人を幸せにする人になろう

秋ですね

◆暑い暑いといっていたが、こないだ、台風が能登?に上陸して以来、秋めいてきました。夜になると虫が鳴いている。いま17:40、日は傾き、夕方・・・。季節はめぐる。今年度も後半期へ・・・。う~む、いろんなことが進んどらん。

幡枝元稲荷窯

◆むかし、大学院浪人をやっていた1987年に、岩倉の報告書に幡枝元稲荷窯の須05d9e97f.JPG996f0e67.JPG器を収録させて欲しいと、横山浩一先生に手紙を書き、どうもOKになったらしく、博物館助手の菱田さんに、新博物館への引っ越しのため、どこぞの地下倉庫に積み上げられている木箱を、見せてもらう便宜をえた。
◆ノートを見ると、五十川さんと菱田さんに、見るときにどこまでやるか相談したときのメモもある。その前に、佐原さんが瓦を整理しての原稿があることを知り、五十川さんが持っていたコピーを複写させてもらっていた(この原稿、世に出ていない。幡枝の瓦を分類したのは佐原さんである)。こうして5月、数日間、幡枝元稲荷窯のすべての発掘資料を点検した。そのノート2冊が手元にある。もう考古学をやめようと思っていた頃だが、岩倉の仕事だけは片付けようとしていた(1991年までかかる)。けっこうな、やる気と集中力でやった記憶がある。
◆軒瓦や須恵器は少ないが、こうしたお宝に出くわしたときは感激した。確か、高句麗式の瓦当裏面が剥離していて、箱が違っており、顔のある破片の裏側を見たとき、これはd7f58856.JPGもしかして同一個体?と合わせてみたら一致した。もともとわかっていたのに分離していたのではないかと思うが・・・。
◆岩倉の報告書の時、須恵器は、いま大阪市文協にいる宮本君の担当だった。彼には、学部時代から、ほとんど岩倉をやってもらい、苦労をかけた。すまん。元稲荷の須恵器も、実測はすべて彼がやったのではなかったか。トレースしたものが出てきた。
◆横山先生も佐原さんも亡くなられた。幡枝が日の目を見ることはないか・・・。

もろもろ

◆09月04日、柏原市歴史資料館で高橋照彦氏の薄葬令の話を聞く。テルちゃんが、このあたりのことを日本史研究会でやっているのは聞こえてきていたが、雑誌をコピーすることもせず、内容をよく知ら053.JPGなかったため、いい機会だと思ってカミさんとでかける。終了後、飲み会。
◆カミさんが、中村修也『偽りの大化改新』を買ってきたので、読む。刺激的である。乙巳の変の黒幕は孝徳(軽)であるという近年の見方があることは知ってはいたが、ちゃんと読んだことがなかったので、面白かった。壬申の乱で王権を簒奪した天武の正当化のために、『日本書紀』の天智像が作られているというのは興味深い。ただし、そういう中大兄を主役とする改新像は誤っているとしても、改新を否定することはできない。改新を示す最大の根拠は前期難波宮だと思っている。中央官制を整えようとしたことは間違いない。吉川さんの書いたものに全面的に共感を覚える。
◆ケンゴシ塚すごいですね。小澤さんに見学をお誘いいただいたのだが行けず、新聞を見てスゴイ・・・、一般公開日(土・日)の日曜日の朝行けたのだが見送り、残念ながら実見できずに終わる。
◆09月12日、奈良経由で車で宇治に行くことになり、新木山古墳の下見に行く。天気よく、写真は西隣の石塚古墳から二上山を見たもの。どうもデジカメのイクシーの調子が悪いようだ(要修理だ)。新木山そのものは、周囲からあまりいい写真を撮影できなかったし、そもそもしげしげと近づかなかったのだが、裾部の工事をしなければいけないのか、疑問に思う。ぜんぜん問題ないのとちゃう?046.JPG
◆藤本強先生が10日にドイツで亡くなられたとの報道に接する。東京にいるとき、専門調査会のメンバーで、年に何度か会議で顔をあわせた。初対面にもかかわらず、親しくしていただいた。岡村道雄さんは、大学で、埋文行政の講義をする唯一の先生だ、と言っていた。最後にお会いしたのは(こっちが見たくらいかもしれない)、高松塚の会議で、同日に親委員会とわたしの出ている作業部会が開催された際、岡村さんが座ってたらいい、といって親委員会に出て脇にひかえていた時だった。その後、世界遺産特別委員会の長にもなられ、陵墓の研で、お話をしてみたいと思っていたのだが・・・。
◆09月11日、稲刈りをした。機械で刈って籾にして、すぐに乾燥の機械に入れる。いまは自然乾燥の方が単価059.JPGがやや高いため、再び天日干しをするところも出てきているらしい。そうなのだ。いま機械乾燥なら、刈って、乾燥し、もみすりをして、数日で終わってしまうが、かつては稲刈りは稲刈り、乾燥に数週間、そして脱穀と、大きく二つの工程にわかれていたのである。オレのように、農業を小さい頃に経験していない者にとっては、そういうことも改めて学ぶものなのである。
◆09月12日の宇治、さすが茶の名産地、静岡の丘陵地の茶畑は壮観だが(これ勝海舟が奨励したんだっけか)、宇治界隈の茶畑も風情がある。宇治からの帰り、八幡の流れ橋に立ち寄る。木津川がカラカラに乾いていた。

