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突然ですが、水行10日陸行1月

◆末盧国は唐津であろう。魏使の船は末盧国に停泊する。「倭国王の使いを遣わして京都・帯方郡、諸々の韓国に詣らしむる時、および郡使の倭国に使いする時は、みな津に臨みて捜露し、文書と賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯あることを得ず」。唐津の港にはこうした機関があったのだろう。
◆そこからは陸路と書かれている。東南に陸行して500里(216km)で伊都国に到る。実際には北東24km(0.11)である。1日の道程であろう。伊都国は「郡使往来する時、常に駐まるところなり」。伊都国には中国館があったのであろう。魏使の倭国行きの長旅も、宿舎に入って一段落である。「常に駐まる」については、いつの機会においても長期間にわたって滞在する倭国内における魏使の拠点だったのだろう。
◆伊都国から東南に500里(216km)で奴国に到る。実際には北東〓km( )である。1日の道程であろう。そして東へ不弥国。
◆これらの距離は著しく実際と乖離する。倭国側で何里といった距離が計測されていたわけではないだろうから、これは魏側の数字であろうが、魏使が復命書に経験からだいたいの距離を記したにしては事実と大きく異なる。
◆1日で末盧国から伊都国、1日で伊都国から奴国へ行ける。不弥国もしかり。一方、投馬国までは20日、邪馬台国までは40日の行程である。末盧国・伊都国、伊都国・奴国の実際の1日行程に対し、20倍あるいは40倍の距離観である。
◆そして、水行・陸行の日数は魏使の聞き取りとみられる。倭国内における各地域間の交易等による人の行き来のなかで、経験的に導かれていた当時の所要日数を書き留めたものと思われる。〈魏志倭人伝〉の冒頭にあり、投馬国や邪馬台国へ到達するための距離観を、当時の倭船を使った所要日数により示したものといえる。比較的近い距離の陸上移動ではなく、水行20日や10日を里数に置き換えようとしても、自然条件や船の性能により航行距離は大きく異なり、あまりにも不確かなものとなるだろう。
◆そして水行である。例えば、奴国から筑後に行くのに那珂川の川船を使い、船を降りて筑後側の〓側でまた川船に乗り換える必然性は乏しい。不安定な川船に乗船するより、歩く方が確実である。この水行は20日や10日を要することから、海を行くことを示していると理解することが妥当である。すなわち九州島の外に出ることを意味する。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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