人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
福岡市の報告書
◆発掘調査報告書のリポジトリのことで話が盛り上がる。詳しくはまた改める。で、福岡市の報告書の話になった。ネットで調べると、平成23年度で42冊を刊行し、1,075集となったそうな。すごいというほかありませんね。うちの報告書はまだ4冊です。3ケタ違う。全国でも最多の数であろう。掘る、報告書を出す、それを政令市で実践し続けている福岡市、である。
鹿屋市の立小野堀遺跡の地下式横穴群
◆宮崎市内での呑み会で。立小野堀遺跡で地下式横穴が174基に達し、全体では200数十基になる見通しという。1箇所でこれだけの数、確認されているのはここくらいという。鹿児島県内では、これまでに見つかっていた地下式横穴ぜんぶの数を超えるものという。そしてTK73?、TK216と、古いものが数多い。新しいのでTK10といったか。
◆これだけの地下式横穴が発掘されるのは、後にも先にもここくらい、ということになりそう。で、これ東九州自動車道という。地下式横穴で史跡はなく、えびのの島内も同意取りが難しく未指定という。この遺跡、はたしてこのまま自動車道で壊していいものなのだろうか。すぐ脇まで工事はきているという。関係者も当然考えないわけではないだろうし、どういった経過をたどったかもわからないし、あまり簡単にこんなことを言うのは控えるべきだろう。が、多くの人は、たぶん同じように考えると思う。史跡になっておかしくないもので、なぜ残す話にならないのか、と。
◆これだけの地下式横穴が発掘されるのは、後にも先にもここくらい、ということになりそう。で、これ東九州自動車道という。地下式横穴で史跡はなく、えびのの島内も同意取りが難しく未指定という。この遺跡、はたしてこのまま自動車道で壊していいものなのだろうか。すぐ脇まで工事はきているという。関係者も当然考えないわけではないだろうし、どういった経過をたどったかもわからないし、あまり簡単にこんなことを言うのは控えるべきだろう。が、多くの人は、たぶん同じように考えると思う。史跡になっておかしくないもので、なぜ残す話にならないのか、と。
西殿塚
◆箸墓は歩いた通路が狭いので、一列縦隊に近く、みなで意見をかわすことがしにくかった。途中からは、菊地さん
や犬木さんと一緒に最後尾でじろじろ見て、話をしながら歩いていた。で、先頭とはかけ離れ、そこでの議論は知らない。西殿も同じで、常にわれわれは最後尾にいたのでわからなかったが、検討会の発言を聞いていると、西殿塚に関しては、みなが、くびれ部でスロープを設けてテラス面を接続していることは、ほぼ了解された様子である。
◆上段と中段の間のテラス面でいえば、後円部テラスに取り付く際までスロープがたどれるわけではないが、中段のまんなか位までは、前方部から続くテラス面の延長にスロープがあることが視認できた。中段と下段の間の下位のテラス面は、こっちは両側とも改変が入っているため、赤色立体画像以上のことはわからないが、こっちも当然、そうなっているだろう。
◆そして基壇(右写真)。オレは時間がかかっていたので、最後、基壇を自由に見て回る段階で、前方部側から北上していったが、歩みがのろいもので、みんなは後円部側まで見て、くびれ部に戻ってきた頃、そろそろくびれ部を終えて後円部側をという段階で、全員そろって出るということになり、結局、後円部側は見れなかった。
◆なので前方部側の所見であるが、『書陵部紀要』にすでにだいたいのことは書いてあったと思うが、3段の下段裾から、だらだらと外へ続くのではなく、幅広の平坦面と、緩傾斜の斜面部に分かれるとみた。それも適当ではなく、下段裾から幅いくらかと設計してあるのではないか。そして、基壇の一番外のところでは、先の緩傾斜面が終わり、狭い平坦面となり、そして裾部が削り込まれて段差(高さ50㎝程度?)となる。へたをすれば基壇も2段の可能性もあるのかな、と感じた。そして崖面でも埴輪片があったので、基壇にも埴輪を樹立していた可能性も考えておかなければならないように思う。
◆西殿で気になるのは、周濠。箸墓は周濠を造って外界と墳丘を画している。そういう思想を継承しているとすれば、立地がぜんぜん異なるものの、外郭に溝を廻らし画している可能性はないのだろうか。西殿が傾斜地のかなり高い位置に築造され、基壇の西側はだんだんに地盤は下っていくことになる。丘陵上ではないが、かなり高い位置にあり、平野部とは距離があり、みだりに立ち入れるようなもので自ずからなく、基壇裾があり手前は斜面という仕上がりでもよかった、と考えられるのかもしれない。けれども、やはり溝をうがって王墓と外界との区切りを明示していておかしくないように思う。くびれ部にあたる部位では、基壇の崖面の外がじめじめ水が溜まっていたのを見ると、そういうことも十分ありうるのではと感じた。
