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人を幸せにする人になろう

岩屋山式つづき

◆で、岩屋山。その年代観があるからこそ、岩屋山が第3四半期で元斉明陵、牽牛子はさらにずいぶんあとで改葬後の斉明陵、という結論になる。とはいえ、直接は関係なくて、横口式石槨はそっちで一定の結論を導き、一方、岩屋山式は、その類例と出土遺物から年代観を導いている。どっちかに寄っ かかっている議論ではない。
◆で、岩屋山式。こちらの方がやはり手強い。本格的な反論には、こっちも須恵器を実測したりする準備が必要。飛鳥Ⅱと いう根拠は、いくつかの須恵器。ただ、白石先生も挙げている、叡福寺と塚穴についてのコメントも必要ではないのか。それと、現・推古陵への改葬時期は不明 だが、東石室は切石ですよ。30年もたってから改葬するんかね。7世紀前半のうちには山田高塚は造っているんでしょうに。630年代では。+カナヅカ。
◆岩屋山式の年代を須恵器で求められるなら、それに越したことはない。が、葉室石塚の長頸壺1点、それに対し、被葬者の堅い事例が4つそろっている。もはや叡福寺古墳のみを例外と片づけることは不可能なのだが・・・。
◆考古学的に!と非難されている。が、須恵器1点、岩屋山亜式は西宮古墳の須恵器数点、それを考古学的にちゃんと検討しろというのもわかる。が、それだけしかないのである。西宮古墳の須恵器が飛鳥Ⅱ末というのも大丈夫なのか疑問。岩屋山式は基本は飛鳥Ⅰ、なかには埋葬年代が飛鳥Ⅱに下るものもあった、というのが事実ではないだろうか。
◆石舞台の年代は恣意的だと。そう受けとられても構わない。ミソは、生前造墓を考えるべしというところにあり、馬子の墓と合意されても、石舞台がいつ造られたかはそれだけでは決まらない。むろん、没後2年たっての馬子墓造営の記事は、没後造墓とする根拠として強いだろう。しかしこれ1点。没後造墓と考えることによる矛盾の大きさ、生前造墓と考えることによる整合性から、最終的にこの記事を評価すればよい。
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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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