人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
松阪市歴史民俗資料館と市民病院
◆城跡を眺めると、むこうにえらいデッカイ現代の建築物がある。そのうちの1棟は高さもあって目立つ。はっきり言って、城跡
の景観にそぐわない異質なもの。あれはいったい何だと思ったら、市民病院でした。まとまった市有地はここしかないんでしょうか。昔から現在地にあったのでしょうね。城下町の遺構との関係はよく知りませんが、たぶん記録保存なんだろうと思う。城跡の整備をしつつ、一方では病院の建て替えでゴッツイビルを建ててしまうことの違和感を感じる。
◆松阪市立歴史民俗資料館は、古い図書館を利用した資料館で、企画展もやっていた。本居宣長は目玉ではあろうが、そっちは財団法人が運営する記念館があるわけだが、松阪の歴史と文化は別に本居宣長だけではない。そうした市の歴史と文化を語るには、いまの歴史民俗資料館は十分ではない。建物そのものはいいのだが、手狭だし、使い勝手も悪いだろう。望ましいのは、この古い移築した図書館を敷地内で活かしつつ、別に資料館本体ができればいいのだろうが、なかなか土地もなく、古い資料館のままということなのだろう。その一方で、病院はごっつい。
◆松阪市立歴史民俗資料館は、古い図書館を利用した資料館で、企画展もやっていた。本居宣長は目玉ではあろうが、そっちは財団法人が運営する記念館があるわけだが、松阪の歴史と文化は別に本居宣長だけではない。そうした市の歴史と文化を語るには、いまの歴史民俗資料館は十分ではない。建物そのものはいいのだが、手狭だし、使い勝手も悪いだろう。望ましいのは、この古い移築した図書館を敷地内で活かしつつ、別に資料館本体ができればいいのだろうが、なかなか土地もなく、古い資料館のままということなのだろう。その一方で、病院はごっつい。
本居宣長旧宅
◆城跡の一画に本居宣長旧宅がある。1909年に保存のために移築したのだという。移築前の跡地(写真)とともに特
別史跡なんだと。国学者って、やっぱり偉いんだ(皮肉ですよ)。小津家と改姓し、木綿問屋として豪商の家柄だったのだそうだ(小津安二郎はこの家系なのだそうな)。が、宣長の世代で家運は傾き始め、義兄の死後、宣長は小津家を継いだものの、商いはやめ、氏名を祖先の本居に戻し、町医者を営むかたわら『古事記伝』の執筆をはじめとする日本古典の研究に取り組んだということである。で、この旧宅は、子孫が明治時代まで居住していたが、1905年に宣長に従三位が追贈されると保存の気運が高まり、1909年に鈴屋遺蹟保存会の手によって松坂城二の丸跡地に移築し、宣長当時の姿に復元されたのだという。で、全体を本居宣長記念館というそうで、遺品等の資料など1949点が重要文化財になっているんだと。
◆入ってもよかったのですが、入りませんでした。400円だそうです(そんな高くはないですね)。そこそこ城には人が来ているんだけれども、この旧宅に金を払って入る人は少ないように思った。古事記を研究するなど、偉い人なんだろうけれども、明治以来、祭り上げたのだろうが、今の人はどこまで関心があるのか疑問。カミさんは、無料にして寄付金箱を置くのがいいのではないかという。それはともかく、古い町屋でも、むろんいま生活している人がいるなら別だが、そうでないものについて、残すだけではなく、人に入ってもらったり使ってもらうようにした方がいいのだろう。宣長の旧宅は一部を公開しているに留まるという。そんなに大事に大事にして残すことそのものが重要なのだろうか。
◆構造物のない城跡のなかで、移築建物があり、資料を見せる展示施設があるのは、ひとつの材料ではあるが、極論を言えば、条件が許せば、再度、元の場所に戻すのがいいのではないか。
