人を幸せにする人になろう

佐紀陵山の渡土手

◆M1の院生に聞くと知らないようだったので、みなさんに知っといてもらおうと思います。右が「狭木寺間陵の墳丘外形調査」(『書陵部紀要』43、p122)にある記述です。そこから出た楯形埴輪が写真で見るものです。かつて、大正期に墳頂が盗掘された際に出た楯は、空襲で失われたのだったか、写真が残っているやつだが、それとは別に書陵部の展示図録に収録された楯類は、渡土手から出たものです。
◆左は、それを紹介した拙文の抜粋。思い込みに満ちたものかもしれませんが。場所は正確に落とされたものがないので、はっきりしませんが・・・。

大学史展示も

◆昨日の2限で、年内の授業がおわっちまった。あとは年明け、か。1月までの授業時間中で、ひと とおりやり遂げようとすると、これもスパートしないと・・・
◆このパネル作りも、従来の実習展の規模よりはるかに広い壁面なので、やってられません。1か月専属でやればできるんでしょうが。そこは、30数人の履修生にちゃんと機能してもらい、できるだけ自分らでやってもらうとともに、仕上げを効率的にやる必要がある。まあしかし、こういうのは行動あるのみ、イケイケでやらんとでけへん。

Jムークが終われそう・・・

◆第2回目の最後の画像。『都市史研究』第4号に比恵那珂を加えた。

2017年12月17日、上町台地先端部

◆です。昨日の夜から、元図は昨年作ってあったのですが、等高線をなぞったり、とほほです。

Jムークにからんで

◆画像を準備し始めて、もはや長い。今日で決着を、と思いつつ。1回目の終わりにようやくたどり着 きつつある。こういう図も、いいのがないのかな~、とおもいつつ、結局は作らないといけない。とはいえ、寄せ集めで、オリジナルとはいえないが。

なかなか仕事がはかどりませんが

◆みなさんに生かされている。なので、わたしもみなさんに迷惑をかけないよう、いろんなお役に 立てるよう、やれることをやらなければなりません。
◆2月10日、小豆島に行ってみたいのですが、行けそうにありません。
【追記】よくみたら大阪歴博や。

ヤマト国から倭国へ

◆2限の授業で質問を受け、模式図を作らなあかんかなと。で、作ってみました。

大仙古墳の年代はあんまり異論はないか

◆Sさんのよくできた編年表に、わたしのを並べて比較してみました。

伊都国王東遷邪馬台国建国説2

Kさん。初代卑弥呼は庄内1式の平原被葬者。このあと、伊都国王族と吉備王族が、諸国に推戴されて奈良盆地へ遷都したのだそうです。
◆第2代卑弥呼は庄内2式の纏向石塚被葬者。
◆第3代倭国王は庄内3式の勝山古墳被葬者で、これが中国・魏へ使いを送り、親魏倭王に任ぜられたのだそうです。那賀八幡古墳は難升米の墓。
◆第4代卑弥呼が、台与で、箸墓に葬られたのだそうです。
 

伊都国王東遷邪馬台国建国説1

◆Yさんの考え方。庄内式は3世紀初頭で、2世紀末の伊都国女王が平原の被葬者で、卑弥呼は伊都国 の出身で(平原女王の関係者)、倭国乱後に倭国王に推戴され、奈良盆地に遷都したのだそうです。弥生後期には伊都国の恒常的な政治的・軍事的攻勢により、近畿は常に緊張状態にあったのだそうです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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