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人を幸せにする人になろう

2017年3月11日、国立西洋美術館

◆別件は、翌日11時。朝、根津を歩く。むかし、千代田線根津駅から東京国立博物館に通うことが 年に数日あったのですが、ぜんぜんつまらん道を通っていたようです。十字路からどこを通るか。この日、前とは違う、下町かいわいを通り、なかなか味わい深い通りでした。で、東京芸大に着く。国旗が2本。なんだかな~。
◆東博、人だかり(左)。で、博物館の科目で、だいたいが博物館・資料館の話しかできないので、美術館も見ておかねばと、世界遺産にもなった西洋美術館を見ておく、ということにした。これも9:30の開館前に列(右)。時間が早かったので、隣の店に入ろうとするも、そっちは10:00。9:30にもなったし、美術館に入る。常設展は基本的に撮影OKのよう。だが、この日は常設展の無料開放日で、この日は撮影禁止。人が多くなるからやめてね、ということだろう  か。ケチくさい。エチケットを守るように促せばいいのでは。
 
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2017年3月10日は丹後

◆網野銚子山の委員会でした。2016年度で解決できなかった点について議論し、次年度どう掘る か、を検討しました。まとめをしておかないといけません。
◆そのあと、先週に引き続き、別件が勃発し、またまた東京に向かいました。17:07に網野を出て、宿に入ったのは23時くらいか。
◆この日、南スーダンからの撤退、パククネが失職、森友は申請取り下げ。

社会復帰を

◆へたっていたわけではありませんが、この間、論文を書き続けていました。しかし未完ながら、 そろそろやめないといけません。
◆おとつい、だから12日の日曜日だったか、自分の未熟さを・・・。岩屋山古墳の石室は唐尺だ!。白石先生の論文以来、ずっと高麗尺と言われており、岩屋山亜式の西宮古墳から唐尺と考えていたが、クサ墓も唐尺とみることはできるし、岩屋山も・・・。総点検しないといけません。それと高麗尺でなく唐尺であることの説得的な図作り。だが文殊院西は確実に高麗尺。なので、620年代までが高麗尺で(倉梯麻呂が620年代に着手)、630年代から唐尺(舒明墓は630年代を中心に構築)というので、およそいけそうである。やはり630年遣唐使か。
◆飛鳥千塚の6基について、前は高麗尺が2つで、唐尺が4基と判断した(『ヒストリア』)。これも陰影図があがってきたら再チェック。平石は、シシヨとツカマリが高麗尺で、アカハゲが唐尺である。使用尺度で630年の前か後かを、およそ判断できそうである。
◆墳丘は既に書いたが、前半は偶数値の歩数(ヒロ)、後半は奇数値の歩数(ヒロ)、これで見極めがつきます。
◆研究はちゃんとやれば、やっただけのことはあります。
【追記】上記、またまたわからなくなってきました。混迷中。

ある原稿

◆白石の筆者への反論のもうひとつの柱は、被葬者論に寄りかかっているとの批判である。しかし、横穴式石室や須恵器について、白石をはじめとする考古学研究の成果をふまえており、本稿では不十分ながらも須恵器について多少言及する。ここでは、被葬者論についての考えを述べておく。
◆石室と須恵器の変遷観はおよそ共通理解にある。良好な資料が増えれば、石室型式と須恵器型式の厳密な対応関係が確立するだろうが、現状はまだそうなっていない。横穴式石室の暦年代は、現在、須恵器の年代観を前提とし、石室と須恵器の対応関係(現状は未確立)から導かれている。しかし、須恵器の推移の大局はわかるものの、例えば飛鳥Ⅰの古・中・新相といった編年は確立しておらず、暦年代を与える根拠も新相をのぞけばあまりない。横穴式石室の暦年代を須恵器に依拠するには、須恵器の年代基軸が未確立なのである。
◆そもそも、七世紀の考古資料の暦年代は、『日本書紀』から年代の判明する特定の遺跡にもとづいている。特定の遺跡を『日本書紀』に年代が記載されている宮殿や寺院あるいは個人墓にあて、暦年代の手がかりとする方法は、遺物である須恵器も遺構である石室も同じである。例えば、山田寺整地土の須恵器資料が六四一年以前となることと、石舞台古墳が蘇我馬子墓であると判断して、その石室を六二六年以前と考えることに、方法論として違いはない。違いは遺跡の種別にあるのではなく、ある遺跡を特定のものに比定する確度の差である。
◆石室の暦年代を須恵器の暦年代を介して決めなければならない理由はない。厩戸皇子の叡福寺古墳や蘇我馬子の石舞台古墳など、没年のわかる被葬者をあてうる古墳にもとづき石室の年代を考えることは、須恵器編年に暦年代を与える方法とまったく同じであり、須恵器の有無にかかわらず独立した方法である。むしろ、一括性や出土状況をふまえなければ年代基準となりにくい須恵器よりも、より直接的に年代を導くことができる。年代の基軸として未確立な未確立を介在させることで、石室の暦年代がいびつなものとなっているのである。
【改訂しました】

