人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
柴籬神社
◆ここへ行ったのは、大塚山から出た手水鉢を見るため。4月の見学会でも行ったが、そのとき、ちゃんと写真を撮っていなかった。きのうふと、「ごぼ石」の写真を見ていて、この手水鉢、もしかして「ごぼ石」とくっつくのではないかと思った。『書陵部紀要』の写真を見ていて、矢穴で割られた面が船の形をしていて、これってシバガキ神社の手水鉢ちゃうか、と思った次第。
◆ま、それはともかく、柴籬神社。神社の中を掘るのは難しいんでしょうね。だけど、柴籬宮跡なんて伝承について、どっちかというと根も葉もないこととは思わない。それこそ古墳時代の王宮は、反正が死んだあとも継承されていくものだろう。どっかで途絶えるにしても、どっかまではなにがしかの特別な土地利用が続き、そこに神社が営まれることは十分にありうることだろう。境内地を掘れば、掘立柱建物が出てくるのでは?。なんちゃって。
◆話は変わるが、河内国府はなにもわかっていない。瓦葺きなのに。かねてからの経験で、総社を掘れば出る。三河も武蔵も播磨も、あとは忘れた。河内の総社、ちっぽけに成り下がっていたようにも思うが、きっと、そのあたりが国衙だ。
◆ま、それはともかく、柴籬神社。神社の中を掘るのは難しいんでしょうね。だけど、柴籬宮跡なんて伝承について、どっちかというと根も葉もないこととは思わない。それこそ古墳時代の王宮は、反正が死んだあとも継承されていくものだろう。どっかで途絶えるにしても、どっかまではなにがしかの特別な土地利用が続き、そこに神社が営まれることは十分にありうることだろう。境内地を掘れば、掘立柱建物が出てくるのでは?。なんちゃって。
◆話は変わるが、河内国府はなにもわかっていない。瓦葺きなのに。かねてからの経験で、総社を掘れば出る。三河も武蔵も播磨も、あとは忘れた。河内の総社、ちっぽけに成り下がっていたようにも思うが、きっと、そのあたりが国衙だ。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。