現代の課題

◆今日の日本社会で、自分の持ち場で仕事をすることはもちろんだが、それ以外にやれることがあれば尽力すべき大きな課題は3つあると思う。
(1)世界平和をめざして日本の安全保障問題に取り組むこと。日米安保、自衛隊、沖縄の基地の問題、防衛省の問題、日本企業の武器生産の問題などである。
(2)自立した社会であるための根本としての食糧自給の増大、自分たちの食うものは自分たちの国の中で生産し食っていける社会の実現。全部が全部は無理だろうが、穀物(飼料用を含め)はなんとかしなければ。
(3)原子力からの離脱およびエネルギー問題の解決。むろん効率的電化製品の開発も必要だが、利便さの追求もどこかで制限が加えられていいはずだ。
◆どれも、1個人で何ができる?というものではあるが、仕事外の社会的活動への参加もあり得るし、個人的であれやれることもあるはずだ。さて、死ぬ時、自分はどこまでそれに努め、そして上記3つの課題は、はたしてどのくらい改善が進んでいるであろうか。


考古学は集落研究を

◆なんやかんや言ってますが、自分のやってることといえば、しょせん階層上位の古墳の話。むろんそこでやるべきことはあるし、やったらアカンわけではないが、時代・地域・階層による資料偏在のない考古資料がもっとも力を発揮するのは、ふつうの人々の暮らしの解明にある、と深く認識すべし。集落をやらんといかん。

ひさしぶりに

◆前の記事が8月23日か、2週間近く低迷していたのか・・・。懸案をかかえながら逃避してきた。9月3日に1件、9f75feb29.jpg月6日に1件、それぞれ解決し、ちょっと元気になった。
◆8月28日に学生と北摂をまわる。とはいえ、暑いので、はじめから博物館巡りと考えており、ほぼ予定通り。最初、行ったことがない茨木市の資料館。東奈良の銅鐸の鋳型など鋳造関係遺物を前から見たかったが、恥ずかしながら初めて。けっこう、頑張っている資料館だ。そして茨木城の4年前に出土した建具の保存処理が完了し、その特別展示があった。16世紀末の実物だ。
◆それで、予定にはなかったが、キリシタン遺物史料館。面白かった。大正時代に、キリシタン墓碑が発見され、ようやく重い口を開き、当時、3人の女性が信仰をなお守っていたことが判明、次々、いろんなものが確認された。有名なザビエルの肖像画は、いま神戸市博にあるが、この集落の1戸にあったものだという。84eb9123.jpg
◆途中、彩都を見る。ここか・・・、これが彩都か・・・。
◆吹田市博。展示もしっかりしている。当日もイベントがあり、人が集まっている。昨夜、いろいろ書き込んでいたのだが、アップに失敗し消え、もう一度書くのは苦痛なので省略。七尾、岸部の窯を見る。
◆池田市資料館。ここはもうちょっと、この限られた箱のなかとはいえ、なんとかしてほしい。鉢塚の石室を見る。
◆豊中大塚と御獅子塚に行く。大石・小石は暑いので省略、これで帰る。

