人を幸せにする人になろう

考古学研究会は存続する?

◆最新号に出たグラフ。 ちょっとわからんのは収入の急激な下降はどういう理由なのだろうか。2022年度に会員は54人減って、4000円会員として21.6万円の減少ですよね。少し説明不足ではないだろうか。
◆大きな学会だったから、事務所もあるし事務員も置いていて、大阪歴史学会とは比較できませんが・・・。普通やるなら、印刷費をいろいろな会社に見積もってもらうだろう。むろん、いまのところとは長い付き合いであるし、良心的な価格である、ここは見直せない、との意見はあろうが。大歴は、一度、印刷の質を上げたが、アルバイト事務員を置くため泣く泣く戻されました。通信費の内訳もわからんが、会費発送費はどのくらいを占めるのでしょうか。これも工夫できる余地はあるだろう。
◆会員維持は、大学の先生に入会を強く勧めるよう依頼するとか。あるいは会員でないが大会に来た人に、お茶を渡して「なぜ入会しないか」聞き取り調査をするとか。

N先生の論文

◆日本側には、例えば応神の事績について、「年代記のような元となる史料は存在していたようであるが、やはり干支などは含まれていなかった」とする。神功49年の記事の内容については、日本側の伝承と百済系資料が対応する稀有なものだった。それは「百済系史料を介して干支年を知ることのできる、きわめて重要な定点」になった。しかし百済系資料も「暦年代を知ることのできる確実な手がかりは含まれていなかったのだろう」。そのために、「結果として暦年代より干支二巡分古く位置付けられることになったものと思われる。」とある。
◆実際の応神即位は385年になるというのが、前の論文の結論でしたが、それは研究の結果導かれるのであって、編者は応神が4世紀後葉くらいの人であるということもわかってはおらず、『日本書紀』で270年~310年の在位になっちゃった、ということのようである。
◆允恭が412年~453年の42年、反正が406年から410年の5年、履中が400年から405年の6年、仁徳が313年から399年の87年、応神が270年~310年の41年。もう1度、応神紀の論文を読まないといけないが、5世紀中頃までは暦年代はおよそたどれていた。しかしそこから先、なぜ120年古くなるのか。それを「結果」と片付けることができるのか。例えばなぜ60年の範囲にならなかったのか。
◆とにかく決めた応神紀をもとに、「百済系史料を介して」知ることのできた「干支年」から神功49年条の記事が、その該当干支年次に配置された、ということなんですかね。頭が悪いので・・・。
◆で、神功紀は、まあ適当に69年取ることにしたから、応神元年の1年前からだから、201年から269年になったと。で、なんかしらん中国の『三国志』の『魏書(志)』に倭の女王の記事があるから、該当する神功39年条などに分註として入れる措置が取られた、と。

N先生の神功紀論

◆最新の考古学研究が届いたら、N先生の論文があったので読む。結論はありがたいものであった。好太王碑文がまずある、その前提として神功紀がある、369年前後の、「この時期に百済王が倭との交渉を求めたことに、軍事的要因以外の目的を考えることは、はたしてできるのであろうか。」という見方と同意見である。加えて「これまで襲撃によって新羅を苦しめてきた倭の力を借り」ようとしたもの、との見解も賛成である。ただし、卓淳は昌原であり、「新羅を攻略したとしても、これまでと同じように海からの襲撃であった可能性も生じてくる」とあり、時折、南岸沿いを荒らしまわっている、というイメージでもある。
◆要するに、百済が対高句麗対応として、倭に軍事援助を要請する。それは倭の加耶地域における活動が前提となっている。そこまでは同じ考え。なので、次は、369年以前の、加耶地域での倭人の活動内容として、交易はむろんだが、金官国の傭兵として人を派遣するだとか、そういう内実をともなっていたのかどうか、というところになる。百済が倭人の活動を知り、こいつらを使うという手はどうだろうか、と思わせる活動をしていた、とはいえるであろう。
◆新羅を時折攻めるという意味はよくわからんですね。加耶諸国とは「比較的」良好な関係を築いていた、しかし新羅は敵対的に構えていた、ということなのでしょうか。石釧が出ている、くらいのことしか、わたしにはわかりませんが。

わかっていないがインボイス

◆学会でも問い合わせが来ている。あ、さて。 ちゃんと勉強して議論していないのがむろん問題だが・・・。

すくも蒅

◆一般社団法人 藍産業振興協会のホームペイジから。
◆AIとかそんなんはほっといて(ただし大学がどことも情報・情報!と右にならい、研究費を潤沢に配分するのは反対(遊びが多すぎる))、モノづくり、この蒅つくりなどの伝統産業の職人、あるいはトラック運転手などを、ちゃんと対価を得られる職とする方が大事です。

