人を幸せにする人になろう

茄子作で須恵器窯

◆現説の案内をいただきました。本日午後です。見とくべきですね。が、心に余裕がない・・・。

播磨学研究

◆昨年、1回講演をして、神戸新聞社から講演録の本が出版された。連続講演会の主催は播磨学研究所で、雑誌『播磨学紀要』も送っていただいたことがある。いや、こういう民間団体ができているのがスゴイです。興味関心はいろいろで、それぞれに研究会グループができあがっているが、そうした有志による任意グループは地域にいろいろあるだろう。そういうものが一緒になった「播磨学研究所」というのが形成されていることがすばらしい。もともと、複数あったグループが一緒になったのか、会員の中で勉強の対象とするいくつかのグループができたのか、それは知らない。
◆いずれにしても、播磨の歴史や文化に興味ある人が集う人たちが、こうして緩やかに?結集する組織が、公でなく民としてできあがって活動している。

石山古墳の測量図

◆大歴大会報告時に、石山古墳について三重県の測量図をトレースをした。ミエムの地域展で、この測量図も大きく引き伸ばしたものがぶらさげてあったが、これは納品された測量図の画像が原稿なんでしょうね。
◆いろいろと加工したりさわろうとすると、自分のイラレデータとしておきたいわけです。確か宝塚1号墳もやったような気がする。というか、こっちの方こそ、報告書がなく、整備事業報告書しかなく、太く復元線を入れたものしかなくて、きれいにするには再トレースするしかなかった。

伊勢湾を見に行く

◆なりゆきで河芸漁港に向かう。そうか海鮮丼とか食べられるかなと。がそういうのはなくほんとの漁港でした。でせっかくなので海を見る。志摩半島の先、その左には島がいくつかあって、三河半島の先だろうというのがよく見える(写真は愛知方面を見たものなので違いますが)。
◆瀬戸という「うどん屋」で昼を取り、白子の伝統工芸館に再度行く。それから鈴鹿市の古墳や考古博物館、伊勢国府長者ヶ原遺跡。これで終了だったかな。

2025年11月3日(祝)三重見学会

◆翌日、9時集合だったか。津城をざっと見て、ミエムの速報展。
◆まずは企画展示室に入ると、手前に地域展があり、奥が列島店だった。地域展では伊賀の古墳の資料がならんでいた。これ、図録を作ってほしかった。8頁もののリーフレットのみ。もったいない。プリントパックでいいのに、と。で速報展。
◆次いで、常設展でなく基本展示室だったか。前に来た時は、あんまり面白くなかったという印象をもってしまっていた。が、こういう自然史系と人文系を完全分離でなく融合的に展示を、今回はけっこう楽しめました。まあ、考古系はわずかという点だったんでしょうね。それはそれとして、廻船の話や、御師など、いろいろと勉強になる。

まずい遅刻する

◆話が盛り上がり、時計をチラチラ見始める。そろそろ出ないと、と。ようやく切り上げて、国道で南下し三重大学入口に着く。が、今日は学園祭。大学の駐車場が使えないと立ち番の学生に言われ、附属病院の駐車場に置いてくださいと。で、完全にまわりかたが逆になり、ぐるっと一周して駐車場に。残り10分もない。いまどこや、会場はどこやと確認しつつ、足早に開催棟をめざす。この3階。すべりこんだのは1分前を切っていたか。
◆やれやれ、大幅な遅刻をせずに済んだ。
◆終了後、津駅前で懇親会。3時間近くやってたのかな。でまだ21時。4人で2次会に。

