人を幸せにする人になろう

ベルギーの旅(9)

◆5日の1日、ブリュッセルの探索。地球の歩き方で、ポイントは学習。とにかくグランプレイス。そ れから美術館でブリューゲルを見て、王宮、そこからEU本部、凱旋門。北の方にも王宮があって植物園が公開されているんだとか。アバウト頭に入れる、が、綿密な計画は立てず、適当に出発する。
◆そんなに距離はないので、町歩き。歩いてグランプレイスにむかう。線路の北側なので、だいたいこっちらへん、という程度。ブリュッセル旧市街は五角形をしていて、新市街はそこを中心に肥大し、放射状の街路と環状道路があるのかな、そんなもの。
◆旧市街のところ、まちはそんなきれいではありません。ゴミの話。むしろきたない。ポプラが目立つ。大きくて立派。それとトラム。路面電車はいいですよね。なんか都市らしいじゃないです か。完全地下鉄とトラムがあり、市街地の地下駅では同居していたりする。

ベルギーの旅(8)

◆5月5日、7時30となり、朝飯に。バイキングだが、イギリスのコンチネンタルよりはるかにゴー ジャス。チーズ類やハム・ベーコン類、パンの種類も多く、その前に各種ジャム、シリアル、フルーツ。(でもね、札幌のホテルはもっとよかった)。
◆日本人多い!。とくにおばさん。おじさんも少数いるけど、楽しくしゃべりながら食べてはいない。まあリーズナブルなホテルで、世界各国のいろんな人々が泊まっている。
◆それと飲み物は、まあファミレスのドリンクバーに同じ。スマホも。みなさん同じようにもち、いじっている。日本よりながらスマホはやや少ないようには思うけど、まあ同じ。そのうちゲームをしている頻度は、やはり日本の方が高いんだろうが、ブリュッセルでもスマホでゲームやってるヤツを見る。いま日本のテレビ見ててどうですか、半分くらいスマホのゲームのコマーシャルちゃうか、くらいの勢いですよね。1億総薄痴化進行中ですね。

言語政府とはなんぞや

ベルギーは1993年の憲法改正により連邦制に移行した。連邦は、ブリュッセル首都圏地域、フランデレン地域、ワロン地域の3つの地域と、オランダ語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の2層、計6つの組織で構成される。そして、フランデレン地域とワロン地域の2つの地域は、それぞれ5つの州に分かれている。
 ただし、オランダ語共同体とフランデレン地域については、ブリュッセル首都圏を除き領域が完全に重なるので、現行憲法が施行されてまもなく、オランダ語共同体政府がフランデレン地域政府を吸収する形で統合された。統合された自治体は単にフランデレンと呼ばれている。つまり、現在のベルギーには連邦構成主体は憲法上は6つ存在するが、実際上は5つしか存在しない。
 フランデレン地域とワロン地域の境界線は、国土のほぼ中央を東西に横切っており、言語境界線と呼ばれる。

◆連邦制とはいえ、地域区分のみならず、言語共同体という区分という2層?。首都圏域には、各 言語を使用する人々がまぜこぜになっているんだろうが、首都圏域に住むオランダ語を使用する人々は、地域政府としては首都圏地域政府に参加し投票するんだろうし、一方で、北部フランデレン地域の人々とともに、オランダ語共同体政府なるものにも参画するという、二重の関わり方をするということなんでしょう。

永世中立は?

 1949年以降、ベルギーは中立主義を放棄し、北大西洋条約機構に加盟し、集団安全保障体制を構 築している。軍は2002年に単一の統合軍に再編成されており、その下に陸上部隊COMOPSLAND(ベルギー陸軍)・海上部隊COMOPSNAV(ベルギー海軍)・航空部隊COMOPSAIR(ベルギー空軍)・医療部隊COMOPSMED(ベルギー医療部隊)の4部隊が編成されている。冷戦期までは徴兵制が敷かれていたが、それは廃止された。現在の兵力は現役約4万人、予備役約10万人。アメリカとニュークリア・シェアリングをしており、独自の核戦力は保持していないが核抑止力をもっている。

◆永世中立とはいえ、やはりナチスドイツの侵攻の経験の前に吹き飛んだのだろうか。そのへんの議論がどんなんで、どういった議決がなされたのでしょうね。核兵器のシェアね・・・。日本の軍隊を整備しよう、核武装しようという側にとっては、いい材料に使われたりするのでしょうか。しかし独立を獲得する道のりや、何度もフランスやドイツという強国の争いに巻きこまれた、といった歴史的経緯はまったく違う。