◆3月の種蒔き、梅雨前の定植(苗床から畑への植替)、夏の収穫までは「農作業」となるため、作物のひとつとしてタデアイを栽培する農家も少なくない。むしろ藍師の家だけでは葉藍が確保できない場合が多く、地域の農家は蒅づくりに欠かせない存在となってる。
◆タデアイの収穫が終わると、作業の場は藍師の家に移る。生活のための母屋、葉藍の乾燥に必要な広い中庭、そして寝床と呼ばれる作業場からなる藍師の家は「屋敷」と呼ぶにふさわしい構えのものが多い。蒅づくりは家内工業であるため、藍産業が盛んだった時代には、住み込みの職人が暮らすスペースを備えた家もあったという。
◆運び込まれたタデアイは裁断の後、扇風機の風を利用して葉と茎に選別。インジゴを含む葉のみを中庭に広げ、約2日間かけて「藍こなし」と呼ばれる天日乾燥を行う。天候が定まりにくい昨今、乾燥機を導入したり、乾燥の工程を屋内で行う藍師もいる。乾燥を終えた葉藍は「ずきん」と呼ばれる袋に保存され、次の作業を待つ。
◆9月に入ると作業もいよいよ本格化。寝床ひとつあたり3,000kg~3,750kgの葉藍を積み、同量の水をかけ、混ぜ合わせ、約1mの高さに積み上げる。この作業を「寝せ込み」、積んだ葉藍の上にかける筵を「ふとん」と呼ぶ。一度「寝せ込み」が始まると、約3ヶ月の間、4~5日に一度のタイミングで葉藍に水をかけ、混ぜ合わせ、また積みあげる、「切り返し」という作業が繰り返される。葉藍の発酵を促すこの工程で最も重要なのは水加減であり、専門の職人「水師」が管理していた時代もあった。
◆「切り返し」の間には2度ほど「通し」を行う。「通し」とは、発酵がムラなく進むように葉藍の塊を砕く作業だ。22回~23回の「切り返し」を経て蒅が仕上がると藍師それぞれの屋号印を押した叺(カマス)に詰められ、ようやく出荷となる。
◆「藍こなし」「寝せ込み」「切り返し」。いずれも大まかな手順は決まっているが、日程や作業の詳細は経験を積んだ藍師の「勘」で決まる。タデアイの生育具合は年ごとに異なり、作業中の天候に決まったパターンはない。葉藍を「四つ熊手」で集める時の感触、「はね」て返す時の重み、寝床にこもる香り、日々変わっていく葉藍の色・・・。五感のすべてを働かせて、藍師は日々細かい調整と決断を積み重ねてゆく。
◆できあがった蒅は、染師の元で灰汁等を用いて染料に仕立てられてゆく(藍建て)。大きな甕で発酵が進み、その過程で生まれる「藍の華」(藍色の泡)の状態で藍液の出来がわかる。化学染料の普及や和装文化の衰退など、幾多の困難を乗り越えてなお、質の高い阿波の蒅は全国の染師に求められ続けている。けれども藍師の家に代々受け継がれてきた蒅づくりの技を、未経験者はもちろん、後継者でさえものにするのは容易ではない。材料となるタデアイを栽培する農家も減少傾向にあり、需要と供給のバランスがうまく取れていない現状だ。一方で近年、タデアイの栽培から蒅づくり、そして染までを一括で行う、チャレンジングな若い職人も現れている。伝統の製法を守る人、新しく挑戦する人、作品づくりを通じて蒅を支える人。ジャパン・ブルー、奇跡の青を生み出す蒅づくりの世界は、変化の兆しをはらみながら、今、新たな時代を迎えようとしている。

2023年9月30日 徳島8 勝瑞の城と館

◆上板にも行くが、16:28くらいに歴史民俗資料館に到着するも、既に閉められていた。取って返 し、藍住町でも東端に近い勝瑞の城と館に行く。
◆細川の守護所だった場所。そして三好の本拠地。城跡が知られていたが、道路をはさんで南側の鉄工所になっていた場所から館跡が見つかり、ともに国史跡となっている。脇に埋蔵文化財センター機能をもち、展示施設も兼ねた調査基地があるが17時をまわっていて閉まっていた。
◆このまま愛媛に向かうことも考えたが、帰ることにする。

2023年9月30日 徳島7 藍の館

◆そこから藍住町に向かう。 日本遺産になって、大画面での動画は楽しい。が、2階の展示室は、そうした藍葉から蒅(すくも)を作り、それで売り買いされ、そこからどう染色するのか、動画にあったような基本的な説明がほしいところ。古文書や道具類に即した展示はむろん必要なのだが。ここでは、例えばハンカチ1000円とか、1530までに申し込めば染物体験ができるのが人気で、みなさん白い布地をもって、奥のなんとか家のところの体験施設に行くのだが、展示はスルーしている。

2023年9月30日 徳島6 矢野古墳

◆資料館の横に開口する横穴式石室墳があるというので、敷地を出て探しに行くが、導線を明確に 示してほしいもの。うろうろして見つけないといけない。

2023年9月30日 徳島5 市考古資料館

◆立派な施設です。一度来たような気はするのだが・・・、ほぼ覚えてない。
◆企画展の国分寺・国分尼寺は、展示室の中央にボードを配列してやっていた。図録はカラーコピーのホッチキス留めで、手作り感ある。
◆例えば宮谷の三角縁。あれ展示室にあるのはモノホンですよね。ガラスでさえぎられていないのだ。さわりはしなかったが、顔を近づけることができる。渋野丸山の埴輪もある。で、国府推定地・国分寺・国分尼寺が一帯に集中していることがわかる。

2023年9月30日 徳島4 宮谷古墳

◆平成元年の調査で三角縁が3面分。翌年の第2次調査でかなりの調査区を設定して調査を実施した が、鏡は出なかったらしい。
◆現地の看板の写真も撮ったが、とみやのラーメンと同じく、コンデジのSDへの保存がうまくいっていないらしく画像がないのだが、そこには、いまの墳丘裾のめぐる基底ラインの外にも、青い基底ラインので線が、墳丘側面と前方部前面側にあって、本来の墳丘はどのような復元案になっているのか、確かめないといけませんね。

プラグイン

カレンダー

09 2025/10 11
S M T W T F S
1 3 4
6 10 11
14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索