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人を幸せにする人になろう

東京にいます

◆ところが、2日目の夜に電話が入り、急遽、東京に行くことになりました。3日目の予定を変更することになり、みなさんに迷惑をおかけしました。いますこし注記の残るものをアイリスインで継続してもらい、既に完了した箱を整理室に戻すのを午後にやって東京に向かうことにしていたが、昼飯の段階で早めてもらうことにし、13:30過ぎに近鉄で京都駅に向かいました。
◆さいわい、急遽入ったマターも解決し、4日、大阪に戻ってきました。
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明日3月1日から3日まで城陽で合宿

◆2015の埴輪整理。46箱分の注記です。一気にカタをつける時間も取れず、やはり3月になる。 1日は10名(泊9人)、2日は11名(泊7名)、3日は8名。わたしは2日の昼、大阪城の豊臣石垣の会議で一時抜ける。めでたく予定通り完了。台帳も一部追加補訂し、土器の分離は洗いの時にやったが、抽出できていなかった埴輪箱に残存していたものも分離した。注記しながら袋単位で接合して問題ないものは接合する。また特徴的なものでは、これは見た、というものは袋を越えて接合するものもあった。そして、洗いの時に基本的に地区別に箱を区分したが、再度、箱に収納している内容を確認しつつ、造り出し上面、墓坑上、東西南北の列、南斜面・西斜面・北斜面など、箱詰めをして表書きを明確にした。
◆アイリスインという宿泊施設。1日2日と夜の10時までやる!、と宣言していたが、21:45までほぼ予定通りやる。8:30~12:00、13:00~18:00、19:00~21:45、缶詰め状態でやりきりました。写真は2日目21:30の作業風景。
◆1例を挙げると、これこの個体の天側が手前の写真になってしまってますが、囲いの横トゲです。板状の破片と、 発掘時から注意してたトゲ破片が見事にくっついた。K君のひらめきでした。すごい!。横トゲ、本邦、2例目となりました。手前の板破片の縦線は、柵塀の板の継ぎ目表現です。かなり間隔があり、大ぶりなトゲになるはずですが、折れたトゲの破片は見当たりませんでした。あと、南斜面、すなわち造り出し南辺と前方部側面とのくびれ部に配置されていた?水鳥の破片が、ある程度識別できるようになり、ひとつの箱に集めておきました。

2017年2月28日末日、今日もようやったで

◆27日の晩は完全な徹夜。何をしていたかというとほぼ朝6時頃まで大歴の仕事をしていました。委員会のあと、やっとかなという義務感に燃えてました。で、今日は3つあって、大学史運営委員会、第1回卒論演習、市大日本史学会の委員会。なんも準備しとらん。朝8:30に研究室に着き、まずは第1回卒論演習の準備をする。例年の「卒論とは」という説明資料を読みながら直した方がいいところを直しつつ、言葉で補うところを資料に書き込んでいく。だいたいできあがったところで、10:40から大学史運営委員会。つつがなく終了した後、ワーキングのメンバーは残るように言われ、展示室のワイヤーやら照明やら、結局、展示するのがこっちなものなので、事務局サイドがほぼほぼ考えてくれているが、最終的にはこれでよいかという確認。実際に展示室に行き、あ~だこ~だ、と。金があれば旧学長室を展示室に改装する、展示設計なども業者に投げて、というところだが、大学史の引っ越し関係の執行が先で、残額が確定した段階で、どこまでの工事や物品の購入するかを検討しているわけです。
◆まあ、手作り感がありますね。全面的にやる、という専門性があるわけでもなく、照明は何ルクスといわれてもわからん。が、しかし、そこはわからん者同志が、カタログを見つつ、必要最低限の整備を、できるだけ安価な形で実現させようというもの。
◆このくらいで。12:30くらいまでかかり、文学部に戻り、13時から第1回卒論演習で、「卒論とは」といった説明を教務担当なものでやる。それから現3回生(新4回生)の1人5分の構想発表5分の質疑でまわし17:30頃までかかる。そこから、明日から3日間の城陽での埴輪注記大会で使うものを車に積み込み、科研の出勤簿を出しに行き、市大日本史の資料を作って印刷して18:30に会議室に滑り込む。20:00、ああ終わった。