国王はけっこう強そう

 ベルギーは立憲君主制を採用している。国家元首である国王は、立法権を連邦議会と共に行使 し、行政執行権を憲法に基づき行使する。1990年に妊娠中絶が合法化される際に、当時の国王ボードゥアン1世は自身の信念に基づき中絶法案への署名を拒否したが、一時的に国王を「統治不能」状態として内閣が代行する事により、立憲君主制の原則を守ったという出来事があった。
 連邦議会は両院制である。上院である元老院は、40議席を直接選挙、31議席を間接選挙によって選出する。左記の71議席に加えて、元老院議員には国王の子女が名を連ねる。下院である代議院の議席数は150で、比例代表選挙により選出する。いずれも任期は4年で、同日に投票が行われる。
 連邦政府の長である首相は、議会の総選挙後に国王から指名された人物が組閣責任者となり、最大15名からなる内閣を組閣する(議院内閣制)。組閣責任者は必ずしも第1党から選任されるとは限らない。もしも、この後に下院の承認を得られない場合は、国王に対して辞表を提出することになる。
 前回の総選挙は2010年6月に行われ、12の政党が議席を獲得した。しかし北部のオランダ語圏と南部のフランス語圏の対立を背景とした連立交渉は難航を極め、正式な政権が541日も存在しないという事態となった。これは正式な政権が存在しない世界最長記録である。この政治空白の間の首相職は、総選挙で敗退したキリスト教民主フランデレン党のイヴ・ルテルムが引き続き暫定的に務めた。
 2011年11月26日、新政権樹立の連立協議で、主要6政党が2012年予算案で合意に達した。前国王アルベール2世は、ワロン系社会党のエリオ・ディルポ党首に組閣を指示。12月5日、ディルポを新首相に任命し、政権は12月6日に発足した。

◆よそから招いた王だが、実質的な権力をもってますね。なんだかヘンテコ。

永世中立国

1830年、ベルギーは独立を宣言し、1831年に憲法を制定し、主たる納税者であったブルジョワ ジー (財産家・資本家)男子による二院制と、国王の行政や軍事など最高の国家行為には首相の承認(副署)を要することを規定した。
 ベルギー憲法の、その首相副署主義は新しい立憲的制度であった。これはカトリックのベルギーが、外から迎えるプロテスタントの国王、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド1世(在位:1831年-1865年)に対抗するためのものであった。レオポルドは、ナポレオン戦争中はロシア帝国軍の傭兵士官として戦い、戦争後の1816年にイギリスに帰化して摂政王太子(のちの国王ジョージ4世)の王女シャーロットの婿になったこともあった。また、1837年に即位することになる女王ヴィクトリアの母はレオポルドの姉であった。1831年、レオポルド1世は立憲君主として初代ベルギー国王に即位した。
 1839年、オランダとベルギーとの平和条約(ロンドン条約(英語版))が締結された。そこにはオランダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは永世中立国の宣言をせよということになっていた。これはプロテスタント国家オランダにとって、カトリック国家フランスとベルギーとの同盟による軍事的脅威をなくすものであった。このように、ベルギーの永世中立国化はオランダの安全保障が関わっていた。
 レオポルド1世の後妻にはフランス国王ルイ・フイリップの王女ルイーズ・マリーが迎えられ、その間の息子レオポルド2世が王位を継いだ(在位:1865年-1909年)。次代の国王アルベール1世(在位:1909年-1934年)の治世で、ベルギーは第一次世界大戦に遭遇した。このように、新興のベルギー王家はイギリスやフランスと関係が深く、第一次大戦でアルベール1世がドイツ軍に徹底抗戦したのはこれが一因であった。

◆国王がいるんですね。フランス共和制という前例はあっても。

ベルギーの歴史・続々

ハプスブルク家がスペイン系とオーストリア系に分かれるとスペイン領となる。16世紀にはス ペインの支配に対して反乱 (八十年戦争) を起こし、ネーデルラント17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペインの支配下に留まった。この南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。
 18世紀のスペイン継承戦争の後にオーストリア領となる。1789年にハプスブルク家の支配に対して革命を起こし、1790年には独立国家であるベルギー合衆国を建国する。ベルギー合衆国は短期間で、再びハプスブルク家の支配下に戻るが、フランス革命戦争によりフランス軍に占領され、1797年のカンポ・フォルミオ条約によってリエージュ司教領と共にフランスに併合された。ナポレオン戦争の終結後、1815年のウィーン議定書によって現在のオランダと共にネーデルラント連合王国として再編された。1830年にネーデルラント国王ウィレム1世の支配に対して独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。1831年にはドイツの領邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。1839年のロンドン条約 で、オランダはベルギーの独立を承認し、ベルギーは領有していたルクセンブルク大公国とリンブルフを、オランダと分割した。
 1885年に第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカにコンゴ自由国を領有する。コンゴ自由国はレオポルド王の極めて残忍な統治で徹底的に搾取され、コンゴの人口は2500万人から1500万人に激減したと推定されている。国際的な非難を呼んだため、1908年にベルギーの国家的所有に移されて、ベルギー領コンゴとして1960年まで支配した。第一次世界大戦では、1914年にドイツ帝国に占領される。1919年のヴェルサイユ条約によりドイツ帝国の植民地であった現在のルワンダとブルンジを獲得する。第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツにより再び占領される。第二次世界大戦後は欧州経済共同体の創設に参加するなど、欧州統合に向けての中心的役割を果たすようになる。一方、1960年にコンゴ民主共和国がベルギーから独立したが、独立に際してのベルギーの拙劣な対応は、コンゴ動乱やモブツ体制の確立など、コンゴの不安定化を大きく助長する。
[写真]レオポルドⅡの銅像。

