いて1532年にフランシスコ・ピサロはインカ文明を滅ぼし、 スペイン人によって三つの文明が滅ぼされ、アメリカ大陸本土はあらかたスペインの植民地となった。このような多大な犠牲の元、スペインには大量の銀がもた らされ、スペイン黄金時代を築くことになった。一方で、南米からの銀の大量流入で、それまで銀の産地として栄えていた南ドイツ地方の銀山は衰退し、奴隷労 働によってアメリカ大陸からスペインに流出した富のほとんどはオランダ・イギリスといった新興国に流出し、スペイン国内では蓄積も産業形成もなされずに、 これら西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積過程を支えることになった。
◆黄金の世紀 16世紀中頃から17世紀前半までの約80年間はスペイン が繁栄した時期であり、スペイン史上「黄金の世紀(Siglo de Oro)」と呼ばれる。カルロス1世はフランスのフランソワ1世と熾烈な争いの末に神聖ローマ皇帝に即位し、ヨーロッパにも広大な領土をもつことになっ た。しかし、その治世は多難でイタリア戦争ではフランソワ1世と争い、さらに宗教改革による神聖ローマ帝国の動揺にカトリックの盟主として対処することに なった。さらにオスマン帝国に第一次ウィーン包囲の脅威にさらされ、プレヴェザの海戦ではオスマン帝国に敗北を喫した。
◆次のフェリペ2世の時代 には、新大陸からもたらされた富で最盛期を迎え、マドリードに遷都しエル・エスコリアル宮殿を営んだ。さらにレパントの海戦でオスマン帝国を破り、先王の 雪辱を果たした。1580年にはポルトガルを併合したことで、ブラジルやアフリカ、インド洋に広がっていたその植民地をも獲得し「太陽の沈まぬ帝国」(ス ペイン帝国)となった。
◆最盛期を迎える一方で、足元では八十年戦争やアルマダ海戦の敗北など衰退の兆しも現れ始めていた。国内にも問題がなかっ たわけではない。アメリカ大陸から収奪した富に頼る一方で、国内は旧態依然としたままであり、王室の国庫も決して良い状態ではなかった。前世紀のレコンキ スタの精神は、反宗教改革の情熱と結びついたフェリペ2世によって全スペイン領での異端審問制度の拡大に繋がった。こうしてスペインにおいてはムスリムの 徹底した排除や進取の気風に富むプロテスタントの弾圧へと向かい、足元の産業や経済の基盤を弱めることになった。さらには、スペインの経済を支えていたユ ダヤ人の追放、改宗への強要など、これらはスペインの停滞・衰退へと向かう要因となった。
◆スペインの没落 1588年に アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると次第に制海権を失って行った。イングランドはこの後、徐々に力をつけ、1世紀ほど後の17 世紀後半には海上を制するイギリス帝国へと発展していった。カトリック信仰の防衛のためと称した異端審問や非キリスト教徒の迫害もスペインの国力を奪っ た。1609年には275,000人のモーロ人を国外に追放し、アラゴンの農業とバレンシアの経済は壊滅に陥った。フェリペ3世の頃には八十年戦争でネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)が事実上独立。スペインは、貿易や産業で重要な地域となっており17世紀前半の世界経済の中心となるオランダを失った。
◆続くフェリペ4世の治世においては、1640年にはポルトガルが独立した。その後ハプスブルク家、カトリック国として三十年戦争に介入したが、敗退した。1659年には西仏戦争の敗北でフランスとピレネー条約を締結。スペインの「黄金時代」は完全に終わりを告げた。

アンダルシアの旅(34)スペイン史(1)

