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なぜヤマト国は1世紀にできあがったのか

◆BC1世紀には、石鏃の大型化など、地域紛争が頻発した。北部九州で戦死者が福岡平野で少なくなり、周囲に広がっていくことに、紛争の波及のみならず、そうした紛争を経てナ国内部が統合を果たし平和が訪れたこともまた示す。
◆一方で鉄器化が進行する。オレは鉄器化の影響を認める立場に立つ。後期の地域統合の背景について、鉄器化によるものと考えてきた。だが、両者はミックスさせなあかんのかなと。吉備や出雲では、BC1世紀頃、集落は山に上がるらしいが、同じように石鏃が発達するのでしょ。で、後期になると平野部に集落が現れる。ひとまず平和が訪れた、ということ。そうして広域土器圏の形成に進む。農耕社会の成熟による必然なんだろうが、吉備や畿内や尾張ではBC1世紀の頃にそうした地域紛争に進むわけだが、そうしたさなかに鉄器が入ってくる。
◆後期社会が広域地域圏が形成された時代だとして、そしてそれは急速に進行するわけだが、その要因をどう考えるのか、ということ。地域紛争は、落ち着いても、またぶりかえしたりするだろう。とくに鉄器化以前は決定力がない。しかし弥生後期は、そんなにダラダラ戦国時代が続かない。実に急速に地域統合へと進む。
◆鉄器化が進行せず、石の武器だけの時代が続いた場合、BC1世紀の紛争はどのように推移したろうか。例えば、大和・河内・三島・和泉・豊島といった、地域圏が強固になり戦国時代が続くのだろうか。なので、Aやはり鉄器化の影響は大きい。だからこそ地域圏ができあがったのだ。Bいや、地域間紛争がそのまま畿内統合への戦争へと移行していったのであって、鉄器化はあまり影響ない。鉄器化の影響はいかに。
◆中期末は戦争が本格化すると教えられ、後期は広域地域圏ができると、その両者をあまり結びつけて考えてこなかったのだ(アホみたい)。中期末の紛争は、どこでも通過せにゃならん過程と当たり前のように考え、それがどう結果するか、ということを考えてこなかったような気がする。それをほっといて、鉄器化で広域地域圏ができあがるんだ、と考えてきた。両者をどのようにカラメテ(たぶんカラムと思うが)考えるか、だ。見通しとしては、「競合する社会へ移り変わっているところに鉄器がやってきたことで、地域内紛争から、特定勢力が畿内といった規模での覇権をめざす運動にまで進み、急速に広域地域圏を形成するに至ったのだ」、とか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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