ベルギーの歴史・続

 9世紀初頭よりはじまったノルマン人襲来の脅威から身を守るため、各地で地主や司教たちを中心と してフランドル伯領、ブラバント伯領、リエージュ伯領、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルク伯領、ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生する。なかでもフランドル伯領は、リンネルの交易によって「ヨーロッパの工場」としての地位を築き上げ、ブルッヘやヘントといった都市を中心に繁栄を誇った。
 10世紀に入ると城や砦に隣接して誕生した居住地(ブルグス)の住民は共同体を形成するようになり、キヴェスやブルゲンセスといった呼称で統一的に呼ばれるようになった。特にブルゲンセスは何らかの特権を賦与された住民層を示す語となり、外来者や下層民らと自身を区別する意識を持つようになった。彼らは土地の所有など一定の条件を満たす者同士で宣誓共同体(コミューン)を結成して法人格を持つグループを構成した。コミューンを通して領主との双務的契約の締結がなされるようになり、コミューンは金銭の支払いや領主への奉仕を交換条件として税の免除や一定の自治権の取得といった特権を獲得していく。こうして都市は領主と一部の特権階級者によって支配されるようになり、一般市民との対立を招く結果となる。
 1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランド王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブルッヘが征服される。この結果フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなる。
 フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図る。飛び地の解消を目指してフランス王国へと積極的な介入を見せたが、1477年、ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を受けることとなる。シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家のマクシミリアン大公(のちの神聖ローマ皇帝)に救援を要請し、結婚した。ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれる。

ベルギーの歴史(ウィキ)

 紀元前6世紀ごろになるとケルト人がライン川を渡って到来。紀元前後になるとローマ人との接触 がはじまる。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ。ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となる。ローマはゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンヘレン・トゥルネー・アルロンといった植民都市が築かれる。アウグストゥスの時代に、ベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州となるが、ドミティアヌスはライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアとなる。
 3世紀に入り、フランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入をはじめ、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュとケルンを結ぶ軍用道路線まで後退する。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となったそうな。
 フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国は、358年、サリ族のトクサンドリア定着を認め、481年、サリ族の王となったクロヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国する。クロヴィス1世は、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した。しかし没後、王国領土は4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進む。
 でカール大帝。今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、800年、サン・ピエトロ大聖堂において西ローマ帝国の帝冠を授与される。民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した、のだそうな。

ベルギーの旅(7)

◆ベルギーについて勉強しましょう。以下、ウィキ。

 ベルギー王国は、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。欧州連合(EU)の原加盟国であることや、地理的には欧州のほぼ中央部に位置する交通の要衝にあり、その主要機関の多くがブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)に置かれているため、ブリュッセルはEUの首都とも言われている。憲法上の首都は、19コミューン(自治体、区)から成るブリュッセル首都圏。中心部にはその自治体のひとつブリュッセル・ヴィルがある。
 19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語の地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年に北部オランダ語圏のフランデレンと南部フランス語圏ワロンとフランス語とオランダ語二カ国語が公用語のブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。

◆1993年に連邦制に移行したんだって。その内実がどんなんか、ということはあろうが、連邦政 府はあるんだろうが、基本的には三つの主権地域に任されているということなんでしょうね。これにEUといった枠組みができあがり、安全保障や経済政策といったものがより広域の枠組みで決まるとなると、ベルギー王国としての枠や、連邦政府という役割は、なくなりはしなくとも一応のひとつの単位として、また代表という意味合いということになるのでしょうか。
◆いわゆる国家なるもの、中央集権的な近代国民国家を経て、望ましいのはこの連邦制のような姿なのかもしれません。実際的な地域圏こそが基礎的な国であって、自治的な運営をむしろ強め、より広域にわたる問題のみ、従来から存在し、それをなくすことは当面はないであろう国家的枠組みで対処する、といった姿。国民が自らの生活や生活圏について自治的意識をもって民主的に運営するには、そんなに大きな単位ではないんでしょうね。そして21世紀において、競合や戦争といったものがなくなり、共存を課題にするとすれば、そうした単位を基本にし、しかしより上位の利害調整機能も置いておく、というのが望ましいのでしょう。
[写真]どうも選挙があるらしく、これ選挙ポスターらしい。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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