◆以下、ウィキから。

◆古代 紀元前12世紀、フェニキア人がイベリア半島に進出。フェニキア人はヨーロッパで最古の都市カディスを建設。イベリア人に数字やアルファベットを伝えた。紀元前1000年ごろ、ガリアのケルト人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進入し、ギリシャ人もイベリア半島を訪れるようになる。
◆ローマ帝国時代 紀元前2世紀、ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。イベリア半島はお互いの陣営による激しい攻防戦が続けられたが、紀元前205年ローマ軍の手に落ち、その後ローマの支配を受ける。イベリア半島は、帝政を始めたアウグストゥスのもとで、三つの属州へと再編された。「パックス・ロマーナ」のもとで商品作物を栽培して繁栄したほか、帝国最大の版図を現出させたトラヤヌス帝のように多くの人材を輩出した。セビーリャやカルタヘナなどの都市部ではローマ化が進展した。また、紀元1世紀よりキリスト教がもたらされ、徐々に都市部から農村部へと浸透していった。
◆西ゴート王国の成立 415年に南下してきた西ゴート族によって西ゴート王国が建国され、南フランスのトロサ(現トゥールーズ)に都した。560年に西ゴート王国はトレドに遷都した。585年には西ゴート王国によって、現ガリシアにあったスエボス(スエビ)王国が併合された。
◆イスラーム勢力の盛衰 イスラーム勢力のウマイヤ朝は、北アフリカにまで勢力を伸張させると、さらに711年にベルベル人を率いたターリク・イブン・ズィヤードのもとでジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ上陸し、西ゴート王国を滅ぼした。一時は北部の都市まで彼らによって征服され、イベリア半島の大部分がイスラーム勢力の支配下に入り、アル・アンダレスとして716年よりウマイヤ朝の属州となった。ウマイヤ朝は、ピレネー山脈を越えてフランク王国に戦いを挑むが、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルに敗れたため撤退した。
◆ウマイヤ朝は750年に滅亡したが、756年にウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世によって後ウマイヤ朝が建てられた。この王朝は、10世紀前半のアブド・アッラフマーン3世のもとで最盛期を迎え、自らカリフを称してアッバース朝、ファーティマ朝といった他のイスラーム勢力に対抗した。10世紀後半には混乱が続き、1031年に後ウマイヤ朝は滅亡した。後ウマイヤ朝の都のコルドバは、トレドとならんで西方イスラーム文化の中心地となった。
◆後ウマイヤ朝の滅亡後、小王国分立の時期を迎えた。代表的なものは、セビーリャ王国・トレド王国・サラゴサ王国・グラナダ王国・バレンシア王国などである。これらの諸王国が結束を欠く中、1085年に西方イスラーム文化の中心地の一つであったトレドが、キリスト教勢力のカスティーリャ王国に征服されるという事態が起こった。この状況を憂えた小王国は、マグリブのムラービト朝に援助を求めた。これに応えたユースフは、サグラハスの戦いでアルフォンソ6世を破りアンダルシア地方などの支配を回復させるとともに、アル・アンダレスの小王国を統制下においた。
◆しかし、まもなくキリスト教勢力が巻き返しを図ったことに加え、イスラーム勢力の内部でもアフリカから来たムラービト朝と在地の小王国の対立が深まり、さらに北アフリカではムワッヒド朝が台頭していた。こうした中、13世紀にはムワッヒド朝によってムラービト朝は滅亡へと追い込まれ、再びイベリア半島は分権的な状況が生まれた。その後、ムワッヒド朝もイベリア半島へ進出して統一的な支配を行おうとするが、やはりアル・アンダレスの在地勢力との対立が深まったことや、1212年にカトリック連合軍とのナバス・デ・トロサの戦いで決定的な敗北を喫したことから、分裂期を招いた。徐々に台頭するキリスト教勢力と比べ、著しく結束を欠いたイスラーム小王国の多くは、レコンキスタ(再征服運動)に屈して支配下に入った。滅亡を免れたナスル朝グラナダ王国も、まもなくカスティーリャ王国への貢納を余儀なくされた。
◆レコンキスタ(国土回復運動) 当初はイスラーム勢力に圧倒されていたキリスト教諸勢力がイベリア半島北部より台頭し、「国土回復」の名のもとレコンキスタ(再征服運動)を展開した。その担い手となったのが、ポルトガル王国・カスティーリャ王国・アラゴン王国などであった。1479年、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、1492年にナスル朝グラナダ王国を滅ぼしてレコンキスタを完了させた。
◆イベリア半島における文化交流 キリスト教勢力とイスラーム勢力はイベリア半島で衝突を繰り返したが、こうした両勢力の接触は一方で文化的な交流をもたらすことにもなった。11世紀後半、イスラーム世界における西方の文化的な中心都市トレドがキリスト教勢力によって奪われたことを契機として、この地でアラビア語からラテン語へ諸文献を翻訳することが盛んに行われた。こうして、イベリア半島は西ヨーロッパ世界に先進のイスラーム文化をもたらす窓口としての役割を果たし、西ヨーロッパの「12世紀ルネサンス」を導いた。

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雲楽
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61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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