人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
敦賀から木ノ芽峠を越えて今庄へ8
◆まあ今回は、今庄というよりも木の芽峠越がメインイベントとなり、ほとほと歩き疲れてもお り、さらに天気も悪かった。今庄もいずれ再訪しよう。伝建になったのも新しく、普段の通りに日曜で店が閉まっている。それでも便利な場所なので、あまり空き家がない印象で、そのこと自体はよいことだ。だから、公開施設も多くはない。で、飲食ができる場所は、これからというところだろう。観光客が増えてくると、いずれは多くなっていくだろう。今庄というと蕎麦らしく、今回入ったところは、日曜で唯一開いているところだった が、普段でも6軒くらいのようです。
◆14:49発で敦賀。サンダーバードは?と見ると15:16サンダーバード26号がある。コインロッカーから荷物を出し、乗り込む。が、神戸線の人身事故で京都駅着は16:09が40分くらい遅れる。で、近鉄特急もすぐに来て、八木着18:01。河内国分にたどり着く。このころには足が痛くなっていた。
◆14:49発で敦賀。サンダーバードは?と見ると15:16サンダーバード26号がある。コインロッカーから荷物を出し、乗り込む。が、神戸線の人身事故で京都駅着は16:09が40分くらい遅れる。で、近鉄特急もすぐに来て、八木着18:01。河内国分にたどり着く。このころには足が痛くなっていた。
敦賀から木ノ芽峠を越えて今庄へ7
◆駅のなかに観光案内施設があって、最新の真新しい案内がある。よくできた図面、グラフィック もいい、ディスプレイもものすごく鮮明です。今庄の宿場町としての歴史、あとはやはり鉄道関係。旧北陸線の山中越えはたいへんな傾斜で、今庄でもうひとつ機関車をくっつけるそうである。スイッチバックも3か所にあったということだったか。
◆今庄は南北約1キロの街道沿いの街並み。そう長居をするつもりはなく、帰りの敦賀行きの電車を14:49だったか確認し、1時間あまりの散策とする。伝建の説明看板が、できたばっかりの新しさで、それを見ると、去年の選定とのこと。
◆全体として、昔ながらの町 屋がそうたくさん残っているわけではないが、宿場町らしいたたずまいを楽しめる。改めてちゃんと図を見ると、街道沿いはまばらだが、東側にいくつか保存地区がのびていて、そこの方がまとまって残っていそうである。昭和会館というところに立ち寄ると、今庄出身の偉人の建てたものらしく、その人を顕彰する展示がある。入れるところとして京藤甚五郎家住宅というところに入る。酒蔵が4か所ある。
◆今庄は南北約1キロの街道沿いの街並み。そう長居をするつもりはなく、帰りの敦賀行きの電車を14:49だったか確認し、1時間あまりの散策とする。伝建の説明看板が、できたばっかりの新しさで、それを見ると、去年の選定とのこと。
◆全体として、昔ながらの町 屋がそうたくさん残っているわけではないが、宿場町らしいたたずまいを楽しめる。改めてちゃんと図を見ると、街道沿いはまばらだが、東側にいくつか保存地区がのびていて、そこの方がまとまって残っていそうである。昭和会館というところに立ち寄ると、今庄出身の偉人の建てたものらしく、その人を顕彰する展示がある。入れるところとして京藤甚五郎家住宅というところに入る。酒蔵が4か所ある。
敦賀から木ノ芽峠を越えて今庄へ6
◆下新道からしばらくいくと、サンダーバードが。しかしすぐにトンネルに消えた。今日、歩く前 から、今庄まで歩きたいところだが、最後は南今庄から電車でもよい、と話をしていた。地図をチェックした時の記憶では(スマホの電池が切れていた)、南今庄はもう少し先のイメージだったが、むこうに集落が見え、なんとなく駅らしきものが見えてきた。
◆やっぱり駅だ。ここが南今庄か。15分20分くらいで電車があれば乗ろうと駅のホームに行く。ダイヤを確認すると、この時間帯では1時間に1本だが、福井方面12:50南発が あるではないか。
◆ここまで約21キロくらいは歩いたか。6時間と10分、久しぶりによく歩いたものである。ひと駅、電車に乗り、今庄で下りる。目の前に蕎麦屋の名前が見える。おなかが減ったので、そこへ入り、蕎麦、そしてビールを頼む。いったんはずぶ濡れとなったが、その後の歩きで、だいぶ乾いた。
