人を幸せにする人になろう

耕さない

◆1週間前くらいの新聞だったか、穀物の話だったように思うが(それ以外も?)、耕さない方が収穫がよいとの話が紹介されていた。稲でいえば、田植えの前に固くなった耕土を耕起し、ということをしないということ。その方が、耕土に蓄えられている養分が失われない、といった話だったように記憶する。へ~え。

古文書科研

◆10月の1日(土)、本日の2日(日)、行楽日和!。が、研究室で科研の申請書を書いています。しかも近世文書の。さまざまな経緯はあれ、感慨深いものがあります。なかなか通らないでしょうが、しかし、自分として、納得できるものを書き込みたいと思います。
◆日曜日に研究室で仕事をするのは、これで最後にしたいもの。今日も、朝起きても、なんだかしんどい。疲れが取れていないわけです。どこか訪ねたり、博物館の企画展を見に行ったりする、そういう楽しみを、ちゃんと入れていきたいと思います。
◆金曜日に高松に行く話がある。もともとは、次の土日は函館の娘のところに行こうという計画を立てていた。が、飛行機をとっていないし・・・。さてどうするか。
◆母の入っている施設の面会も再開しているので、顔を見に行きたいもの。

ただ白骨のみぞ残れり あわれといふも、なかなか疎かなり

◆父の3回忌に、講話のなかで、蓮如の言葉が紹介されました。
◆焼き場で骨を拾う。小さい頃、祖父母などのお葬式はあれ、記憶は不確かながら、焼き場まで行くが、そこで帰されたように思います。われわれの父母世代は概して兄弟も多く、骨を拾う場面には立ち会ったことがないように思います。つまり、人が死んで、焼かれて骨になった姿を見たことは、なかった。それが数年前、立て続けに3人の父母を見送りました。
◆ただ白骨のみぞ残れり、です。

田中琢さん(3)

◆そんなんで、仕事上、あまり接点はないままであった。佐原さんとは、廊下で顔をあわすと、「なんとかさんの論文、あれはどうなん」みたいな話を振ってこられ、しばらく話をしたりすることもあった。佐原さんも、途中で歴博に出られたが。
◆さて、田中さん、自分にとっては、けっこう憧れ?、でした。考古学とナショナリズムを論じたものや、文化財保護の話など、そういう田中さんしか書けない、今日的な問題意識のもとに書かれたものを読んでは、刺激を受けていた。勝手にシンパシーを抱いていたという面がある。むろん研究者なのだが、文化財行政官のスペシャリストでしたね。
◆かつての上司、考古第3室長のYさんの言葉を覚えている。「タクさんは、風呂に入っていても、奈文研のことを考えているような人だ」、と。
◆最後に。既に引退して考古学の本なども読まないんだろうという時期に、『倭人争乱』で書いていることを批判する文を書いている時、ちょこっと顔を思い浮かべたものです。
◆学問的な話をする機会があまりなかったのは残念です。もひとつ思い出した。確か三角縁の話で、「あんたら、研究組織の研究者でない市井の研究にあまりふれないが、そういう研究にも重要なものがあり、ちゃんと取り上げなあかんぞ」みたいなことを、ある時、言われたことがありました。

田中琢さん(2)

◆奈文研センター長、滋賀県担当者、八日市市担当者の取り扱い協議の場に、わたし、ちょこんと座っていたわけです。
◆田中さん。「八日市市もこのあとの調査予定もあって、継続できない。埋め戻すわけにもいかんから、ま、大学やな」。で、「お前のとこ、どうや」と振られ・・・。ここまで書いてくると、以前にこのブログで書いたような気がしてきた。老人なので勘弁を・・・。結局、都出先生に話をもっていくことになったわけだ。そこからの阪大の体制整備、準備、着手というのは、たいへんなことだったであろう。都出先生から加わらないかと声をかけていただき、再開初日から現地説明会あたりまで第1次調査に参加した。
◆で、翌年1990年、奈文研の試験を東博で受け、面接に進み(これは奈文研?)、田中さんから、「お前、古墳の調査はでけへんけど、ええんか」みたいな質問を受けたような気がする。
◆就職したが、3階のセンターと2階の平城調査部は、日常では接点ない。次は、1996年である。所長になっていた田中さんに呼び出され、「お前、4月から東京に行ってくれ。Iが戻ってくるんやけど、古墳時代のやつが欲しいというてんねん」。こんな通告を手短に告げられ、有無を言わさず決定。4月に新築なるマンションをローンを組んで入居する直前だった。

