人を幸せにする人になろう

2022年12月26日、天草へ

◆原城のあと、有馬キリシタン遺産資料館に寄る。なかなかちゃんとした展示でした。今回、こうしたキリシタン関係の展示はいっぱい 見たので、どれがどれかわからなくなりつつありますが・・・。入口を入って左手が展示室だった。雲仙の南東部が地名有馬で、有馬晴信ら有馬の本拠地で、この地に最初のセミナリヨが建設されたのだとか。遺跡としてわかっているのかな。そのあと、高等教育機関であるコレジオについての説明をどこかで見たが、これは転々と動いたという説明だったような・・・。
◆天草に向かうため、半島南端の口之津に向かう。有馬からはすぐ近く。フェリーが出たところで、1時間ほど時間あり。ごはんを食べようとしたが、店が閉まっていたりした。このフェリー乗り場のところも、2階が資料館になっており、また港の先にある古い税関?の建物が分館になっているが、月曜日で閉まっていた。
◆天草の鬼池港までフェリー。

2022年12月26日、原城

◆島原市をあとにして、途中、高速も使い、南下。原城に向かう。有馬氏の日野江城にも立ち寄り たかったが、フェリーの時間もあって寄らず。
◆日野江城。以下、ウィキ。鎌倉時代前期の建保年間(1213年 – 1219年)に高来郡を領する藤原経澄が築城した。 経澄は築城時に姓を有間と称し、後に有馬と改称した。有馬氏は当初島原半島南部の一勢力に過ぎなかった。貴純の時代になると半島内の諸勢力を制圧し戦国大名へと成長していった。貴純は日野江城の支城として原城を築城している。晴純の時代に有馬氏の版図は最大となり21万石を領するまでに成長した。しかし、後ろ盾となっていた大内氏が滅亡すると龍造寺氏の圧迫を受けるようになった。13代目当主の晴信はキリシタン大名となり城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材とした。江戸時代初期には晴信は4万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。しかし、慶長17年(1612年)晴信は岡本大八事件に連座した罪により甲斐国で切腹となった。嫡男直純が後嗣となったが慶長19年(1614年)に日向国延岡城に移封となり、有馬氏は約400年間にわたる在城に別れを告げた。有馬氏が去り元和2年(1616年)に松倉重政が入城するまでの間は天領となった。松倉氏は入封後、日野江城に不便を感じ新たに島原城を建設し、日野江城を廃城とし歴史の幕を閉じた。
◆日野江城にやはり行くべきでしたね。原城、なかなかきれいに整備されている。畑があり、耕す人がおり、のどか。海が広がり、天草が見える。

2023年1月19日、人間ドック

◆毎年の定期健康診断をちゃんと受けない問題児です。このところ人間ドックを受けて結果を部署に届けております。昨年度はついに行けずじまい。2年前は初めて胃カメラというのをやって、ピロリ菌の存在が判明。今年度は、もう還暦前で、初めて頭部MRI・MRA、心臓CT、内臓のエコーなど、けっこう高額なコースとした。さて、結果は・・・。

2023年1月20日(金)、大学ミュージアム検討委員会

◆全学の検討委員会が9月に正式承認され、その第1回の会議があったので参加した。公立大学になって、その上層部が基本的に前向きなのかどうかは、よくわからないが、とにもかくにも動き始めた。旧府大側のコレクションがかなりあり、さまざまな分野の学術資料類がさらに充実した。博物館設置への筋道が、定年との関係でどう推移するかは不明だが、とにかくやれることはやっていきたい。

貧困なる精神

◆大学の頃以降、本多勝一を長く読んできた。大学生協の本屋で、朝日文庫と『貧困なる精神』の新刊が出ているたびに買っており、これが柱。単行本もそこそこはもっているが、限られた部分。すずさわ書店の『貧困なる精神』の最初が1974年らしい。その後、最初のものからそろえた。朝日の文庫の最初はなんだろうか。どこかで買わなくなるまで、だいたい買ってきた。『貧困なる精神』についていえば、その後、『朝日ジャーナル』の連載になって、朝日新聞社からA~S集が出ているが、もっているのは半分くらいかな。そして連載が『サンデー毎日』に移り、毎日新聞社から出た最初のZ集を買ったが、これが1993年刊で、そこまでくらい。
◆で、1993年創刊『週刊金曜日』の定期購読者となった。どこかまで講読していたが、引き落としの関係で途切れた。90年代のうちのことだろう。本多勝一の著作としては、2018年に最新の『貧困なる精神』が出ていることを、昨日、知る。
◆久しぶりにZ集を手に取り読み返したわけです。定年退職した1992年頃に書いたものをまとめたもので、長良川河口堰、PKO法案、佐川事件などが取り上げられている。

研究会案内

◆福島大学主催の研究会、および大歴考古部会例会(対面)です。 

空き家

◆新聞掲載のグラフ。自分の実家も空き家となっていたが、しばらく前から甥が住んでくれていま す。カミサンの実家は、遺産相続の結果、弟の資産となっているが、東京在住なので、時折、空気を入れるために行っております。あれはどうなるのか・・・。
◆空き家が増える一方で、新築も進む。交通の便がよいところでも、基本は更地にしないとなかなか買い手がつかないし・・・。空き家問題は大きな課題。