徹底した資料観察とそれに基づく研究

◆これ、『京都大学文学部の百年』(2006年)に書かれた京大考古学の学風であると。そうだろう。資料にもとづかなければならないが、観察というと主にブツを想定しているように思われ、違和感がある。
◆考古学の定義、オレは共通教育の授業の初回では、「遺跡にもとづく歴史学」といっている。「物質的資料」とは言わない。「物質的資料」はまずモノと普通は思ってしまう。むろん『通論考古学』などでの「物資的資料」(マテリアル=リメインズ)は、遺構も含めてのもので、遺物・遺跡にもとづいて(「遺構」の言葉は遅い)ということなのだが、言葉がよくない、わかってもらえない。「物質文化」という言葉に同じ違和感がある。モノだけじゃないにしても、なんかパーツに分けている感じ。そうではない、考古学の資料は遺跡である。
◆この点、角田の書いたものを見ていると、濱田の「物質的資料」といった言い方の前に、東京の人間はちゃんと遺跡によるもの、と書いていることを知る。水野清一は、考古学の唯一の資料は遺跡と言い、森浩一も考古学は遺跡学と言っている。
◆モノを観察する(+図化する)力もひとつ、同時に発掘調査で遺構を認識し観察しながら掘る力、そして総合的に遺跡を把握する力、そして遺跡の調査成果にもとづき歴史を明らかにする力が求められていると思う。題目に掲げた「学風」なるもの―この場合の資料はモノだけではないにせよ―は、主としてブツが想定されていると思うが、それは考古学に求められる力の一部である。むろん、単に調整とか作り方をよくわかっている、またそれを図化記載する技術をいうのではなく、わかっているようで、モノを見直して新たな切り口を見いだしていく、ということなんだろうし、観察眼があった方がいいに決まっている。しかし視野には遺跡は入っていないのではないか。
◆遺物の観察力、発掘調査能力、整理報告力、それは実践の中で向上する。大学にいる自分は、発掘力や整理力は劣っていると思う。1年中、発掘し、また整理報告しているプロにはかなわない。大学のなかで、遺物の観察・図化、発掘調査などを体験させるが、それは入り口部分である。確かに発掘調査機関でない大学では、そのなかで遺物を観察する基本は大事であり、やれることのひとつである。
◆しかし、大学でやるべきは、そうした基本的なものを押さえるとともに、より大事なのは、研究力だろう。そっから先は人それぞれではあるが、問題意識がベースになければならないし、方法論とか分析力とか総合化とか、そういうことの錬磨が求められる。
◆で、むろんこれからだって遺物の研究は必要だろう。あまた未解明なことがある。遺物にもとづく新たな知見をもたらす研究の可能性は限りなく広がっていよう。遺物研究は必要だ。
◆だが、同等に遺構についてもやるべきだろうし、やはり遺跡を扱うべきだと思う。遺物については、かなり研究してきたではないか、その成果を踏まえて、もっと遺跡個々に取り組まれていいだろうし、目的である(オレはそう思う)遺跡にもとづいて歴史を明らかにする、という志向をもっと明確に掲げ、そういう研究をめざせと大学では教育し、実際、そうすべきではないかと思う。振り返ると、金谷君や江角君や、いまいる白井君などの大学院生は、みな遺跡を取り扱ってきた。これだけの発掘成果がある、調査データを集めるという資料集めは地味で忍耐力もいる。でもこれが案外やられていないわけだ。