◆上段と中段の間のテラス面でいえば、後円部テラスに取り付く際までスロープがたどれるわけではないが、中段のまんなか位までは、前方部から続くテラス面の延長にスロープがあることが視認できた。中段と下段の間の下位のテラス面は、こっちは両側とも改変が入っているため、赤色立体画像以上のことはわからないが、こっちも当然、そうなっているだろう。
◆そして基壇(右写真)。オレは時間がかかっていたので、最後、基壇を自由に見て回る段階で、前方部側から北上していったが、歩みがのろいもので、みんなは後円部側まで見て、くびれ部に戻ってきた頃、そろそろくびれ部を終えて後円部側をという段階で、全員そろって出るということになり、結局、後円部側は見れなかった。
◆なので前方部側の所見であるが、『書陵部紀要』にすでにだいたいのことは書いてあったと思うが、3段の下段裾から、だらだらと外へ続くのではなく、幅広の平坦面と、緩傾斜の斜面部に分かれるとみた。それも適当ではなく、下段裾から幅いくらかと設計してあるのではないか。そして、基壇の一番外のところでは、先の緩傾斜面が終わり、狭い平坦面となり、そして裾部が削り込まれて段差(高さ50㎝程度?)となる。へたをすれば基壇も2段の可能性もあるのかな、と感じた。そして崖面でも埴輪片があったので、基壇にも埴輪を樹立していた可能性も考えておかなければならないように思う。
◆西殿で気になるのは、周濠。箸墓は周濠を造って外界と墳丘を画している。そういう思想を継承しているとすれば、立地がぜんぜん異なるものの、外郭に溝を廻らし画している可能性はないのだろうか。西殿が傾斜地のかなり高い位置に築造され、基壇の西側はだんだんに地盤は下っていくことになる。丘陵上ではないが、かなり高い位置にあり、平野部とは距離があり、みだりに立ち入れるようなもので自ずからなく、基壇裾があり手前は斜面という仕上がりでもよかった、と考えられるのかもしれない。けれども、やはり溝をうがって王墓と外界との区切りを明示していておかしくないように思う。くびれ部にあたる部位では、基壇の崖面の外がじめじめ水が溜まっていたのを見ると、そういうことも十分ありうるのではと感じた。
テラス面の石敷
◆これも今回、話題になったが、こっちにしてみれば、テラスが礫敷なのは当たり前、と思っております。玉手山1号墳・3
号墳・7号墳、すべて石敷です(9号墳も松岳山も)。右に玉1を掲げます。この写真よく見てくださいね。くびれ部に白色円礫が敷いてあるのですよ。白色円礫敷となると櫛山には負けるけども、こういう使い方をしていることが確認できた事例として貴重だと思いますよ。かつ、7号墳には墳裾にも礫敷がめぐる。3号墳でもたぶん。
◆そして桜井茶臼山でもそうだろうと判断した。報告文の各所で所見がえられたところに書き、最後まとめのところにも書いておいた(『桜井茶臼山古墳の研究』〈大阪市立大学日本史研究室考古学研究報告〉第2冊、2005年、42頁)。そしてメスリ山古墳でも、こっちはテラス面は推測だが、墳頂については礫敷だろうとした(『メスリ山古墳の研究』〈大阪市立大学考古学研究報告〉第3冊、2008年、20頁、62頁)。
【追記】昨日の検討会のあと、何人かの記者さんと話をしたが、うち1人が「玉1に行ってました・・・」。竹内君だった。いや~、そう言われると思い出した。ごめんな。以上、うちの発掘の宣伝をいろいろさせてもらいました。
◆そして桜井茶臼山でもそうだろうと判断した。報告文の各所で所見がえられたところに書き、最後まとめのところにも書いておいた(『桜井茶臼山古墳の研究』〈大阪市立大学日本史研究室考古学研究報告〉第2冊、2005年、42頁)。そしてメスリ山古墳でも、こっちはテラス面は推測だが、墳頂については礫敷だろうとした(『メスリ山古墳の研究』〈大阪市立大学考古学研究報告〉第3冊、2008年、20頁、62頁)。
【追記】昨日の検討会のあと、何人かの記者さんと話をしたが、うち1人が「玉1に行ってました・・・」。竹内君だった。いや~、そう言われると思い出した。ごめんな。以上、うちの発掘の宣伝をいろいろさせてもらいました。
テラス面の高低差の解消
◆ついでに言えば、前方部は前面および両側面ともかなり削り込まれている。法面をみたらわかりますよ。なので墳裾は現状よりも大きく
外へ出ると考えられる。寺澤さんは前方部の北側と前面側に基
壇を考えているが、前方部最下段そのものを検出しているのであって、それも含めての4段築成になると思います。右の写真でいくと、雪のラインぐらいになるんとちゃう?
