人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
N先生の論文
◆日本側には、例えば応神の事績について、「年代記のような元となる史料は存在していたようであるが、やはり干支などは含まれていなかった」とする。神功49年の記事の内容については、日本側の伝承と百済系資料が対応する稀有なものだった。それは「百済系史料を介して干支年を知ることのできる、きわめて重要な定点」になった。しかし百済系資料も「暦年代を知ることのできる確実な手がかりは含まれていなかったのだろう」。そのために、「結果として暦年代より干支二巡分古く位置付けられることになったものと思われる。」とある。
◆実際の応神即位は385年になるというのが、前の論文の結論でしたが、それは研究の結果導かれるのであって、編者は応神が4世紀後葉くらいの人であるということもわかってはおらず、『日本書紀』で270年~310年の在位になっちゃった、ということのようである。
◆允恭が412年~453年の42年、反正が406年から410年の5年、履中が400年から405年の6年、仁徳が313年から399年の87年、応神が270年~310年の41年。もう1度、応神紀の論文を読まないといけないが、5世紀中頃までは暦年代はおよそたどれていた。しかしそこから先、なぜ120年古くなるのか。それを「結果」と片付けることができるのか。例えばなぜ60年の範囲にならなかったのか。
◆とにかく決めた応神紀をもとに、「百済系史料を介して」知ることのできた「干支年」から神功49年条の記事が、その該当干支年次に配置された、ということなんですかね。頭が悪いので・・・。
◆で、神功紀は、まあ適当に69年取ることにしたから、応神元年の1年前からだから、201年から269年になったと。で、なんかしらん中国の『三国志』の『魏書(志)』に倭の女王の記事があるから、該当する神功39年条などに分註として入れる措置が取られた、と。
◆実際の応神即位は385年になるというのが、前の論文の結論でしたが、それは研究の結果導かれるのであって、編者は応神が4世紀後葉くらいの人であるということもわかってはおらず、『日本書紀』で270年~310年の在位になっちゃった、ということのようである。
◆允恭が412年~453年の42年、反正が406年から410年の5年、履中が400年から405年の6年、仁徳が313年から399年の87年、応神が270年~310年の41年。もう1度、応神紀の論文を読まないといけないが、5世紀中頃までは暦年代はおよそたどれていた。しかしそこから先、なぜ120年古くなるのか。それを「結果」と片付けることができるのか。例えばなぜ60年の範囲にならなかったのか。
◆とにかく決めた応神紀をもとに、「百済系史料を介して」知ることのできた「干支年」から神功49年条の記事が、その該当干支年次に配置された、ということなんですかね。頭が悪いので・・・。
◆で、神功紀は、まあ適当に69年取ることにしたから、応神元年の1年前からだから、201年から269年になったと。で、なんかしらん中国の『三国志』の『魏書(志)』に倭の女王の記事があるから、該当する神功39年条などに分註として入れる措置が取られた、と。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。