人を幸せにする人になろう

思うんですけど

◆自分が貪欲に本を読んできた、とはいえない。むしろ少ないし偏っている。だが、大学時代、例えば『貧困なる精神』が刊行されると、むさぼり読んでいた。面白そうな本を、古本屋で見つけると買っていた。買っただけでならべるだけのものも少なくなかったが。こないだ、歴博に行くとき、ネルーの『父が子に語る世界史』第1巻をもち、電車で立っているときは読んでいた(新幹線で座っている間はPCに向かう)。この本も全6巻でサラのまま本棚に眠っているもの(カミさんは読破したらしい)。何がいいたいか。要するに、ひとそれぞれ関心は違っても、読みたいとか、知りたいとか、学びたいとか、そういう欲求があった。まんべんなくという必要はないが(ヒマ人でなければ無理)、知識欲というのか、そんなんがあった。いまはどうだろう。スマホをさわっているだけではないのか。
◆新聞を読むことも、世の大学生の大半はしないだろう。われわれの感覚では、大学生になれば、下宿生活の1ヶ月の生活費は限られていたが、新聞をずっと取っていました。当時、どこまで実際に読んでいたかは定かではないけれど。いまのネットの見出しのニュースなど、ごくごく限られている。新聞は、ニュース性ではなく、あらゆる分野についての話題について取材し、取り上げ方はさまざまであれ、いろんな記事がある。情報の宝庫です。
◆自分の側が未熟でも、目を通し、気になった記事は読み、すこしずつでも蓄積されていく、その営為は重要ですよね。世の中のことをだんだんと知る、それを通じて考える。いま、ものすごく情報が溢れているようでありながら、実際に知っていることはごく限られ、またその理解も表層的なのではないか。なにか自分が年をとり、いまの自分から「いまの若いヤツは」と言っているみたいで、イヤなのですが。だけども、ず~とスマホをはなさず、仲間内のコミュニケーションとゲームばかりやっているなら、やはり危惧せざるをえないように思うわけです。
◆卒論演習をしてて思ったのですが。論文を読むと。がバックボーンがないわけです。近年の良質の概説本などもいくつもありますよね。古いものでも、単に古いだけでない。そういうものを読んで、自分がやろうとしている時代がどんなものなのか、おおよそのところを知ることは大事だと思う。が、たぶん読みはしない。で、関心が定まっているヤツは、そのまま論文に行く。これはこれで悪くはないかもしれない。それに突き進む中で、どうしてもまわりを知る必要があり、それをも吸収していくならば。が、関心がボンヤリしている場合は、決められなかったり、たまたま手に取ったもの、読んだものでテーマを決めていったりする。何が面白いの、それやってどういう意味があるの、という問いに答えられないわけです(そんな明確なものでなくとも、実際やろうとすることについて、なにか語ってほしいわけです)。ひどいのは、「何か面白いことありますか」、と聞くヤツ(うちではない)。そういう興味関心のないものは去れ。大学に来る必要はない。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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