人を幸せにする人になろう

縄文ネタ

◆レキハク青森研究会で教えてもらったこと。
◆(1)続縄文って、基本的に北海道なんだって!。東北北部は弥生化したが定着しないわけだが、そのあと、じゃあ続縄文かというとそうではないという。土器からすれば、田舎館式に後続する独自の土器様式圏を形成し、そこにのちには後北式続縄文土器がかなり南まで広がるが、それはあくまで北海道の続縄文文化の人々の動きを示すものの、ベースは独自の土器なんだと。
◆なので、弥生後の東北北部は、続縄文でもなく、独自の文化圏であるらしい。だが、それはどのようなもので、どうとらえればいいのだろう。それと、基本は狩猟採集として、北海道の続縄文文化とはどう違うのか。
◆土器が違うのはわかったが、例えば広い意味では続縄文で、そのなかの地域圏の差といった把握は誤りなのか。
◆他方、続縄文が北海道の文化として、しかしそれは縄文文化ではイカンのだろうか。稲作はやっていなくても、穀物が現れ増えるとか、鉄器も出るようになるとか、それはだいぶあとのことなんとちゃうの。またいずれそうなるといっても、基本的に縄文文化が継続するなかでの変質だろう。たぶん緩やかな変化とちゃうか。どこかでガラッと変わるものでもないように思うが。
◆そうした場合、北海道の時代区分として、文化の中身の変質を捉えての時代区分になっているのだろうか。それとも、東北北部が一時的に弥生化するという点に照らして、その段階でも狩猟採集が続いているという意味で続縄文と言っているにすぎないのか、すこし調べてみる必要がある。要は、続縄文文化は、どう定義されるもので、それはいつからかという問題である。
◆(2)縄文中期と後期の変動論を質問した。が、中部高地や関東では確かに中期までの大規模集落は継続せず、後期前半はダメージが大きいが、しかし後期後半には復旧するらしい。佐原さんの書いたものなどから、東日本の人口が寒冷化によって支えきれず、ムラは解体し、西日本に移動していくのだと思っていた。
◆が、しかし小林謙一氏によれば、基本的に西日本も東日本もあまり歩みに差はないという。佐原さんの縄文文化諸要素の西進のグラフがあるが、そういうことではないらしい。西日本の集落が後期にはいると増えるのは確かだが、大規模な人の移動というよりも、ベースがあまり変わらないなかで、(気候変動などにより?)、西日本の縄文文化そのものが発展したととらえられているらしい。中期と後期の変動の理由を聞きたかったのだが、縄文文化における西日本と東日本の差をあんまり大きく考えないというところに、むしろ「へえ~」と感じた。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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