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人を幸せにする人になろう

2017年7月6日は東京に行き 記事№3800

◆この日、朝から出かけて、速報展も見て、あの博物館も見て、といろいろ考えていましたが、そうもいかなくなり(やっとかないといけないことの堆積)、結局は仕事をある程度したあと、15:30頃だったか、東京に向かう。
◆20:00に待ち合わせ、息子と飲みました。就職の話も少し聞きました。電気通信会社だそうです が、どんなことをやっているのか、こっちにはあまりわかりません。技術開発と思っておりましたが、最初はいろんな部署をという話も出た。
◆行きの新幹線である原稿を直していましたが、途中でくたびれ、飲み始め、へろへろになっておりました。早めなので、わりと平和に終わり、息子の下宿に行き、ばたんと。こういうのも最後かね。
【追記】家で、サーバーを作っているんだそうです。まだまだこれから、なんだけど、とのこと。「家でサーバーを作る」???、文系人間にはよくわかりませんが、写真のようなものを作り始めているのだそうです。
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叩かれても叩かれても

◆庄内式の年代「論外」、三角縁神獣鏡の同ハン鏡の文様が不鮮明になっていくというのは何の根拠もない(ちなみに、こんなこと言ってないですよ、たぶん。)、三角縁神獣鏡の製作工人の渡来「成立の余地はない」、前方後円墳の2系列×、河内大塚山古墳が安閑未完陵(これも)「論外」(だったか)。2王並立も×、岩屋山が7世紀前半というのも×。まあ、叩かれております。
◆『考古学研究』で、三角縁に関する本の書評があったもので、買い求め、読んでみたわけです。わりに高い評価の書き方だったものですから。が、ちょっとね~。研磨等の仕上げが同ハン鏡でいろいろで、古墳ごとにむしろまとまりがあるので、大和に本拠をおく鏡工人が出向いて行って作ったのだとか。ハン傷は増えないんだとか。たぶん反論できると踏んだ。
◆しかし技術屋さんが、われわれにはできない分析で、新しい事実を指摘することは歓迎しますが、妙なことに、結局は小林批判、都出批判など、そんなところまで、かなり激しい口調でダメダメだ、というのはどうなんでしょうか。そりゃ学問ですし相違する見解を批判するのは当然だし、とくに影響力の大きい学説に対しては声が大きくなるのかもしれないが、冷静な議論を越えた人格批判に踏み込んでいるように思われます。そんなにわれわれはバカで、小林鵜呑みの者ばっかりなのか、そりゃまったく違うと思うんですけど。ほんとうに偉い人は謙虚ですよ。
◆それでもって鏡は違うのにハン傷が共通して、鋳型が再利用されているという論文も読み返してみた。この観察そのもの、断面の比較も、これは妥当だと思います。が、舶載と倭製とされているものでも鋳型の再利用が確認できた、だからぜんぶ中国か日本かだ、という結論となると、ちょっと待って、と言いたくなる。いま確認されている舶載鏡と鋳型が同じとされている倭製は、すべて倭製Ⅰ期としているもので、これは舶載と倭製の区切りの見直し、という見方も可能なんだろうと思うのです。そこは、間違ってました、ということになれば、ごめんなさい、というしかない。また、そうやって都合が悪くなれば仕切りをスライドさせてかわすんだ、と言われないように、ちゃんとやる必要がある。鋳型を削って次の文様を彫る、といったことは考えてもみなかったことで、それを指摘したことはきわめて重要だし、見直しを迫られていることも事実ながら、白い旗を挙げるわけにはいかない。
◆そうか、だけどこれ倭製の作り始めが4世紀ということとからみ、行燈山古墳の評価にかかわってきてしまいますね。

2017年7月2日、KR研

◆この日は午後からKR研。朝、少しやることがあったので大学に行くも、電気の点検で文学部棟は1日通電なし。電灯も空調もなし。何をしてたんだろうか。なにか読んでいたような記憶もあるが、途中からは寝る。起きて京都に向かい、14:30からの研究会は18:00まで。そのあと、今年度調査の結団式を兼ねた懇親会。終了後、何人かとラーメンを食べに行き、22時の近鉄特急で、八木経由で帰ってきました。