◆ちなみに、寺澤さんが検出した前方部西北隅付近の葺石が墳丘そのものという点については、「前方後円墳の墳丘規模」『大阪市立大学大学院文学研究科紀要 人文研究』第55巻第2分冊(2004年)に書いたことがあります(右、一部抜粋)。大阪市大のリポジトリで全文PDFでダウンロードできるようになっているはずです。
◆3面ものテラスが後円部と接続するあの細い部位のなかに収まるか?、と言われれば、たぶんそうなっていたと推測するのがよいと考えています。西殿塚古墳にもかかわりますが、こうした前方部側で、対応する低いテラス面を、後円部の高いテラス面にスロープで取り付けることについては、
五色塚古墳などの例で既に知られているところで、1992年の論文でどう書いたかはわ
かりませんが修士論文の段階からそうみておりました。
◆こういう接続のさせ方がバッチリ検出されている古墳があるのをご存知でしょうか。玉手山7号墳ですよ(『玉手山7号墳の研究』〈大阪市立大学考古学研究報告〉第1冊(2004年)。カラー写真はこの正報告書ではなく、柏原市から刊行していただいた概報です。
◆ちなみに、寺澤さんが検出した前方部西北隅付近の葺石が墳丘そのものという点については、「前方後円墳の墳丘規模」『大阪市立大学大学院文学研究科紀要 人文研究』第55巻第2分冊(2004年)に書いたことがあります(右、一部抜粋)。大阪市大のリポジトリで全文PDFでダウンロードできるようになっているはずです。
◆3面ものテラスが後円部と接続するあの細い部位のなかに収まるか?、と言われれば、たぶんそうなっていたと推測するのがよいと考えています。西殿塚古墳にもかかわりますが、こうした前方部側で、対応する低いテラス面を、後円部の高いテラス面にスロープで取り付けることについては、
◆こういう接続のさせ方がバッチリ検出されている古墳があるのをご存知でしょうか。玉手山7号墳ですよ(『玉手山7号墳の研究』〈大阪市立大学考古学研究報告〉第1冊(2004年)。カラー写真はこの正報告書ではなく、柏原市から刊行していただいた概報です。
箸墓はたぶん4段でいい
◆前方部の側面には段がないとされていたが、寺澤さんは2段に復元、わたしも最下段はあるとする図を示したこと
がある(右図)(以下、上から仮に上段・中段・下段・最下段としておこう)。前にも書いたが、側面にテラスがあることそのものは、南側の道路に立てば見える。それと、西求女とか備前車塚にあることも考慮していた。しかしカシコーケンのレーザーで、1面のみならず、ほかにも前面のテラス面が側面にまわってくることが明らかになる。それをふまえて、現地で確認することを最大の目的とした。
◆カシコーケンのHPで赤色立体図が公表されていたが、今尾さんに20日当日の資料を作成いただいたのだが、そこで、HPで赤色立体図に段築復元を記入したものも、最新の資料では公表されていることを知る。それでは前方部は3段に復元されていた。
◆観察の結果、まず上2面のテラスは、上のものがもっとも明瞭で、下のものはとぎれがちだが、南側面でもほぼ通るとみてよいと、道昭さんや、菊地さんや犬木さんと話をする。実に微妙な傾斜の変化があり、やや傾斜が緩くなり、テラス残存部肩部の稜のようなものがたどれる。これで、上段と中段は画される。ここまではカシコーケンも同じ。問
題はその下が1段なのか、2段に分かれるのかという点。この部分、墳裾まではまだかなりの高さがある。1段だとすると、上段および中段に対し、斜面長の長い下段となる。
◆さっきの下位のテラスだって視認はようやくというところもあり、まして改変を受けているその下のところで、テラスがあったかどうかは、なかなか確実に言えるところは少ない。そのなかで、前方部前面では、乱れはあるのだが、下段があって、その下にテラス面が通るとみた。そして、これに相当する側面のテラスは既に消失した範囲も多いと思われるが、前方部の西北隅部とか、南くびれ部とか、今回立ち入りが許された巡回路となっている幅の狭い通路のなかに、もともとテラス面だった部位に相当するものがあるように思われる。