◆入ってもよかったのですが、入りませんでした。400円だそうです(そんな高くはないですね)。そこそこ城には人が来ているんだけれども、この旧宅に金を払って入る人は少ないように思った。古事記を研究するなど、偉い人なんだろうけれども、明治以来、祭り上げたのだろうが、今の人はどこまで関心があるのか疑問。カミさんは、無料にして寄付金箱を置くのがいいのではないかという。それはともかく、古い町屋でも、むろんいま生活している人がいるなら別だが、そうでないものについて、残すだけではなく、人に入ってもらったり使ってもらうようにした方がいいのだろう。宣長の旧宅は一部を公開しているに留まるという。そんなに大事に大事にして残すことそのものが重要なのだろうか。
◆構造物のない城跡のなかで、移築建物があり、資料を見せる展示施設があるのは、ひとつの材料ではあるが、極論を言えば、条件が許せば、再度、元の場所に戻すのがいいのではないか。
松阪城
◆長らく県史跡で、国史跡になったのは平成24年というから、こないだの話なんですね。修復などの必要な手も加えて、いま
見える石垣はけっこう見応えがあります。天守をはじめ櫓など復元されたものはなく、石垣だけ
で、まさに城跡といったところだが、けっこうこれだけでいい雰囲気である。
◆そこそこ人はいた。が、あんまり滞在時間は長くはないかも。和歌山藩領で城代が派遣されていたというから、ひとつの藩の本拠としての城でなく、どっちかというと名だたる商人のいた町の方が中心といえるのかもしれません。
◆どこまで発掘調査をしているのか知りませんが、多少、遺構の写真とかを使った説明板みたいなものを配置して、城の説明を加えてもいいのではないだろうか。
◆ちなみに、石垣って怖いですよね。とくに小さい子供がいると。やっぱりへりに柵がいるのではないか。
◆そこそこ人はいた。が、あんまり滞在時間は長くはないかも。和歌山藩領で城代が派遣されていたというから、ひとつの藩の本拠としての城でなく、どっちかというと名だたる商人のいた町の方が中心といえるのかもしれません。
◆どこまで発掘調査をしているのか知りませんが、多少、遺構の写真とかを使った説明板みたいなものを配置して、城の説明を加えてもいいのではないだろうか。
◆ちなみに、石垣って怖いですよね。とくに小さい子供がいると。やっぱりへりに柵がいるのではないか。
松阪神社
◆ウィキによれば、式内社なんですね。「延喜式神名帳に記される「伊勢国飯高郡 意悲神社」の後裔社とされる。創建の年代
は不詳であるが、古くからこの地に鎮座し、国司の飯高氏が産土神として崇敬した。天正16年(1588年)、蒲生氏郷が当社の森(意悲の森)に松阪城を築城して当社を城の鎮守とし、八幡神を合祀した。」、だそうである。
◆が、もともとの場所なのではないのかもしれませんね。社殿も新しく、なんかありがたみがなかった。松阪神社の隣に本居神社というのもある。神さんになったのね。これもウィキでは、「松阪発祥の生地、四五百(よいほ)の森。本居宣長ノ宮は常緑樹が繁るこの森厳な森に包まれるようにして鎮座しています。本居大人奥墓がある旧山室村からこの森に遷座したのが大正4年。ながく本居神社として親しまれてきましたが、平成7年社号を本居宣長ノ宮と改称。」、だそうである。隣に会館があるが、自民党なんでしょうね、ポスターが貼ってある。むろん、こんなお宮に参ることはありません。で、神社に行くために迂回して城に入ったわけですが、大手口の正面あたりの城代?屋敷がいいみたですよ。
◆が、もともとの場所なのではないのかもしれませんね。社殿も新しく、なんかありがたみがなかった。松阪神社の隣に本居神社というのもある。神さんになったのね。これもウィキでは、「松阪発祥の生地、四五百(よいほ)の森。本居宣長ノ宮は常緑樹が繁るこの森厳な森に包まれるようにして鎮座しています。本居大人奥墓がある旧山室村からこの森に遷座したのが大正4年。ながく本居神社として親しまれてきましたが、平成7年社号を本居宣長ノ宮と改称。」、だそうである。隣に会館があるが、自民党なんでしょうね、ポスターが貼ってある。むろん、こんなお宮に参ることはありません。で、神社に行くために迂回して城に入ったわけですが、大手口の正面あたりの城代?屋敷がいいみたですよ。