寝屋川市石宝殿古墳

◆10年ほど前に一度行ったことがある。これも3次元計測をしています。
扉の軸受けが彫り込まれているのですね。この花崗岩刳り抜きタイプは5例ほどあるんだとか。親玉は鬼の俎・雪隠ですね。太田皇女の墓が見つかったので、660年代に1点がある。どこまでさかのぼるんでしょうかね。牽牛子塚は既に凝灰岩刳り抜きになっているので、このあと凝灰岩が多用されていくとすると、このタイプが660年代よりあとあとまで残っていく、というのは考えにくいように思いますが。
◆資料室に展示されている須恵器片ふたつ。同一個体のたぶん坏蓋。飛鳥Ⅲには下らんと思うので、Ⅱの範囲かな~、と。

宮崎に来ています

◆毎年のことですが西都原の委員会が明日あり、今日の教授会後、宮崎に飛びました。朝から『市大日本史』の古代史のややこしい原稿をアルバイトに頼み、インデザインで編集してもらいました。その間、大歴の仕事をして、教授会後もやっていると、遅れそうになりましたが、空港リムジンが渋滞なくスムーズに伊丹まで行ってくれ、間に合いました。
◆大学を出てからは、義務の論文1本を書き始めました。大化の薄葬令の論文です。書きたい論文というのは尺度の論文で、7世紀の古墳については両者で住み分ける必要がある。両方を書き進めて、あまり重複しないようにしないといけない。電車・バス・飛行機のなかで、ある程度書き進めました。
◆いつもは夕方に入り懇親会があって、最後はうどんを食べて、となるのですが、いちばん遅い便のため、久しぶりに空港線の電車に乗り宮崎駅まで行き、ホテルに入りました。

こんなんもある

◆国分駅とかそこと直結するスーパーのライフあたりをうろうろすると、いろんなチラシがある。 古民家を活用する講演会、こんなんに出たいと思うようになっています。また国分本町の古民家、これどうしたんでしょうかね(寄付・買い取りetc)、問屋場亭というのがあるそうです。そこを使っていろんな催しをやっているよう。一度、足をはこんでみたいですね。

日曜日は休む!

◆2016年からは日曜日は仕事をせず、あっちこっち行っていろんな世界を知ったり、家のことを したりと、思ってはいるのですが、今日も朝から研究室で仕事をしております。市大日本史の原稿もボチボチ集まってきております。ほんとは自分の論文を書きたいのですが。論文2つと書評1本がありますが、論文のひとつは義務。もう一本がほんとうに今書きたいこと。1週間あれば書けると思いますが、そんなまとまった時間がないというのが、いまの大学研究者です。これは夜、シコシコとやるんですかね、1時間ももたないように思いますが。
◆そんなんで、堺の台場の話を聞きに行きたいものである。
【追記】あさからモロモロやっつけているが、既に18時過ぎ。なんにも、まとまった仕事はできていない。すべて細切れの雑用であります。

大山崎瓦窯跡

◆現地説明会資料がまわってきました。なかなか凄いですね。確認から史跡指定まで、前々から興 味はありましたが。

小山田古墳

◆3月2日に新聞発表されました。ネットでだいたいのことはわかります。豊浦寺の瓦片が出土したのだという。年代を絞り込む情報もさらにえられたということのよう。そして70mにもおよぶ方形墳ということからも、既に以前から名前が挙がっていたように、舒明初葬墓か蘇我蝦夷墓か、ということになってきた。さながら、7世紀中頃の、もっといえば改新直前の、大王と蘇我大臣の力関係がどうであったか、ということに確かにつながる。蝦夷説でいけば、『日本書紀』に書かれた蘇我の振る舞いを裏付けることになり、乙巳の変も理解しやすくなる。
◆榛原石の問題もある。確かに段の塚との近さが感じられるのであろうが、蝦夷だって使おうとするだろうし使えるのであろうし、必ずしも決め手にはならないだろう。それよりは解体されていることをどう理解するか、であろう。猪熊さんがいってるように、天皇の改葬事例で、初葬の古墳はほとんどわかるはずもないが、植山古墳は推古初葬墓とみるのが有力で、これは石室や墳丘を取り壊してはいない。東石室の石棺も残っている(改葬先が磯長谷だからであって、比較的近い場所なら石材等の再利用もありうるのかもしれないが、事例が少なすぎて、まあわからん)。一般論的には、新たに作り、旧の方はそのままにする、という方が理解しやすいように思う。また、白石先生のコメントのように、あれだけの規模のものを作り上げながら、改葬する理由はなかなか見出しがたい。あれが舒明初葬墓だったなら、飛鳥の都市整備ということも指摘されてはいるが、確かによほどの理由がないと考えにくいこと。解体されている事実は蝦夷墓説に有利なように思う。とはいえ、舒明墓が移設されたのは事実で、その理由は引き続き考えないといけないし、「よほどの理由」があったことも、「ありえない」と棄却できるわけではない。
◆そして場所の問題ですね。これについては既に議論があるところで、舒明墓があそこにあることを「ありえない」ともいえないし、一方で蝦夷墓なら「なるほどね~」と納得できるように思うが、議論が深まっていくことをながめておこう。わたしは宮ヶ原古墳や菖蒲池古墳をあわせたあの地域と、もひとつ南の平田梅山古墳の東西方向の地域、この墓域の区分に説得力を感じているところです。とはいえ、さらに小山田古墳の調査も継続するようですし、大陵とした場合、小陵をどこに考えるか、という調査や研究が進むことを期待しよう。
◆で、なぜ現地公開をしないのか。養護学校内ということへの配慮なのかもしれないが、ほんとうにできないことなのだろうか。7世紀史にとってこれだけ重要な調査成果が、公開されないことが残念だし、なぜなんだという疑問がわく。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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