2017年7月1日

◆7月になりました。暑い。この日、条里制・古代都市研究会の委員会でした。午後からかと予定を確認すると朝10時から。あわてて会場の大阪歴博に向かう。会議は2時間で予定通り終了。そのあと、午後、都城制研究会があるので、出たら、というお誘いがあり、乗る。
◆実はこの日の研究会は、岸俊男没後30年にあたり、岸先生の都城制研究を振り返るという企画でした。岸先生は、わたしが入学した1983年度末で退官したそうです。会場に行くと、大勢の参加者が集まっていました。また、向かいでは同僚のNさんの城下町科研の研究会をやっておりました。
◆それが終わり、続いて下のレストラン貸し切りで、岸俊男を偲ぶ会となり、これにも参加。ず~といてもよかったのだが、少し経緯がありまして、途中で抜けました(上本町で呑んでたんですけど)。まあ、そんなんで、意外な一日となりました。午後、仕事できず・・・。

それで宇摩向山

◆愛媛県博で、『えひめの古墳探訪』という企画展図録の冊子をいただいた。よくできたガイド ブックです。そこから紹介します。ひとつは宇摩向山古墳という終末期方墳。旧川之江市、いま四国中央市。南北46m、東西70mだって、びっくりしますね。
◆同じ冊子をくっていると、川上神社古墳というのも出てきた。東西40mという。

最後は今治相の谷

◆そのあと県の現場を見せてもらう。鍛冶炉かと思われるものが出ている。整理事務所で、同じ高 速道路調査で谷部を掘ったときの流路から出た祭祀品を含む木製品をみせていただく。きれいものでした。カケの獣医学部新築現場に行きたかったが、やめて、今治市街に。
◆相の谷古墳群。海上交通センターとある場所。そこまで車で上がれ、尾根を少し歩けば到着できる。100m?くらいの前期前方後円墳。ほぼ全面調査をやったんですね。それと南側からの土取りの崖が迫っている。ロケーション最高。一度調査済みだし、再調査をやって史跡指定ですね。馬の山古墳群を思い起こしていた。イメージが近いが、もっと直接海に面している。遺物等の再整理の報告書に当時のカラー写真もあり、それを見せたい ところだが、O君に貸してしまった。石室も掘りっぱなしで埋め戻していない。手前にも前方後円墳がある。

妙見山古墳

◆立派な資料館があり、実大模型が2埋葬施設分あって、副葬品、例の器台などが配列されてい  る。その文様や透かし穴の形状を見ていると、古そうな気がする。鏡も上方作鏡。
◆山に上がると、きれいに整備されている。時間が合えば、なかも見せてもらえたようだが、無理も言えず・・・
◆ふもとに降りていくと、天井石の公開施設がある。調査の過程ではずした天井部を復元再設置したもの。つまりは本体はそれを外した石室が露呈している状態で公開している、ということのようです。なかなかリキが入っています。

高縄半島をぐるりと

◆高縄半島を沿岸沿いに今治に向かう。途中、瓦屋さんが集中しているところがあった 。あれは何というところなのだろう。高縄山というのも遠望する。
◆そして旧大西町に入っていく。妙見山古墳。
◆高縄半島はほんとに真北に突き出してますね。今治市街地は東側だが、旧大西町は西縁側。古墳から眺めると、斎灘が正面にあり、造船所がある。立派な資料館がありました。 

順番が入れ替わります県の埋文センター

◆松山市考古館のあと、県埋文を訪れました。土壇原古墳群の展示をやっておりました。いちばん 年配の職員が、入って間もない頃の調査なんでしょう。簡単な概報しかないか、未報告、そういうのを定年前に一定の整理をして、対外的に調査成果を公表していく、という一環で出土品をならばたもの。写真、取ってませんでした。古墳群で、時期差や、墳形の差、いま見直すと特徴ある遺物とか、そういう話をひと通り聞かせていただきました。また長く継続しているようです。カラーコピーを綴じたものですが冊子も作られ、無料で配布していました。紀要に成果を発表する予定とのこと。

西予の地理

◆宇和島はどこなのか、大洲はどこなのか。学習しました。伝建がふたつあるという。もっかい、 行かなあきませんね。そして佐田岬半島から関サバを食べに大分側に渡りたいものである。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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