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人を幸せにする人になろう

千歳車塚

◆久しぶりだ。昔、堤側を掘っている時に見せてもらった記憶がある。6世紀前葉といいたいところ だが、草深い墳丘を登っていくと、後円部の墳頂はけっこう広いし、前方部は後円部に対して低い。5世紀後葉とみた方がいいように感じる。
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愛宕神社と出雲大神宮

◆愛宕神社。元愛宕というのだそうですね。昔、愛宕山に一度だけ上ったことがある。京都盆地の 北東は比叡山、北西は愛宕山、これが京都の景観。だが、もとは亀岡盆地側のものという解説があった。いまは愛宕山の山上が本宮のようになっているが、もとはこっちというので元愛宕、というのだそうである。集落背後の山のやや入った位置にある。ひっそりと鎌倉時代の本殿があり、神社らしい神社。
◆一方、丹波一の宮である出雲大神宮。753を含め、平日月曜の午前というのに、次から次へと人がやってくる。祈祷をお願いする女性が待機し、順番に祈祷してもらっている。縁結び、というので売り出してもいるよう。繁盛している・・・、と。神社も現代を生き抜いていかないといけないが、近 い場所の2つの神社が対比的で面白かった。

丹波国分寺

◆むかし史跡整備事業を進めている時に、何度か見に行ったことがある。追加指定もされ、用地買 収もされ、史跡整備を進めているよう。回廊の高まりを整備している途中のように見受けられた。◆休日になれば子供を遊ばせに来るような公園のようになればいいですね。それで十分と思うが、そういう場としていくことも、けっこう大変なんだろうな、と感じる。、

御家人

◆5世紀以降の大型円墳。大型前方後円墳被葬者とは異なり、より王権に直属する形で、軍事的役割を担うものとして編成された被葬者イメージか。こういうのをどう理解するか。で、ふと御家人という言葉が思い浮かんだ。ウィキ。「平安時代には、貴族や武家の棟梁に仕える者を「家人」と呼んでおり、鎌倉幕府が成立すると鎌倉殿と主従関係を結び従者となった者を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになった。」、と。
◆直木先生的にいえば、臣姓氏族に対して、5世紀に連姓氏族が現れてくる、ということともつながるイメージ、ということでしょうか。地名を冠し、一定地域を治める同格的臣姓氏族に対して、王権に対する役割がウジ名となる連姓氏族が、王権内に編成されてくるということとも、つながってくるのでしょうか。一方、A型とかB型の舎人軍というやつ、ぜんぜん勉強していないが、そういうことも学習していかなければならない。

2017年12月4日、丹波

◆この数年、大学院演習では、順番に発表をまわしたあと、ところどころにFWを入れている。前期 は2回行ったが、後期は、確か台風で授業がなしになったこともあって1回目はなくなったが、今回は丹波にでかけた(午後の早い目には帰ってくるようにしている)。
◆まず亀山城。いやびっくりしました。大本教の弾圧は知ってはいても、出口オニ三郎がすっかり城を買い取って、本部にしていたということを知りませんでした。明治に取り壊されるが、どこまで石垣は取り壊されていたのだろうか。そして、鉄道敷設のために石垣石が使われたという。そして、大正8年に出口が入手、石垣を構築。しかし弾圧後の1936年に、建物のみならず石垣も徹底して破壊されたらしい。それを戦後にさらに再建。なので、近世城郭とはいえ、何度もの改変を受けた姿であるわけだ。
◆一般の見学者にも開放されており、受付に言えばひとめぐり、することができる。

白石太一郎先生の傘寿をお祝いする会

◆出席のハガキをしばらく寝かせていたら(Jムークの撮影との関係)、直前になってしまい、あわ てて投函する。会場は近鉄奈良駅のビル。あんたの出席は聞いてませんと言われれば帰るつもりであったが、無事、受け付けられていたようで、テーブル名「今城塚」の席に組み込んでいただいておりました。
◆主催者あいさつのあと、3名ほどの祝辞スピーチがあるほかは、フリーで、1時間もたてば、入り乱れてくる(もちろん最後のところで先生のご挨拶はある)。
◆2次会まで行き、終了。みなさんといろんな話をした。酔いに任せてほとんどは忘れてもいいのだが、少し書き留めておくべきようなこともある。お城は近代の遺跡だ、とか。大阪の近代建築をいかに守るか、とか。削りは北陸が早いとか(Iさん、また教えてください)。

2017年12月3日、Jムークの撮影

◆9:30に学情に行き、セッティング後、10時過ぎから撮影が始まりました。わたしは2回分でいちばん少ないのですが、無事、2本分の撮影を終えました。前日夜、読み原稿にさらに手を入れ、今日の本番前に、投影する原稿データを直してもらいました。昨夜は読む練習を何度か・・・。
◆今日は午後奈良ですが、その前に、Jムークに使う画像等の調整をやってしまいたいと思います。

土佐街道

◆高取城攻めにむかう。すると自然に土佐街道、高取城下町に行く着く。これは歩かないと。店に入 りお茶を飲み、短い時間だが散策する。
◆高取藩、植村氏というのは徳川=松平の譜代大名とのこと。で、いまも町長をやっている、のだそうだ。まだ支配している・・・。城への大手道をさらにさかのぼった地点に、大きな植村屋敷がある。
◆城へは、壷阪寺側から上がった方がよかったようだが(カーナビが動かなくなっていた)、大手道沿いに途中からは山登りとなる。登りはもうカミさんのスピードに追いつかなくなっている。そして城郭遺構が現れ始める。ま、石垣ですけど。本丸に着くと、16時前だったが10人程度は登っている人がいた。降りるにも30分はかかった。

キトラ関係

◆行ったのは石舞台周辺くらいで、飛鳥をくまなくまわったというのでは全然ないが、看板が新しくなっていました。けっこう経費もかかるのだと思い ますが、うれしいですね。
◆高取にむかっていると、なにやらあちこちで造成が進み、新しく建物が建っている。なんじゃこれは???。どうやらキトラ関係らしい。檜前寺にも立ち寄らず、スルーしたが、ちょっとやりすぎです。公園ばっかり。

2017年12月2日、飛鳥から高取

◆カミさんは三方五湖の水月湖に行きたいと。ちょっとそれは・・・。とはいえ職場に行くのをやめ、 飛鳥方面に。石舞台、都塚、坂田寺、食事、天武陵、鬼の俎板・雪隠。そのあと高取に。
◆何をやっていたのかというと、フォトスキャンをやりに行ったわけです。が、石舞台はオオモノ過ぎて、写真の枚数が足りませんでした。天気も良すぎて、コントラストがきつく、これも条件的によくありませんでした。またまたリベンジが必要です。右は鬼の雪隠ですが、だいたいいいのだが、上面のデータが足りない・・・。やはり観光客は来るので、時間をかけて入念に撮影する必要がある。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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