人を幸せにする人になろう

◆なかなかいい写真が残っている。カメラマンが記録していたらしい。この写真は1953年。説明によれば、馬喰から買った黒牛を、家々で飼っており、夕方?になると海の浜に連れてくるという話だったような。その時の写真だそうです。立派に育ててやれば、何万円かになった、と。

次は産業

◆海産物。漁業は食っていける。海女さんだけでなく海士さんがけっこういるようだ。牛はいまは1箇所だけになってしまった、ということだった。
◆農業。昔の段々畑の写真が美しい。縦写真の画像は展示パネルだが、こんな急傾斜地に畑が開かれている。ここで主に芋、そして麦を作っていた。それが右のグラフのように、戦後ミカン畑になる。なお、漁業のところに海藻取りの画像があり、ガイドさんがこれは肥料にしたんです、と。乾燥させて砕き、それを畑の肥料として鋤き込んでいたらしい。アイスランドでは、岩盤に海藻を敷いてやはり芋を植えていたのだったか?。
◆そのミカンも80年代から下り坂。だいたい自分の感覚とあっている。むかし小・中学校の頃、冬になると箱でミカンを買っており、「食べ過ぎ」といわれるくらい食っていた。お菓子なんぞ、あまりなかったし。みかんの特産地は和歌山や静岡などほかにいくつもある。そのなかでも、愛媛の出荷額がいちばん落ちていると聞いたことがある。まだ和歌山は頑張っているのだとか。和泉も盛んだったが、放棄地が多くなっていますね。

伊方町立の佐田岬半島ミュージアム

◆佐田岬半島の中間くらいの、北側の瀬戸内海を見下ろせる景勝地に道の駅ができ、ミュージアムが併設されている。ミュージアムに入る前に遅い昼を取った上で、博物館に入る。ガイドのおじさんがおられ、熱心に解説していただき、長い時間滞在した。
◆まずは地質。三波川帯の緑がずうっと通っているでしょ。
◆ガイドの方の話は、昔は1.2万人が住んでいたのが半分になってしまった、というところから始まった。そこで、2022年5月に三崎港で「しらす」を食べた「はなはな館」をオープンさせ、2023年5月にこのミュージアムを開館させた。また以前からあった温泉施設を、廃止させずにリニューアルオープンさせたところだ、という説明であったか。観光客を引き込み、移り住む若い人を呼び込もうと力を入れている。そういうことを熱く語っていただきました。

名取の石積み景観

◆岬から引き返し、佐田岬半島ミュージアムにむかう。途中、「名取 石垣の集落」という案内があったので、いま高いところを通っている国道から分岐して、村の方へ進む。佐田岬半島は、とにかく隆起した急傾斜のとんがりが海から突き出していて、そういうところにもかかわらず、瀬戸内側・太平洋側、それぞれ斜面地に家があり村ができている。
◆名取村の小学校跡地が駐車場となっていて、そこから細い道を降りていく。お宮さんがあり、客神社という名前で、村人が集まって神事が行われていた。
◆この名取、宮城県の名取から、馬を飼育する職人を連れてきて、住まわせた集落だそうな。たらららら~、たらららら~。けっこう上下に村が展開している。
◆2年前に長崎の外海に行った時、世界遺産にするのに、同じように石垣の集落として文化的景観になっていた。斜面地に石を積んだ集落景観としては同じである。

御籠島から見た佐田岬灯台

◆御籠島まで進み、振り返った佐田岬半島突端の写真です。いまはその間にコンクリートのプールがあり、地続きとなっている。漁港が作ったもので、アワビとかサザエとか伊勢えびなどを入れていたとか。
◆椿山・御籠島とも軍の砲台があり、見学できるよう整備されていました。昨年、新聞でも紹介されていました。

佐田岬

◆佐田岬の先端は二股に分かれ、そのマタのところにあるのが三崎港。北側が長く伸び、最西端となる。手前の駐車場に車を停め、山の北側をまわる遊歩道で先端に進んだところからの写真である。ここからいったん下り、見えているのが椿山というもので、再び上り。さらにその先に御籠島があり(横にちょこっと見えている者)、いまは地続きになっている。
◆まあ、三波川帯の結晶片岩で、岩橋千塚の山塊で見る緑の変成岩の岩盤が、山の斜面を削って作られた遊歩道の壁面に露呈している。また展望できるポイントから山の斜面を横から見ると、上部には土壌があり黄色系なのだが、裾の急傾斜部は岩盤が露呈していて、これが緑なのである。
◆写真の右側が瀬戸内海、左が太平洋となる。むかし、スペインのタリファという町に行き(ジブラルタルはより東)、こっち地中海、こっち大西洋という表示を見たことを思い出す。

翌日は佐田岬をめざす

◆2月11日は愛媛マラソンで930から交通規制が始まる。8時に出発し、佐田岬をめざす。佐田岬半島は長さ41キロメートルあるそうだ。八幡浜を通り、三崎港に。1時間に1本、佐賀関との間でフェリーが運航されており、70分で大分に行ける。その横にきれいな店ができていて、昼ごはんには早いので、しらす刺身とかき揚げを食べる。
◆停泊していたフェリーが出航していきました。
【メモ】いま、姫路・御着のコメダにいるのですが、バッテリーがなくなってきたので、いったんやまめす。壇場山古墳の横です。

宇和島市の歴史資料館

◆そのあと海寄りにある歴史資料館に行く。残念ながら閉まっていました。改修工事中のよう。その隣の台場跡を見 る。
◆宇和島を離れ、西予(せいよ)市のデンケン「卯の町」に行くも、夕刻。また明日ということで、松山に戻り、泊。
◆八幡浜とかで泊まりたいところであるが、愛媛に来たので、E大学のYさんと飲みということになっている。19時に約束し、大街道の予約してくれた店に入る。

宇和島伊達博

◆城から降りて、次に伊達博物館に行く。隣には庭園がある。ざっとみる。企画展で家紋をやっていて、けっこう有名な豪華な箱があり、西予伊達家の紋があしらってあるのだが、これ以外にも関連の紋がちりばめてあるもの。九曜紋もあり、細川やんかと思ったが、伊達政宗が細川家からもらったのだとか。古い時期は、家紋は、由緒ある家筋のものをもらったりするもの、だったそうです。
◆この博物館、1970年ごろにできて50年が経過し、立て直しの計画中のよう。完成のパース絵がある。この市側の意向に対し、反対の意見もあるとのこと。

城内の郷土館

◆本丸に近づいたところに分岐点があり、まず天守方向に行ったが、戻りに、この分岐点の反対側にある郷土館をのぞく。施設は古そうだが、パネルは新しく、やりかえたらしい。宇和島の人材を取りあげたもの。
◆人物の展示は必要ですね。近世の人もちょこっとあったかな、多くは幕末以降だったか。大阪と関係が深い人物としては土居通夫。鴻池が、立て直す人材を五代友厚に依頼し、五代は土居をおいてほかになし、と推薦したのだとか。大阪商工会議所のところにある3人の銅像の一人が土居であるが、宇和島藩士だったんですね。文学者や絵描きなど、郷土の人たちが紹介されている。幕末維新期の藩主・伊達宗城は有名ですね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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