松阪の町
◆近江もだが、伊勢もけっこう小麦?を植えている。青々と麦が育っている。9:45くらいに家を出て、12時過ぎに着いたのではなかったか。松阪は、下の娘が大阪に来るときに、レンタカーで引っ越し荷物を積みつつ、登呂遺跡やら御前崎などを見ながら西に向か
い、伊良湖崎からフェリーで鳥羽
港に入り、松阪で味噌煮込みうどんを食べたのが1回。近鉄の1日乗車券で志摩に遊びに行った帰り、夜の特急を押さえた上で、駅前の飲み屋に入り、牛肉を食べたのが2回目(確かに松阪で肉を食べた)。むろん、宝塚1号墳に行ったりしたのは別に何度かある。
◆なにも調べていないが、松阪といえば本居宣長。で町並み歩きをしようという企画。駅について地図を見て、城下町なんだということを知る(無知)。で、資料館や看板や冊子やら、どこもかしこも、蒲生氏郷が築城したと・・・。冊子を見たら、松ヶ島城があったものを、場所を変えて新たに突貫工事で築城し、けっこう逃げ出した農民もいたようなことも書いてある。氏郷自身はそのあと会津若松に転封になり、40才で死んだのだそうである(京都の墓の改修のため掘り出されたとも)。で、江戸時代はずっと和歌山藩領という。このへんが近世のわからんところですね。人口16万7000人という(伊賀市9万5000人よりかなり多い)。
◆なんとなく、伊賀上野と似た雰囲気を感じた。城下町で江戸時代には栄え、近代に鉄道が通り、駅前が新しい町として発展する。1980年代くらいまではけっこう栄えたのだろうが、いまは駅前が寂れている様子。でも、城跡をはじめ城下町に地元の人を含めて観光客はそこそこおり、またなんといっても松阪牛、牛銀と和田金という、好き焼き屋はかなり繁盛している様子でした。また古い町屋を利用した
しゃれた店やカフェや、おみやげ物屋もかなりあって雰囲気はある。われわれも松燈庵というところでお昼をいただきました。予
約でほとんど埋まっていて、カウンターでいいですかと言われて案内されたが、ちょっと席の問題があって、結局、2階の座敷でゆっくりとすることができた。これ城下町の一画なんだが、古い建物を利用した人気の店みたいですよ。われわれはタマタマの偶然ではあるが。
◆なかなか古い町並みといえるような、ある程度長く続くのは限られた一画ではあるが、単体の古い家屋はそこここに残っている。だいぶ新しい家になってしまい、そこが惜しいが、城下町、伊勢商人の町というもので、いま残っているものを大事にしながら、町おこしはできるだろう。いちばんいい雰囲気の城代?屋敷のところは、ちょっと迂回して城に行った関係で見逃した(残念、それと、はにわ館も。また出直そう)。
◆なにも調べていないが、松阪といえば本居宣長。で町並み歩きをしようという企画。駅について地図を見て、城下町なんだということを知る(無知)。で、資料館や看板や冊子やら、どこもかしこも、蒲生氏郷が築城したと・・・。冊子を見たら、松ヶ島城があったものを、場所を変えて新たに突貫工事で築城し、けっこう逃げ出した農民もいたようなことも書いてある。氏郷自身はそのあと会津若松に転封になり、40才で死んだのだそうである(京都の墓の改修のため掘り出されたとも)。で、江戸時代はずっと和歌山藩領という。このへんが近世のわからんところですね。人口16万7000人という(伊賀市9万5000人よりかなり多い)。
◆なんとなく、伊賀上野と似た雰囲気を感じた。城下町で江戸時代には栄え、近代に鉄道が通り、駅前が新しい町として発展する。1980年代くらいまではけっこう栄えたのだろうが、いまは駅前が寂れている様子。でも、城跡をはじめ城下町に地元の人を含めて観光客はそこそこおり、またなんといっても松阪牛、牛銀と和田金という、好き焼き屋はかなり繁盛している様子でした。また古い町屋を利用した