◆右の写真の南側面でいえば、見えてる斜面の途中に下段と中段の間のテラスがあるようになんとか見え、足下あたりが最下段と下段の間のテラス位置に相当するのではないか、ということです。
◆そして箸墓は、後円部については、径が120歩・100歩・80歩・60歩というように、ほぼ同等の土段を重ねているわけだが、そういう均等なあり方から考えても、前方部についても、ここまで見てきたような現地での読み取りをあわせ、もう1面テラスがあって下半分が2分され、こっちもほぼ均等な4段としている、と考えるのが整合性が高いと考えます。
◆カシコーケンのHPで赤色立体図が公表されていたが、今尾さんに20日当日の資料を作成いただいたのだが、そこで、HPで赤色立体図に段築復元を記入したものも、最新の資料では公表されていることを知る。それでは前方部は3段に復元されていた。
◆観察の結果、まず上2面のテラスは、上のものがもっとも明瞭で、下のものはとぎれがちだが、南側面でもほぼ通るとみてよいと、道昭さんや、菊地さんや犬木さんと話をする。実に微妙な傾斜の変化があり、やや傾斜が緩くなり、テラス残存部肩部の稜のようなものがたどれる。これで、上段と中段は画される。ここまではカシコーケンも同じ。問
◆さっきの下位のテラスだって視認はようやくというところもあり、まして改変を受けているその下のところで、テラスがあったかどうかは、なかなか確実に言えるところは少ない。そのなかで、前方部前面では、乱れはあるのだが、下段があって、その下にテラス面が通るとみた。そして、これに相当する側面のテラスは既に消失した範囲も多いと思われるが、前方部の西北隅部とか、南くびれ部とか、今回立ち入りが許された巡回路となっている幅の狭い通路のなかに、もともとテラス面だった部位に相当するものがあるように思われる。
◆右の写真の南側面でいえば、見えてる斜面の途中に下段と中段の間のテラスがあるようになんとか見え、足下あたりが最下段と下段の間のテラス位置に相当するのではないか、ということです。
◆そして箸墓は、後円部については、径が120歩・100歩・80歩・60歩というように、ほぼ同等の土段を重ねているわけだが、そういう均等なあり方から考えても、前方部についても、ここまで見てきたような現地での読み取りをあわせ、もう1面テラスがあって下半分が2分され、こっちもほぼ均等な4段としている、と考えるのが整合性が高いと考えます。
なんかぐったりです
◆本日、21日の現在18:30。昨日は天理駅前で呑み、八木経由で帰宅したが、寝過ごし、いったん河内山本まで行ってしまう。ヘロヘロです。
◆21日、本日、堺市のニサンザイの現場。すごい!・・・、昨日、新聞記者の一人にデジカメ画像を見せられてはいたのだが、墳丘斜面裾部から濠底にかけて柱穴がならぶ(本日の17時解禁といっていたので、たぶんもう大丈夫でしょう)。昨日に続き、またまた倭国王墓を見せてもらい、ありがたい話である。感激ものです。
◆そして午後、第1回卒論演習を18時近くまでやって、終わったところ。ヘロヘロです。研究室にいたバイトによれば、けっこう電話が鳴っていたという。ラジオ関西からの1本は電話に出たが、「箸墓古墳のことで~」ということだが、取り込み中だったので、あとにして、と。メールをみたらTBSからメールが来ていて、サンデーモーニングで取り上げるので、箸墓古墳について教えて欲しいと。この電話もあったのだろう。捕まらないからメールが来ているのだろう。さてどうしたもんだべ。もう他の人にあたって用は済んでいるのでは、と思う。今日1日、研究室にほとんどいなかったことは幸いであった。