人を幸せにする人になろう

2017年12月5日、展示ケースを移動する

◆5限の博物館実習で、ふたつの班が学情6階で作業するというので、前からやりたかった移動を行う。まず1階の展示ケース1ヶを6階の展示室に移動する。タイプライターなどを入れている6階廊下のケース2台を移動する。展示室内の旧図書館机を廊下に持ち出し、展示用のレイアウトをする。数週間前からの課題をやっと果たしました。

関心ある向きは・・・

・地方文化財行政に関する特別部会(第2回) 議事録
http://melmaga.mext.go.jp/c/vEG01Ot004aE

・地方文化財行政の在り方(特別部会審議まとめ)
http://melmaga.mext.go.jp/c/6gv01Ot004aE


やっぱり

◆重ねてみるともっと内側ですね。大仙の堤の輪郭線は肩なので、裾部はもっと内側ですよ。仲津山を見たらよろし。

2017年12月7日、淡輪ニサンザイ護岸工事見学会

◆13:30から1時間。前方部が西向きで、その前面側の濠側の護岸工事です。昭和40年代の護岸工事 だそうだが、この前に新しい護岸を貼り付けるとのこと(前の護岸は埋め込む)。いまの護岸をやりかえようとすると道路工事になってしまうのでしょう。
◆前の護岸の基礎までを出し、さらに新たな護岸の基礎を据える地山掘削がなされている。当日、どなたかが堤はもう少し内側だったのではないか、と発言していたが、それが妥当かな、という印象。すっかり濠が拡張され既に切り込まれ、裾部も飛んでいるのだろう。なので、新たな地山掘削もいたしかたないのだろうが、本来的には裾部が出てくるかもしれない場所で、地山面で止めて確認してという手順だとは思う。むろん注意を払って立会してもらっていると思いますけど。
◆前に墳丘側の発掘を見せてもらったときに、いまの濠が本来の底面より掘り込んでいるのではな いか、という所見を聞いたように覚えている。下段斜面を見ても、薄くしか露呈しておらず、下段斜面が濠内に深く入り込んでいるようではない。事前調査のあとで石を補った範囲くらいが、テラス面から考えても本来の下段斜面、したがってほとんどは墳丘裾部はなくなっていて、しかし現在の周濠底面はそれよりも深くなっており、ため池として底をさらに深くした改変があったのだろうと。なので、発掘ではほとんど裾は出ていないが、いちばん内側に入り込むくびれ部では確か出ていて、その基底部の高さからも、そういえる、そのへんまでは覚えています。
◆ところが『書陵部紀要』が手元にない・・・。だいたい抜き刷りをもらってきたが、最新のは65号です。これはダメですね。ちゃんと見とかないと。
◆下の写真は、護岸工事のなされた北側面。去年の工事立ち合いの見学会には行けなかったので、今日、初めて見ました。造り出しがヘンですね。水を引いて、水面下になっていた造り出しの向こう側の高まりが出ており、もちろんちゃんとした方形なんですが、あくまで護岸工事なので、手前の三角形のところに石積みがなされていて・・・

千歳車塚

◆久しぶりだ。昔、堤側を掘っている時に見せてもらった記憶がある。6世紀前葉といいたいところ だが、草深い墳丘を登っていくと、後円部の墳頂はけっこう広いし、前方部は後円部に対して低い。5世紀後葉とみた方がいいように感じる。

愛宕神社と出雲大神宮

◆愛宕神社。元愛宕というのだそうですね。昔、愛宕山に一度だけ上ったことがある。京都盆地の 北東は比叡山、北西は愛宕山、これが京都の景観。だが、もとは亀岡盆地側のものという解説があった。いまは愛宕山の山上が本宮のようになっているが、もとはこっちというので元愛宕、というのだそうである。集落背後の山のやや入った位置にある。ひっそりと鎌倉時代の本殿があり、神社らしい神社。
◆一方、丹波一の宮である出雲大神宮。753を含め、平日月曜の午前というのに、次から次へと人がやってくる。祈祷をお願いする女性が待機し、順番に祈祷してもらっている。縁結び、というので売り出してもいるよう。繁盛している・・・、と。神社も現代を生き抜いていかないといけないが、近 い場所の2つの神社が対比的で面白かった。

丹波国分寺

◆むかし史跡整備事業を進めている時に、何度か見に行ったことがある。追加指定もされ、用地買 収もされ、史跡整備を進めているよう。回廊の高まりを整備している途中のように見受けられた。◆休日になれば子供を遊ばせに来るような公園のようになればいいですね。それで十分と思うが、そういう場としていくことも、けっこう大変なんだろうな、と感じる。、

御家人

◆5世紀以降の大型円墳。大型前方後円墳被葬者とは異なり、より王権に直属する形で、軍事的役割を担うものとして編成された被葬者イメージか。こういうのをどう理解するか。で、ふと御家人という言葉が思い浮かんだ。ウィキ。「平安時代には、貴族や武家の棟梁に仕える者を「家人」と呼んでおり、鎌倉幕府が成立すると鎌倉殿と主従関係を結び従者となった者を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになった。」、と。
◆直木先生的にいえば、臣姓氏族に対して、5世紀に連姓氏族が現れてくる、ということともつながるイメージ、ということでしょうか。地名を冠し、一定地域を治める同格的臣姓氏族に対して、王権に対する役割がウジ名となる連姓氏族が、王権内に編成されてくるということとも、つながってくるのでしょうか。一方、A型とかB型の舎人軍というやつ、ぜんぜん勉強していないが、そういうことも学習していかなければならない。

2017年12月4日、丹波

◆この数年、大学院演習では、順番に発表をまわしたあと、ところどころにFWを入れている。前期 は2回行ったが、後期は、確か台風で授業がなしになったこともあって1回目はなくなったが、今回は丹波にでかけた(午後の早い目には帰ってくるようにしている)。
◆まず亀山城。いやびっくりしました。大本教の弾圧は知ってはいても、出口オニ三郎がすっかり城を買い取って、本部にしていたということを知りませんでした。明治に取り壊されるが、どこまで石垣は取り壊されていたのだろうか。そして、鉄道敷設のために石垣石が使われたという。そして、大正8年に出口が入手、石垣を構築。しかし弾圧後の1936年に、建物のみならず石垣も徹底して破壊されたらしい。それを戦後にさらに再建。なので、近世城郭とはいえ、何度もの改変を受けた姿であるわけだ。
◆一般の見学者にも開放されており、受付に言えばひとめぐり、することができる。

白石太一郎先生の傘寿をお祝いする会

◆出席のハガキをしばらく寝かせていたら(Jムークの撮影との関係)、直前になってしまい、あわ てて投函する。会場は近鉄奈良駅のビル。あんたの出席は聞いてませんと言われれば帰るつもりであったが、無事、受け付けられていたようで、テーブル名「今城塚」の席に組み込んでいただいておりました。
◆主催者あいさつのあと、3名ほどの祝辞スピーチがあるほかは、フリーで、1時間もたてば、入り乱れてくる(もちろん最後のところで先生のご挨拶はある)。
◆2次会まで行き、終了。みなさんといろんな話をした。酔いに任せてほとんどは忘れてもいいのだが、少し書き留めておくべきようなこともある。お城は近代の遺跡だ、とか。大阪の近代建築をいかに守るか、とか。削りは北陸が早いとか(Iさん、また教えてください)。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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