水野清一先生

◆もうちょっとで研究室前の廊下と自分の部屋にある近藤先生の蔵書が片付くので、このところ、出勤すると、1箱2箱片づけるようにしている。しかし、開けてみて、興味ある本が出てくると、読みふけってしまう。昨日はそれで1日つぶれた。考古学者のことが書いてあるもの。何をやっているんだろう。
◆金関先生が、京大の教授として、梅原でなく水野清一先生だったら、だいぶ変わってたんではないかと書いていた。この部分は前にも読んだかな。
◆で、水野清一先生は、いわゆる人文研だったわけだが、戦後、京大が濱田時代の学術調査をせず京都府や大阪府の調査などしかしなくなる中(需要は大きかったのだろうが。純粋に目的的に掘ったのは何だろう?石山くらいか?)、対馬・壱岐・松浦の調査をし、インド・パキスタン・アフガニスタン(いわゆるイアパ)に行く。それだけでなく、名神高速道路の時に京都府下で調査団を結成することに尽力するとか、池上・四ツ池の調査団長になるなど、日本の行政調査にもかかわり、また一定の役割を果たしてきたことを知る。われわれの世代には、水野先生のことはまったく伝わっていない。
◆そして戦後の遺跡破壊に対して、原因者に費用負担をさせる原則を作らなければならない、と言っていたことも知った。他にもそうした発想はあったのだろうが、坪井さんなどが他省庁との覚え書きを作っていく前提として、水野先生の影響があるのかもしれない。

関空で

◆いま関空の国内線到着口のネットスペースにいる。今日はアッシー君。カミサンの弟家族がニューヨークから夏休みで戻っていて、ヨメハンの実家の東京に寄ったあと、今度は和歌山ということで到着を待っている。岳父も高齢で運転が心配なので、お鉢がまわってきた。カミさんも学会で不在なので1人。
◆関空に車で来たのは、前に子供に飛行機を見せに展望台に行ったとき以来か。
◆さてと、こないだテレビで、日本へ来る観光客の目的の第一は、寺社仏閣ではなく、食べ物だそうな。食い物がうまい、これは人間の幸福である。そんな外国人観光客に人気なのは居酒屋とか。メニューに写真と値段がはっきり示されているということか。メニューの多さにもびっくりしていた。そういう食材の多くを外国から輸入しているとすれば何やそれということではあるが、いずれにしても、寿司やサシミはじめ、食文化の発達していることはよいことである。
◆もうひとつ、北欧がそんなに良いわけではないという話。スウェーデンかどっかから日本に戻って、つくづく日本はよい国だと思うのだそうだが、ひとつは教育水準の話と、医療なのだそうだ。むこうは大学まで無料なのだが、教員資格というものがないのだそうで、学校によるばらつきがあって、ぽっと出の人が明日から授業をするということもあるんだとか。教育に対する理念はよいが、内容の平準化に問題があるということか。それと医療代もタダだったか・・・。それで病院がいっぱいで、すぐに見てもらえないという。3日後に来てくださいとか。医療費が無償(?安い?)ので、日本の高齢者のように朝から病院前にならぶといったことと共通する背景があるのか、それはわからんが、一定の負担というのも必要なんでしょう。

