人を幸せにする人になろう

小山田古墳=蝦夷墓の論文

◆お送りいただき、ありがとうございました。正座して読ましていただきました。痛快ですね。植山古墳の話はきわめて説得的です。宮ケ原や菖蒲池やら、報告書が身近にないもんで、いろいろ勉強になります。いっぺん、カシコーケンに行って、あらいざらいコピーしないといけませんね。
◆谷首=池上陵って、ほんとだろうか。1年半でできてたのかな。用明はすぐに死んでしまい、その間に谷首古墳はできあがるだろうか。仮埋葬で、実質は没後に春日向山を造って、と考えているが・・・。谷首が石舞台式であることも、ちょっとずれている。天王山式だろうに。なので、阿部鳥、とみている。
◆やはり五条野丸山=稲目論だけは、ちゃうやろ、と思うが、そこはそうかもしれない、との見方で考えてみることも必要ですね。でも、欽明は稲目の女婿であって、あそこに造られるのは別に問題ないだろう。敏達は蘇我腹でないからこそ、梅山なのであり、その墓域に連なることが重要なのである。丸山=欽明派は稲目墓を考えないといけないし、丸山=稲目派は敏達墓を探さないといけない。あとは指摘のある棺の問題ですね。ちゃんと受け止めて考えてみたい。
◆都塚=稲目墓はありうるのでは、と漠然と思っています・・・。前方後円墳でなければならない、と決めつけることはできないだろう。方墳を主導したのが蘇我氏であることは疑いないので。まあ、これも・・・。
◆岩屋山の墳丘はよくわからないが、前にリーフレットを作った時には(配ってません)、上は根拠がないのであきらめたが、玄室奥を中心として、前面の階段部分を根拠にめぐらすと56mあまりとなり、いま計算すると38歩57mの可能性はありそうである。要するに、舒明墓としての根拠として、墳丘規模・石室規模の卓越を、客観的に示せないといけない。いま書いているものから抜粋すると、春日向山古墳46歩69m、赤坂天王山古墳36歩54m(奥行35歩52.5m)、塚穴古墳は36歩54m、叡福寺古墳径36歩54m、石舞台古墳は34歩51m、植山古墳は幅26歩39m、西宮古墳24歩36m、帯解黄金塚古墳20歩30m。いや~前方後円墳から方墳に転化した最初の用明墓にはおよばないが(むろん時期が違いますよ)、それ以外では最大規模ですね。やっぱり倭国王墓ちゃうんでしょうかね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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