◆やっぱり駅だ。ここが南今庄か。15分20分くらいで電車があれば乗ろうと駅のホームに行く。ダイヤを確認すると、この時間帯では1時間に1本だが、福井方面12:50南発が あるではないか。
◆ここまで約21キロくらいは歩いたか。6時間と10分、久しぶりによく歩いたものである。ひと駅、電車に乗り、今庄で下りる。目の前に蕎麦屋の名前が見える。おなかが減ったので、そこへ入り、蕎麦、そしてビールを頼む。いったんはずぶ濡れとなったが、その後の歩きで、だいぶ乾いた。
敦賀から木ノ芽峠を越えて今庄へ4
◆新保を抜け、現道と交差し、それを横切って山道に入ったのは9:30くらいか。ところどころ、北陸自然歩道の巨大な看板があり、峠まで1.6キロとかの標柱もある。谷底に木の芽川が流れ、谷もけわしくなる。
◆峠についたのは10:15くらい。山道の草を刈ってくれていて、その葉っぱが新鮮で、昨日あたりに草刈りをしてくれたのかなと思っていたが、峠の茶屋におじさん3人が座っていて、これが草刈りの格好であった。われわれが登る直前に草刈りをやってくれていた。
◆この峠には福井藩の指名した?前川家が茶屋兼番人となり、このあいだまでおられたそうだが、おじさんたちの話では81歳で亡くなられ、閉まってしまったとのこと。福井県側はスキー場となっていて、そこから北陸街道をたどる道も調べておいた。ちゃんといけるかどうか不安で、いざとなったら、北国街道に下ることも考えていたが、なんとか行けそうである。峠から尾根に近い道を北上すればよいとふんでいたが、不安になり、スキー場施設の管理道路に下り、そこから二ツ屋への道を下る。
◆峠についたのは10:15くらい。山道の草を刈ってくれていて、その葉っぱが新鮮で、昨日あたりに草刈りをしてくれたのかなと思っていたが、峠の茶屋におじさん3人が座っていて、これが草刈りの格好であった。われわれが登る直前に草刈りをやってくれていた。
◆この峠には福井藩の指名した?前川家が茶屋兼番人となり、このあいだまでおられたそうだが、おじさんたちの話では81歳で亡くなられ、閉まってしまったとのこと。福井県側はスキー場となっていて、そこから北陸街道をたどる道も調べておいた。ちゃんといけるかどうか不安で、いざとなったら、北国街道に下ることも考えていたが、なんとか行けそうである。峠から尾根に近い道を北上すればよいとふんでいたが、不安になり、スキー場施設の管理道路に下り、そこから二ツ屋への道を下る。
敦賀から木ノ芽峠を越えて今庄へ3
◆8時ごろ、獺河内にさしかかった頃から雨。ちなみに朝、敦賀駅のコインローッカーに荷物は預 け、コンデジくらい。傘も持ち出さなかったのは大失敗。かなり濡れながら、北陸道が川を越すところで雨宿りを10分から15分くらい。雨雲レーザーをチェック。再び歩き出す。
◆葉原に至る。小学校が跡地になり、二宮尊徳像がある。役所や小学校の統廃合が、この国をだめにしている。葉原を北上すると旧北陸本線となるが、北東に向かう。木ノ芽峠ふもとの新保をめざす。このへんが標高300mで、木の芽峠は630m で、約300mの谷沿いの山登りである。
◆新保でまた雨が降ってきたので、バス停の小屋に逃げ込む。歩き始めたのは9:15くらい。ここは、天誅組の変(1863年、8月17日に五条代官所を襲撃、9月27日壊滅)、生野の変(10月12日、すぐに瓦解)に続き、1864年の3月27日に筑波山で決起した天狗党の乱が、最終的に武田耕雲斎ら1000人ほどが京都をめざし、岐阜から越前大野を経由し、敦賀をめざすが、最終的に12月17日に降伏した場所である。
◆葉原に至る。小学校が跡地になり、二宮尊徳像がある。役所や小学校の統廃合が、この国をだめにしている。葉原を北上すると旧北陸本線となるが、北東に向かう。木ノ芽峠ふもとの新保をめざす。このへんが標高300mで、木の芽峠は630m で、約300mの谷沿いの山登りである。