◆なかなか古い町並みといえるような、ある程度長く続くのは限られた一画ではあるが、単体の古い家屋はそこここに残っている。だいぶ新しい家になってしまい、そこが惜しいが、城下町、伊勢商人の町というもので、いま残っているものを大事にしながら、町おこしはできるだろう。いちばんいい雰囲気の城代?屋敷のところは、ちょっと迂回して城に行った関係で見逃した(残念、それと、はにわ館も。また出直そう)。
5月3日、松阪へでかける
◆GW中の休み。カミサンと松阪へ出かける。予想通り、特急はだいたい満席で、帰りの特急券を買った上で、行きは急行にする。2時間
強かかる。が、天気よく、田植えの風景をながめながら楽しく旅をする。牡丹祭り?で長谷寺に臨
時停車する。
◆榛原、名張、桔梗が丘、伊賀神戸・・・。青山高原の長いトンネル、西青山を抜け、長いトンネルを越え東青山に出ると伊勢なんだろう。東青山駅の前が「四季のさと」という公園。国分駅から急行に乗ったとき、同じ車両に乗っていた子供二人連れの家族は、ここで降りていった。大阪からなんでしょうね。また、モンベルの登山衣装を着たかっこいい女性がいたが、たぶん彼女は御在所岳に登るんだろうな~、と想像。榊原温泉口のところでは、ミロのビーナス、サモトラケのニケ、自由の女神など、へんてこりんな銅像の建つ施設があった。調べてみると、ルーブル彫刻美術館というものらしい。
◆伊勢中川で乗り換え。グーグルマップを見ていると、平行してJR名松線というのが走っている。これ、一度、乗ってみなきゃいけませんね。
◆榛原、名張、桔梗が丘、伊賀神戸・・・。青山高原の長いトンネル、西青山を抜け、長いトンネルを越え東青山に出ると伊勢なんだろう。東青山駅の前が「四季のさと」という公園。国分駅から急行に乗ったとき、同じ車両に乗っていた子供二人連れの家族は、ここで降りていった。大阪からなんでしょうね。また、モンベルの登山衣装を着たかっこいい女性がいたが、たぶん彼女は御在所岳に登るんだろうな~、と想像。榊原温泉口のところでは、ミロのビーナス、サモトラケのニケ、自由の女神など、へんてこりんな銅像の建つ施設があった。調べてみると、ルーブル彫刻美術館というものらしい。
◆伊勢中川で乗り換え。グーグルマップを見ていると、平行してJR名松線というのが走っている。これ、一度、乗ってみなきゃいけませんね。
久津川車塚5月2日
◆【岸本・道上・徳満、9:00-17:00】(1)P8にて、後円部墳頂南から前方部頂き(鞍部)にかけての部位の続き。墳頂はX-910
まですぐに到達するが、とくに東くびれ部について、下げれるだけ、標高38mまで下げる。
◆(2)次に基準点測量。P10・P11、P12・P13、そして前方部頂前端のP14の測量。
◆(3)そしてP13に移り、前方部頂の大半を測量する。
◆(4)P14に移動し、前方部頂前端部をまわしている途中で終わる。43mと42.75mまで。墳頂部としては、あと、42.5m・42.25m・42m・41.75mの4本を入れれば終了する。後円部と前方部でほぼ高さは同じ。誉田御廟山タイプと思われる。
◆(2)次に基準点測量。P10・P11、P12・P13、そして前方部頂前端のP14の測量。
◆(3)そしてP13に移り、前方部頂の大半を測量する。
◆(4)P14に移動し、前方部頂前端部をまわしている途中で終わる。43mと42.75mまで。墳頂部としては、あと、42.5m・42.25m・42m・41.75mの4本を入れれば終了する。後円部と前方部でほぼ高さは同じ。誉田御廟山タイプと思われる。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。