伝統工芸館

◆次いで伝統工芸館に行く。伊勢の墨と型紙のふたつを取り上げたもの。展示、作品ギャラリーがあり、また型抜きの体験ができる。ラッキーなことに、墨でなく、型紙切りの技術をもつ方の実演の日であった。この方には、結局手を止めてしまうことになったが、けっこうな時間話をうかがうことができた。
◆切り方にもいろいろあり、半円形の彫刻刀をくるりと回して円形に抜く作業をされていた。切り抜いた、柿渋色の0.5mmくらいの円形が散らばっている。われわれより上 の世代は型紙で食っていた人たち。しかしいまは和服を着る人が少なくなるとともに、営業的にやっていけるほどの恒常的需要はない。0でもない。このままでは着物を伝統的方法で染めるための型紙が衰退してしまう。その技術を守っていこうという有志のみなさんが、それぞれ別に職をもちつつ技を競い、染色用ばかりでない使い方なども模索しながら、技術を保持されている。
◆型紙をドアのガラスに貼ると、とてもおしゃれです。まあしかし、そこは1枚を仕上げるのに1ヶ月といった日数がかかり、その人件費からすると、1点22万円といった価格も仕方がないですね。手拭いを買うくらいがせいぜい。とはいえ、とても楽しめる場所でした。

白子の型紙資料館(続)

◆資料館は伊勢街道に面する。この街道がまたよい。ところどころに町屋が残る。もったいないので、国道23号線でなく、旧道を進みたいもの。
◆資料館では、まずはビデオを見る。これ、けっこう昔の、例えば1980年代くらいなんだろうか、の記録映像をもとにしたもののようです(年代はあたっているかな)。型紙の紙そのものを作る人、切り抜く人、糸を貼る人、ベテランのみなさんの仕事ぶりがわかる。建物自体が文化財なので、型紙の実物や歴史は蔵を利用して展示している。寺尾家にある古い型紙もあるが、いまその技術を残していこうというみなさんの作品も入っていたと思う。

2025年11月2日(日)三重大学で四校交流会

◆年1回の4大学合同卒論発表会。今年は三重大学。日程確定とともにホテルは取っていた。懇親会に出ても近鉄で帰ることはできるのだが。で、考古の見学会をこれにひっかけて、3日とした。
◆開始の13時まで、朝カミサンと出て、白子の型紙資料館に行く。三木の型紙を知り、わたしは覚えていないが、型紙といえば伊勢というのをカミサンは知っており、それが白子だったわけです。鈴鹿市の古墳の調査指導で、年1回、白子駅に下り立っているが、そんなことは知らなかった。で、3日の見学地のひとつに入れてくれるよう学生には伝えていたが、2日に行ってしまったわけです。
◆白子村・寺家村ともうひとつの3箇所に集中していて、問屋仲間を作っていた。以下は鈴鹿市のHPから。「伊勢型紙資料館は、江戸時代末期の建物で白子屈指の型紙問屋であった寺尾斎兵衛家の住宅を修復して、平成9年に開館しました。寺尾家は江戸時代から伊勢型紙の生産から販売までを行い、行商範囲は東北地方から関東一円にも及んでいました。寺尾家住宅は、型紙関係の商家としてまた町家建築の代表例として、市史跡に指定されています。」

播州清水寺

◆最後に加東市の清水寺に行く。むかし小野市の市史編纂にかかわっていた時に、巡検でここを訪ねた記憶がある。山の中にあり、中心的な建物がかなり大きく、縁を歩いていてスゴク立派なものという、けっこうな強い印象を受けたことを覚えている。それが、この清水寺だと思っていた。
◆が、訪ねてみると、違うように思ったわけです。確かに根本中堂や講堂、奥の塔跡など立派な寺院なんだが、記憶とは違うと。何が間違っているのだろうか。いちばん考えられることは、自分の記憶が怪しいということだろう。思い込みが強く、そこが確かな記憶ではないのだろうと。
◆同じことが前にもあった。朽木の寺である。昔、若狭向山古墳の発掘をしている時、泊り+京都から通いでやっていて、朽木を抜けていると、若狭にむかって右側に立派なお寺があった・・・という記憶があるのだ。その後、この寺が、室町期に将軍が逃れて滞在した寺に違いないという思い込みも加わる。で、何年か前に朽木を抜けた時、朽木付近の道の南側の木立のなかに古刹がある、と探し求めるも、ついに見つからなかったわけです。
◆さて清水寺の場合は、前に見たのは別寺院なのか、清水寺だが頭の中でお堂の立派さが拡大したのか、どちらなんでしょう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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