◆新保でまた雨が降ってきたので、バス停の小屋に逃げ込む。歩き始めたのは9:15くらい。ここは、天誅組の変(1863年、8月17日に五条代官所を襲撃、9月27日壊滅)、生野の変(10月12日、すぐに瓦解)に続き、1864年の3月27日に筑波山で決起した天狗党の乱が、最終的に武田耕雲斎ら1000人ほどが京都をめざし、岐阜から越前大野を経由し、敦賀をめざすが、最終的に12月17日に降伏した場所である。
敦賀から木ノ芽峠を越えて今庄へ2
◆北陸街道については、奈良時代は山中峠を越え、海岸線を通るルートだったそうだ。 それが830年に木ノ芽峠越えのルートが開発され、紫式部もここを通ったのだとか。
◆6:30スタートする。巨大な新幹線の新駅の工事が行われている敦賀駅の北側を東に進み、6:45踏切を横断して線路の南にまわり、木ノ芽川に出 て(下の写真)、そこからは基本的に川沿いを進む。天気は曇っていて熱くないのはよいのだが、雨が降ってきそうである。
◆7:25樫曲。当初は越坂を抜ける正式ルートを考えていたが、木ノ芽川沿いの国道476とする。旧北陸本線のトンネルなどが、まとめてなんとか遺産になっていて、その看板があちこちにある。道路となっているトンネルもひとつくぐる。現在はこれらは日本遺産になっている。
◆6:30スタートする。巨大な新幹線の新駅の工事が行われている敦賀駅の北側を東に進み、6:45踏切を横断して線路の南にまわり、木ノ芽川に出 て(下の写真)、そこからは基本的に川沿いを進む。天気は曇っていて熱くないのはよいのだが、雨が降ってきそうである。
◆7:25樫曲。当初は越坂を抜ける正式ルートを考えていたが、木ノ芽川沿いの国道476とする。旧北陸本線のトンネルなどが、まとめてなんとか遺産になっていて、その看板があちこちにある。道路となっているトンネルもひとつくぐる。現在はこれらは日本遺産になっている。
だいれき部会報告
◆当日になりました。パワポがひととおりできたのが、今朝6:15でした。 結局はしかし、提出資料は、必要な図面を作るところまでで時間切れとなり、文字レジュメは、1頁目に目次をつける程度になりました。画像は、はじめのところあたりの、レジュメ用に筋を書いていたものですが、こういうのもまったく資料に組み込めませんでした。
◆また御墓山の評価について、うろうろしていましたが、改めてやってみると、陵山でええやん、という結論になり、中期は扱いませんでした。
◆久しぶりに阪急に乗り、神戸大学にでかけました。1435から1535まで1時間ほどしゃべりまし た。こういう機会をもらって勉強すると、いろいろ進んでいくものですね。前から考えてきたことについて、大きく変更は要しませんが、設計を考えることで、根拠を与えることができるようになる、というところでしょうか。佐紀陵山型は、わりあいと指摘でき、早くからやってきたゆえに、ちゃんと詰めていなかったことなどが、明確になりました。
◆さて、7月のことを考えなくてはなりません。まずは6月末までの科研の終了報告。7月は、中四国前方後円墳研究会の準備会の構想発表、古文書プロジェクトの近代文書の資料紹介、考古学研究会関西例会の発表と、休ませてはもらえません。でも、ここ数日のあとかたづけから。
◆また御墓山の評価について、うろうろしていましたが、改めてやってみると、陵山でええやん、という結論になり、中期は扱いませんでした。
◆久しぶりに阪急に乗り、神戸大学にでかけました。1435から1535まで1時間ほどしゃべりまし た。こういう機会をもらって勉強すると、いろいろ進んでいくものですね。前から考えてきたことについて、大きく変更は要しませんが、設計を考えることで、根拠を与えることができるようになる、というところでしょうか。佐紀陵山型は、わりあいと指摘でき、早くからやってきたゆえに、ちゃんと詰めていなかったことなどが、明確になりました。
◆さて、7月のことを考えなくてはなりません。まずは6月末までの科研の終了報告。7月は、中四国前方後円墳研究会の準備会の構想発表、古文書プロジェクトの近代文書の資料紹介、考古学研究会関西例会の発表と、休ませてはもらえません。でも、ここ数日のあとかたづけから。
8月攻勢
◆次は久津川中間報告書です。8月にあらあら作ってしまい、秋以降仕上げていくイメージで進めたい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。