人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
アンダルシアの旅(35)スペイン史(2)
◆アブスブルゴ朝(スペイン・ハプスブルク朝) アラゴン王フェルナンド2世とカスティー リャ女王イサベル1世の王女フアナを神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子ブルゴーニュ公フィリップ(美公)と結婚させた結果、2人の間に男子が2人生 まれた。スペインの貴族の多くはカスティーリャで育った二男のフェルナンドに好意的だったが、長男のカルロスがフェルナンド2世の死後、1516年にブ リュッセルでスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王への即位を宣言した。翌1517年にカルロスはスペイン入りしたが、スペイン語を一語も知らずに王位 に就いたカルロスは多くのスペイン人の反感を買った。1520年に南ドイツのフッガー家の援助を受けて神聖ローマ皇帝選挙に勝利したカルロスが、神聖ロー マ皇帝カール5世として戴冠するためにアーヘンに赴いた最中に、コルテスでカルロスが新たに定めた40万ドゥカットの上納金を不服としたカスティーリャの 諸都市が反乱を起こし、コムネロスの反乱が勃発した。当初、諸都市はオーストリア人の支配に抵抗する構えを見せていたが、1521年のビリャラー ルの戦いでカルロスが勝利するとコムネロスの反乱は終息した。こうしてスペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)が成立した。この時代は、ハプスブルク 家がヨーロッパで覇を唱え、「新大陸の発見」による植民地獲得によって隆盛を極める一方、スペインの利害はハプスブルク帝国全体の利害の前に沈黙すること になった。
◆1492年 スペイン女王イサベル1世の援助を受けたジェノヴァ人クリストーバル・コロンが新大陸を「発見」した。これにより、1488年に喜望峰を探検しているポル トガルと利害が衝突する怖れがでたため、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介で1494年にスペインとポルトガルとの間にトルデシリャス条約が結ばれた。 またスペインは地中海へも勢力を伸ばし1503年にはナポリ王国を獲得した。新大陸への征服は継続され、エンコミエンダ制のもとイスパニョーラ島やキュー バなどで砂金の採掘が始まった。また苛酷な労働と疫病で先住民が死亡したため、スペイン人はアフリカから黒人奴隷を新たな労働力として持ち込み、プラン テーションでの奴隷労働に従事させた。ポルトガルがインド航路を発見したことに対抗して、フェルナンド・デ・マガリャーネス(マゼラン)に新大陸周りで香 料諸島への航路を探検させた。この大航海をきっかけに、スペインは東南アジアのフィリピンを植民地にした。
◆1521年にはエルナン・コルテスが アステカ文明を滅ぼし、1520年代中にはペドロ・デ・アルバラードがマヤ文明を滅ぼし、続いて1532年にフランシスコ・ピサロはインカ文明を滅ぼし、 スペイン人によって三つの文明が滅ぼされ、アメリカ大陸本土はあらかたスペインの植民地となった。このような多大な犠牲の元、スペインには大量の銀がもた らされ、スペイン黄金時代を築くことになった。一方で、南米からの銀の大量流入で、それまで銀の産地として栄えていた南ドイツ地方の銀山は衰退し、奴隷労 働によってアメリカ大陸からスペインに流出した富のほとんどはオランダ・イギリスといった新興国に流出し、スペイン国内では蓄積も産業形成もなされずに、 これら西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積過程を支えることになった。
◆黄金の世紀 16世紀中頃から17世紀前半までの約80年間はスペイン が繁栄した時期であり、スペイン史上「黄金の世紀(Siglo de Oro)」と呼ばれる。カルロス1世はフランスのフランソワ1世と熾烈な争いの末に神聖ローマ皇帝に即位し、ヨーロッパにも広大な領土をもつことになっ た。しかし、その治世は多難でイタリア戦争ではフランソワ1世と争い、さらに宗教改革による神聖ローマ帝国の動揺にカトリックの盟主として対処することに なった。さらにオスマン帝国に第一次ウィーン包囲の脅威にさらされ、プレヴェザの海戦ではオスマン帝国に敗北を喫した。
◆次のフェリペ2世の時代 には、新大陸からもたらされた富で最盛期を迎え、マドリードに遷都しエル・エスコリアル宮殿を営んだ。さらにレパントの海戦でオスマン帝国を破り、先王の 雪辱を果たした。1580年にはポルトガルを併合したことで、ブラジルやアフリカ、インド洋に広がっていたその植民地をも獲得し「太陽の沈まぬ帝国」(ス ペイン帝国)となった。
◆最盛期を迎える一方で、足元では八十年戦争やアルマダ海戦の敗北など衰退の兆しも現れ始めていた。国内にも問題がなかっ たわけではない。アメリカ大陸から収奪した富に頼る一方で、国内は旧態依然としたままであり、王室の国庫も決して良い状態ではなかった。前世紀のレコンキ スタの精神は、反宗教改革の情熱と結びついたフェリペ2世によって全スペイン領での異端審問制度の拡大に繋がった。こうしてスペインにおいてはムスリムの 徹底した排除や進取の気風に富むプロテスタントの弾圧へと向かい、足元の産業や経済の基盤を弱めることになった。さらには、スペインの経済を支えていたユ ダヤ人の追放、改宗への強要など、これらはスペインの停滞・衰退へと向かう要因となった。