「今回の立ち入りでわかったことは何でしょうか」。う~ん、テレビらしいワンフレーズとは言わないが、短く言え、と言われているんだろうが、答えるとしたらどう答えますかね。そういうのにチャッチャと答える明晰な頭脳はもちあわせておりません。世間に理解してもらうには、わかりやすく短く解説することも必要なのでしょうね、とは思うが・・・。ヘロヘロでもあり、頭もまわらん。自分としては、『ヒストリア』4月号に報告を書く際にまとめたいと思っている。昨日見たことをふまえて、じっくりと考え記しておきたいと。
◆21日、本日、堺市のニサンザイの現場。すごい!・・・、昨日、新聞記者の一人にデジカメ画像を見せられてはいたのだが、墳丘斜面裾部から濠底にかけて柱穴がならぶ(本日の17時解禁といっていたので、たぶんもう大丈夫でしょう)。昨日に続き、またまた倭国王墓を見せてもらい、ありがたい話である。感激ものです。
◆そして午後、第1回卒論演習を18時近くまでやって、終わったところ。ヘロヘロです。研究室にいたバイトによれば、けっこう電話が鳴っていたという。ラジオ関西からの1本は電話に出たが、「箸墓古墳のことで~」ということだが、取り込み中だったので、あとにして、と。メールをみたらTBSからメールが来ていて、サンデーモーニングで取り上げるので、箸墓古墳について教えて欲しいと。この電話もあったのだろう。捕まらないからメールが来ているのだろう。さてどうしたもんだべ。もう他の人にあたって用は済んでいるのでは、と思う。今日1日、研究室にほとんどいなかったことは幸いであった。「今回の立ち入りでわかったことは何でしょうか」。う~ん、テレビらしいワンフレーズとは言わないが、短く言え、と言われているんだろうが、答えるとしたらどう答えますかね。そういうのにチャッチャと答える明晰な頭脳はもちあわせておりません。世間に理解してもらうには、わかりやすく短く解説することも必要なのでしょうね、とは思うが・・・。ヘロヘロでもあり、頭もまわらん。自分としては、『ヒストリア』4月号に報告を書く際にまとめたいと思っている。昨日見たことをふまえて、じっくりと考え記しておきたいと。
あすは箸墓・西殿
◆日曜、もうひとつの仕事というのは、結局できず、かなり厳しくなっているが、なんとか2月中に決着させなければならない。月曜日、宮崎へは午後の便なので、午前は大学で仕事、博物館実習室の備品購入の残りの仕事をやり、事務に行き打ち合わせ、それでもう時間。JR難波に出て空港リムジンで伊丹へ。けっこうぎりぎりだったが、天候不良のため到着が遅れており、結局、どれくらいだろうか、1時間近くずれたのかな。
◆このブログを初めて以来、2回、西都原出張の機会があり、記事にするネタをもらって帰るも、2回とも、バタバタしているうちに、細かく報告することなく終わってしまっているという記憶がある。今回も、柳沢先生と重藤さんと、県の人にオデン屋さんに連れていってもらい、そこでいっぱい最新情報を仕入れ、一所懸命メモを作成したが、今回もまた、戻ってきて、記憶の新しいうちに記事にする余裕がない。
◆翌日の火曜日、本当は夜19時くらいに伊丹着の便だったが、陵墓の運営委員会が設定され、便を1本早めてもらった。17時に着き、京都駅までリムジン。ほぼ18時着。19時開始まで1時間。腹ごしらえとメモ作りとをやった。で、21時半くらいまでキャンパスポートにおり、八木経由で戻ると23時半くらい?。明日は、箸墓と西殿。月曜日出るときに、それ関係の一切合切を仕込んでおくのを忘れ、しまった・・・。まあ、早く寝て明日にそなえようか。とはいえ、もう20日の1時40分になった。
◆それと、キャンパスポートで腹ごしらえして店を出ようとすると、サイフがないのだ・・・。サイフとは別に非常用にカバンに入れていた万札で支払って出たものの、またやった、トホホです。バスのなかか、京都駅か。京都駅なら出てきやしないだろう。前にもカバンを盗られ、結局出てこなかった。