茨城県東栗山遺跡

◆大阪市大には東栗山遺跡の縄文土器がある。きれいに洗浄してある。
◆『角田文衛著作集1』で、、『人類学雑誌』54-9(1939)に発表した概報が再録されているのを知り、ようやっと、うちにある遺物がどういうものであるのかを知った。
◆著作集の該当箇所の末尾には追記があり、角田さんの発掘が1939年4月であり、ただちに遺物の洗浄と整理に着手したが、5月に入り、ヨーロッパ留学を命ぜられ、大急ぎで整理し、7月の出発までに概報をまとめ、原稿を八幡一郎に託したという。そして、留学後の兵役もあり、この調査の本報告をまとめられていないことについて、良心の呵責を覚えている、と結んである。
◆ウィキによれば、角田さんは、1913年、福島県桑折町に生まれる。1937年3月、京都帝国大学文学部史学科考古学専攻卒業。1937年4月、京都帝国大学文学部副手、1937年5月、京都帝国大学大学院に入学。1938年『国分寺の研究』全2巻(考古学研究会)。1939年~1942年、日伊交換学生としてイタリアに留学。1942年12月、帰国後、引き続き京都帝国大学文学部副手、1944年7月、召集令状を受け満洲に出征し、戦後シベリア抑留、1948年3月、京都大学副手廃嘱、1949年3月、京都大学大学院を退学、1949年7月、大阪市立大学助教授、1953年7月、大阪市立大学教授。1967年3月、大阪市立大学を退職。1967年4月、(財)古代学協会・平安博物館館長兼教授。とある。
◆シベリア抑留も体験しているのか。で、帰国後、発足した大阪市大に赴任することになり、遺物を持ち込んだわけだ。1950年には直木先生が助手として赴任。その年度末に日本史の問題が不適当だとする入試事件が起こる。朝鮮戦争が勃発し、政治的にアメリカとの単独講和を演説する吉田茂、全面講和を主張する社会党が争っている中、現代史の設問のひとつに「対日講和をはばむものは何か」という設問は、現在進行中のことで、受験者の思想調査と受けとられかねない。東西勢力の対立、といったことを書かせようとしたものらしいが、それでは収まらなかった。受験者からの抗議、問題を作成した文学部への抗議が他学部からも寄せられる。
◆こうした話は、直木孝次郎「歴史学教室発足時の回想」『市大日本史』第5号(2002)による。知っている人は知っているが、公式には記録されていない「事件」、直木先生は市大文学部のなかで日本史が苦労してきた背景として、つまり歴史学教室の定員を決めようという時期に生じ、日・東・西各2講座分が配分されるはずが、ほかに流れてしまうということになる、そのひとつの理由として書き残されたのである。
◆山根先生が責任者ではあるが、この設問を加えたのは、直木先生も「某氏」と明記していないが、角田さんなのである。山根先生がかばって責任をすべて負う。このことは、角田さんにとっても不幸であったろう、市大歴史学にとっても不幸であった、市大の考古学にとっても・・・。
◆大阪市大時代の角田さんのことは、ほとんど書かれたものを見たことはない。前に市大日本史学会10年の時に、いろいろと記録を調べてみると、いくつか事績は出てくるが・・・。角田さんは授業の時にしか出てこず、それも少ない科目担当で、研究室にはほとんどいなかったと聞いている。入試問題事件の影響はわからない。難波宮の発掘の着手時には尽力した面もあったようではある。大阪市大時代のことは、とにかくよくわからん。直木先生との対立も激しかったように聞いている。居心地はたぶんあんまりよくなかったのだろう。市大時代に古代学協会を設立し、自分のやりたいところはそっちで、居場所のなくなった市大をやめ、京都に戻りたかったのだろうと思う。【追記】1951年に大阪市立美術館内に任意団体の古代学協会を創設。季刊『古代学』発行。1957年に財団法人化。そして角田の文章によれば、「二足のわらじではいいものはできないと考え、四十二年、思い切って大阪市立大学教授を辞め、協会の活動に専念した」とある。
◆角田先生もなくなった。書いたものをほとんど読んだことはないが、たぶん大阪市大時代のことをあまり書き残してはいないだろう。近藤先生よりも12歳上の先輩ということになるが、それぞれ晩年までつきあいが続き、仲がよかったと聞いている。冒頭の著作集も、近藤先生の蔵書のなかから出てきたものだ。近藤先生に角田さんのことを聞く、という手もあった、といまにして思う。
◆ともかく、東栗山遺跡の縄文土器がどういう出所来歴があったのかはわかった。このまま市大に置いておいても仕方がないので、地元に戻すことも考える必要がある。
◆市大の考古学については、そのうち、藤原光輝氏のことも調べてみたいと思っている。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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