◆スペインの没落 1588年に アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると次第に制海権を失って行った。イングランドはこの後、徐々に力をつけ、1世紀ほど後の17 世紀後半には海上を制するイギリス帝国へと発展していった。カトリック信仰の防衛のためと称した異端審問や非キリスト教徒の迫害もスペインの国力を奪っ た。1609年には275,000人のモーロ人を国外に追放し、アラゴンの農業とバレンシアの経済は壊滅に陥った。フェリペ3世の頃には八十年戦争でネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)が事実上独立。スペインは、貿易や産業で重要な地域となっており17世紀前半の世界経済の中心となるオランダを失った。
◆続くフェリペ4世の治世においては、1640年にはポルトガルが独立した。その後ハプスブルク家、カトリック国として三十年戦争に介入したが、敗退した。1659年には西仏戦争の敗北でフランスとピレネー条約を締結。スペインの「黄金時代」は完全に終わりを告げた。
◆1492年 スペイン女王イサベル1世の援助を受けたジェノヴァ人クリストーバル・コロンが新大陸を「発見」した。これにより、1488年に喜望峰を探検しているポル トガルと利害が衝突する怖れがでたため、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介で1494年にスペインとポルトガルとの間にトルデシリャス条約が結ばれた。 またスペインは地中海へも勢力を伸ばし1503年にはナポリ王国を獲得した。新大陸への征服は継続され、エンコミエンダ制のもとイスパニョーラ島やキュー バなどで砂金の採掘が始まった。また苛酷な労働と疫病で先住民が死亡したため、スペイン人はアフリカから黒人奴隷を新たな労働力として持ち込み、プラン テーションでの奴隷労働に従事させた。ポルトガルがインド航路を発見したことに対抗して、フェルナンド・デ・マガリャーネス(マゼラン)に新大陸周りで香 料諸島への航路を探検させた。この大航海をきっかけに、スペインは東南アジアのフィリピンを植民地にした。
◆1521年にはエルナン・コルテスが アステカ文明を滅ぼし、1520年代中にはペドロ・デ・アルバラードがマヤ文明を滅ぼし、続いて1532年にフランシスコ・ピサロはインカ文明を滅ぼし、 スペイン人によって三つの文明が滅ぼされ、アメリカ大陸本土はあらかたスペインの植民地となった。このような多大な犠牲の元、スペインには大量の銀がもた らされ、スペイン黄金時代を築くことになった。一方で、南米からの銀の大量流入で、それまで銀の産地として栄えていた南ドイツ地方の銀山は衰退し、奴隷労 働によってアメリカ大陸からスペインに流出した富のほとんどはオランダ・イギリスといった新興国に流出し、スペイン国内では蓄積も産業形成もなされずに、 これら西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積過程を支えることになった。
◆黄金の世紀 16世紀中頃から17世紀前半までの約80年間はスペイン が繁栄した時期であり、スペイン史上「黄金の世紀(Siglo de Oro)」と呼ばれる。カルロス1世はフランスのフランソワ1世と熾烈な争いの末に神聖ローマ皇帝に即位し、ヨーロッパにも広大な領土をもつことになっ た。しかし、その治世は多難でイタリア戦争ではフランソワ1世と争い、さらに宗教改革による神聖ローマ帝国の動揺にカトリックの盟主として対処することに なった。さらにオスマン帝国に第一次ウィーン包囲の脅威にさらされ、プレヴェザの海戦ではオスマン帝国に敗北を喫した。
◆次のフェリペ2世の時代 には、新大陸からもたらされた富で最盛期を迎え、マドリードに遷都しエル・エスコリアル宮殿を営んだ。さらにレパントの海戦でオスマン帝国を破り、先王の 雪辱を果たした。1580年にはポルトガルを併合したことで、ブラジルやアフリカ、インド洋に広がっていたその植民地をも獲得し「太陽の沈まぬ帝国」(ス ペイン帝国)となった。
◆最盛期を迎える一方で、足元では八十年戦争やアルマダ海戦の敗北など衰退の兆しも現れ始めていた。国内にも問題がなかっ たわけではない。アメリカ大陸から収奪した富に頼る一方で、国内は旧態依然としたままであり、王室の国庫も決して良い状態ではなかった。前世紀のレコンキ スタの精神は、反宗教改革の情熱と結びついたフェリペ2世によって全スペイン領での異端審問制度の拡大に繋がった。こうしてスペインにおいてはムスリムの 徹底した排除や進取の気風に富むプロテスタントの弾圧へと向かい、足元の産業や経済の基盤を弱めることになった。さらには、スペインの経済を支えていたユ ダヤ人の追放、改宗への強要など、これらはスペインの停滞・衰退へと向かう要因となった。
◆スペインの没落 1588年に アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると次第に制海権を失って行った。イングランドはこの後、徐々に力をつけ、1世紀ほど後の17 世紀後半には海上を制するイギリス帝国へと発展していった。カトリック信仰の防衛のためと称した異端審問や非キリスト教徒の迫害もスペインの国力を奪っ た。1609年には275,000人のモーロ人を国外に追放し、アラゴンの農業とバレンシアの経済は壊滅に陥った。フェリペ3世の頃には八十年戦争でネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)が事実上独立。スペインは、貿易や産業で重要な地域となっており17世紀前半の世界経済の中心となるオランダを失った。
◆続くフェリペ4世の治世においては、1640年にはポルトガルが独立した。その後ハプスブルク家、カトリック国として三十年戦争に介入したが、敗退した。1659年には西仏戦争の敗北でフランスとピレネー条約を締結。スペインの「黄金時代」は完全に終わりを告げた。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。