◆もうひとつ。京都の会議の途中、携帯が鳴ったが出なかった。メールが来ていて、卒業予定の一人からだった。臨時雇用だと思うが、あるところの発掘業務の仕事に応募していたのだが、来てくれとの連絡をもらったとのこと。修行に行ってこい、と。
◆このブログを初めて以来、2回、西都原出張の機会があり、記事にするネタをもらって帰るも、2回とも、バタバタしているうちに、細かく報告することなく終わってしまっているという記憶がある。今回も、柳沢先生と重藤さんと、県の人にオデン屋さんに連れていってもらい、そこでいっぱい最新情報を仕入れ、一所懸命メモを作成したが、今回もまた、戻ってきて、記憶の新しいうちに記事にする余裕がない。
◆翌日の火曜日、本当は夜19時くらいに伊丹着の便だったが、陵墓の運営委員会が設定され、便を1本早めてもらった。17時に着き、京都駅までリムジン。ほぼ18時着。19時開始まで1時間。腹ごしらえとメモ作りとをやった。で、21時半くらいまでキャンパスポートにおり、八木経由で戻ると23時半くらい?。明日は、箸墓と西殿。月曜日出るときに、それ関係の一切合切を仕込んでおくのを忘れ、しまった・・・。まあ、早く寝て明日にそなえようか。とはいえ、もう20日の1時40分になった。
◆それと、キャンパスポートで腹ごしらえして店を出ようとすると、サイフがないのだ・・・。サイフとは別に非常用にカバンに入れていた万札で支払って出たものの、またやった、トホホです。バスのなかか、京都駅か。京都駅なら出てきやしないだろう。前にもカバンを盗られ、結局出てこなかった。
◆もうひとつ。京都の会議の途中、携帯が鳴ったが出なかった。メールが来ていて、卒業予定の一人からだった。臨時雇用だと思うが、あるところの発掘業務の仕事に応募していたのだが、来てくれとの連絡をもらったとのこと。修行に行ってこい、と。
2月17日の日曜日
◆12・13の卒論・修論の口頭試問、14・15の大学院入試、毎年のことながら、仕事のひとつのピーク。卒論の点数については、昔はカンカンガクガクの議論をしていたと聞いている。日本史教員も世界史の論文も読み、世界史の教員も日本史の論文を読み、対象や中身は違っていても、努力の程度、完成度、その意義、こっちよりこっちが上といった議論を延々と戦わせていたという。いまは大きくもめることはないが、それでも日本史・世界史こえて、相互に論評しあう雰囲気はある。
◆大学院入試はさらに慎重な議論を延々とやる。
◆で、この土日、やることが2つ。ひとつは後期試験の成績出し。が、体調が悪い。昨日も大学へ出てきたものの、寝不足もあるが、寒気がして、とてももたない。場所を移し、博物館概論の答案を読み続ける。昨日はそこまで。帰って布団に入り養生。日曜日の今日、レポート点などを加味してなんとか総合評価の点を付け終わる(ほんとは15日〆切)。明日、宮崎に出張だが、朝、事務室に出して行くことにしよう。
◆さて、ひとつは区切りがついたので、ここからもうひとつの仕事にとりかかろう。
◆大学院入試はさらに慎重な議論を延々とやる。
◆で、この土日、やることが2つ。ひとつは後期試験の成績出し。が、体調が悪い。昨日も大学へ出てきたものの、寝不足もあるが、寒気がして、とてももたない。場所を移し、博物館概論の答案を読み続ける。昨日はそこまで。帰って布団に入り養生。日曜日の今日、レポート点などを加味してなんとか総合評価の点を付け終わる(ほんとは15日〆切)。明日、宮崎に出張だが、朝、事務室に出して行くことにしよう。
◆さて、ひとつは区切りがついたので、ここからもうひとつの仕事にとりかかろう。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。