2022年12月26日(月)島原

◆雲仙温泉を出発。地獄めぐりを少しやってもよかったかな。真東に下り、雲仙東海岸を北上し、 城下町島原市に向かう。雲仙普賢岳の噴火は1991年、その年、熊本から雲仙を望遠した記憶がある。91年の火砕流被害にあった小学校などが保存されているという、それも含めた世界ジオパーク(「島原半島ジオパーク」、2009年認定、日本初)の立派な看板があちこちに。
◆島原城。西側から入るようになっており、天守の展示を見る(1964復興再建)。史料の保存のた め暗く、説明パネルは写真のような、そこだけ明るくなるものが、かなりの数、展示ケースの手前に設置されている。そういったものを含め、リニューアルされていて、よくできていた(既に記憶があいまいに)。城跡から有明海を望む。そのあとまちあるき。
◆以下ウィキ。島原の乱は、領主の松倉勝家による苛酷な政治が原因なんですね。「乱後、領民に反乱を引き起こさせた責任を厳しく問われ、乱の鎮圧後に斬首刑に処された。」、「松倉勝家の後、徳川氏譜代の家臣・高力忠房が遠江国浜松藩よ り4万石で入る。忠房は乱で荒廃した島原地方を復興することに尽力した。そして巧みな農業政策や植民奨励政策などを行なって、島原の復興を成し遂げたのである。ちなみに現在、島原に多くの方言があるのは、忠房が各国の武士の次男・三男や農民などの植民を奨励して、様々な国の人々が島原に土着したためと言われている。しかし忠房の後を継いだ隆長は藩の体制確立に躍起になったためか失政が多く、幕府より咎を受け寛文8年(1668年)に改易となった。代わって丹波国福知山藩より深溝松平氏の松平忠房が6万5000石で入る。」。その後もあるが省略。
◆水路をはさんだまちなみ、なかなかいいですよ。

2023年12月25日、出島

◆修船所から長崎市街に入り、出島に行く。明治以降に建てられた橋を渡って左サイドの洋館2つが残り、あとはいま進められてい る復元建物ということである。中島川の拡張で、扇の内側部分はその後に20mほど削られてしまったのだという。そこにいまは橋が取り付けられ、内部に入る。520円。
 ◆昔、中学校の修学旅行で長崎に行ったとき、ここが出島ですとバスからだろうか見たような記憶がある。1978年?。公開施設にはなっていなかったのかな。こんなと こ?、と思ったカスカなオボエがあるが・・・。そのあと1991年に行ったとき、いまもある模型を見たということだが、記憶にはない。いまHPを見ると、1996年から本格的な整備に着手したようだ。長期計画では、現道路を動かして、往時の姿に戻す計画であるという。
◆こうしていまは、内部に復元建物ができ、観光客は見て回るようになっている。長崎に刊行で行く人は、必ず訪れる目玉だろう。入口入って左手の復元建物が出土品の展示に使われ、かなり充実している。そして出島を訪れたみながまず入るようになっている。ありがたいことである。
◆長崎をあとにして、高速道路に乗り、諫早まで行き、今日の宿、雲仙温泉に。雲仙温泉は標高670mあるのだそうだ。雲仙最高峰は1500m弱という。これが平成新山。山を上がっていくと、前日の雪で、山には雪が残る。

小菅修船所

◆今回、長崎で見たかった小菅修船所に行く。トンネルを抜けてすぐのところで(1度間違えた)、 なんとかセンターへの進入路を行くと、駐車スペースがあり、ガイドさんが2人、寒いのにおられた。日本最古のレンガ建築といって言いもののようだが、はっきりと断定できないのか、明確には主張していない印象。聞いてみたらよかったが。
◆帰ってきて調べると、反射炉用の白煉瓦というのが先行し、建築用の赤レンガとしては、長崎造船所が、万延元年12月上棟で古いとのこと(厚みの薄いコンニャク煉瓦)。横須賀造船所がこれに次ぐという。長崎造船所の建物は残っていないようで、明治元年12月(太陽暦で1868年なのかな)という小菅修船所が、明確なものではもっとも古いものの候補となる。どなたかのブログで、どこかのお寺のなかに2年ほどさかのぼる?ものを見つけた、というを見たが。横須賀の方は、完成が1871年だが1865年開設ともあり、詳しくは不明だが、いずれにしてもこの修船所よりも古いレンガ建物があるような記事には出くわさない。
◆煉瓦はマニアがたくさんいるので、詳しい人なら、いろいろ教えてもらえそうである。
◆とにかくこの修船所、小松帯刀が主としてかかわり、五代友厚も協力したのだったか。要するに薩摩の蒸気船の修理場所が必要となって、それを造れということになったよう。五代の関与がどこまでか、これも五代マニアはたくさんいるので、詳しい人は詳しいのだろう。
◆まあ、よく残ってきたものです。ガイドさんと話をしていると、谷を利用していて、背後からの水が入ってきてしまうようで、雨が降ったあとはグズグズらしい。川筋そのものは振っているんだろうが、もとの谷筋沿いに水が入ってきてしまうのだろう。建物の中の大きな歯車のあるところは溝が切ってあり回転するわけだが、水つかりの状態である。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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