田中琢さん

◆ちょっと前に奈文研の人から、亡くなったことを聞いた。その後、新聞にも出た。
◆田中琢さんと初めて、電話だったが話をする機会があったのは、大学4年の卒業した頃だったか。だから1987年。三角縁の論文が世に出たのは翌年?だったか。
◆で、1989年8月末か9月はじめか、電話がかかってきた。M2。「あのな、滋賀県で三角縁が出てるねん。見に行くか。いついつやけど。」と。「はい、いけます」。「〇時に滋賀県庁に来て」。こんなところか。このあたりは、雪野山の調査20周年?かなにかの後援会記録に書いたような・・・。文化財保護課に行き、滋賀県の公用車に乗る。どこに行くか知らされておらず、車の外をながめていると、龍王インターで降りた(のだろう)。少し前まで、雪野寺の発掘でそのへんにいたところではないか。山を登ったんでしょうね。石室が口を開け、床面の棺床の凹部の埋土のみになったところまで充満していた土が除去され、一部、横断したサブトレが入り、そこに鏡がのぞいていた。
◆わたしは下に降り、鏡片を取り上げると、藤崎と同笵の盤竜鏡だった。内行花文鏡は表を向いていたのだったか。で、もう1面の鏡片を取り上げると、わたしにはわからん世界。三角縁ではない、和製鏡の図像だった。田中さんは、それを見て、ダ龍鏡やな、と。
◆八日市市が展望台整備のための確認調査をやっていたわけだ。で、そのあと、八日市市役所で協議に入る。このあたりのことは、まだ活字にしたことはないと思う。

2022年9月24日、久津川現説終了

◆前日は雨だったが、学生らが午後出撃してくれ、水抜きをやってくれました。おかげで、当日朝 からは、ただちに清掃に入り、10時開始までに準備できました。
◆現説資料は、いま完成版が手元になく、また後日。資料の最後で、編集者から横断面を求められたので、作成した図をアップしておきます。

文化財保存活用地域計画

◆最新の『月間文化財』を見ていると、文化審議会で新たに20市町の計画が認定されたそうです。近隣で言えば、栗東市・与謝野町・高槻市・八尾市・神戸市・福崎町がある。

2022年9月3日

◆この土日、できていない雑件、追いつかないといけない案件、なんとかそれらを処理しようと思っています。で、午前中はなんとかやってましたが、12時にディスプレイが映らなくなり中断。いろいろやってみてもダメ。ケーブルを買いに行って、HDMIにしてもダメ。ほとほといやになる。院生が来たので、院生室のディスプレイを借り、いろいろ実験をやって、なにがダメなのかを追究する。結局、ディスプレイへの通信の選択の問題、ちゃんちゃん。なぜ急に映らなくなったのかはわかりませんが。復旧したのは1730。まあ、ここから頑張りますか。

久津川車塚古墳2022

◆協力している久津川車塚古墳の今年度の調査は、はじめてJR線より東側における調査になります。8月22日から26日に機会掘削、学生らは29日から入りました。雨も多く、第1週では2日中止となりました。9月はもろもろ行事等が入っていて、ほぼいるというわけにはいかないようです。29日からの第1週では、大学院入試などがあり、行けたのは初日と金曜日の午後くらいでした。
◆9月24日(土曜日)に現説予定となっています。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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