2017年2月19日はKR研

◆立命館大学で開催。朝10時集合で埴輪の接合、午後が研究会だった。朝、ゆっくりさせてもらい、11:30頃に到着。梅田に行きたくないので、ついつい八木まわり。どうやって行こうか。丹波橋で京阪に乗り換え(最初から京阪でもよかったですね)、三条から初めて京都の地下鉄東西線に乗りました。降りて立命までタクシー。790円だったか。
◆で、埴輪の接合をして2つほどくっつけました。いま立命にあるのはくびれ部の囲いで す。で、埴輪を見ながら、いったいぜんたいどんなもんになるのか、部分の破片をつなぎながら考えていくと、片流れといってたのは裾部の台だろうと。で、寸法を測りながらホワイトボードに復元をしていきました。その下に突出の大きい突帯を一番下にもってきましたが、合理的な理由はないな~、とみなと議論していると、これこそ別の家形の破片だ、ということになり、すべて落ち着きました。なので、画像のいちばん下のところは修正が必要で、一番下の破片は別物としてはずしてください。で、囲いの姿としては、垂直の壁板があり、そこに裾部の屈曲ある土台部が取り付く、というものになる。
◆で、つっぱり。2条突帯の下から、下の土台の水平面に斜めに取り付けます。なので、この屈曲する土台部は通常のものよりかなり長く張り出させる必要があり、それだけ重くはずれやすいものとなる。なので、その下に、だからこれは写実でなく埴輪造形上だと思うが、下の当てとして、斜め棒を取り付ける必要があったものと思う(でも棒よりも三角板の方がいいですよね・・・)。
◆いや~とにかく、囲いの柵の外にそれを支える添え柱がある!、という、ゲンセツ段階から推測されていたこととはいえ、今回、確定することとなった。隅部にもある!。本邦初ですよ。で、これこそ(支え柱の取り付け)、この種の上等の施設の写実的な姿と考えることができる。城陽市さん、すいません。あらあらの見通しを書いてしまいました。お許しを。

大歴事務局としてやれることを

◆まあ2年間の事務局で、みなさんやっとこさやっているのが大歴の実情。そこは、12年間 委員会に出続けたので、だいたいのことはわかっている。そこは順番がまわってきたから事務局長になる人とは違う。
◆で、けっこう改革してきましたよ。会誌発送の仕方や、バックナンバーの整理とか(右表)。従来通りの踏襲から、将来を見据えて整理できるものはする。今日は、終了後、庶務委員2人と下の喫茶店で、庶務のカスタマー窓口担当の仕事を、いかに効率的にするかということで少し話をした。で、大きな問題がひとつ発見された。あれれ、そんなんもやってないの、というもの。HPだって、よりよいものに、という点検をしなければ、だいたいがルーティンでしかまわらない。もうひと仕事しないといけませんね。
◆話は変わりますが、ようやっと大学史ニュースの原稿を出しました。

毎月の大歴委員会

◆2月は今日27日でした。原則は月の最終月曜日。いつも直前でないと動きませんが(いや、事務局となるとそうもいきませんが)、昨日から準備を進めてきた。これまでの事務局は、庶務委員の1人を大会担当にしていましたが、うちのいまの事務局のあり方から割り振りできず、慣れてきてからおいおいと、ということで2月になりました。そろそろポカのないように大会にむけての準備をということで、わたしの方で大会担当の引き継ぎ書を、かたっぱしから目を通し、いらんものを捨て、まずは大筋のスケジュールを作成しようと、作業をしておりました。で、当日の今日。委員会資料の作成にかかり、議事録の点検からはじめ、あれやこれやとやっていると、今日は1日あったはずが、あっという間に17時になりました。
◆今日は編集委員の方々もかなり出席があり、いろいろ議論できました。ちょっと8月 号・10月号・12月号が頁オーバーがかなりになり印刷経費が大幅な赤字となっています。1月委員会以来、これは2017年総会で、事務局の管理能力を問われると頁数削減を打ち出し、いろいろな反応をもらいました。今日の議論で、そもそも年間900頁以上になる年6冊のヒストリア、その年会費が5000円というのが、どこを探してもそんな安い学会誌はないと。そう、年間1000頁になる年もあり、必然的にそれだけの印刷経費がかかる。投稿はさいわい安定的にあり、順次、掲載していっている。それは学会にとってよいことであって、そういう投稿先として定着して採用論文が増えていくなら、年6冊刊行以上のことは無理であり、1号の頁数を増やしていくしかない。毎年、赤字基調にあり、そもそも会費とアウトプットのバランスが取れていないわけです。結論、会費値上げ。順当だし、理解は得られるし、それで会員が減少しない、と力強い意見をもらいました。
◆会費値上げは大きなことだし、みな事務局のときはやりたくないだろう。が、これは予算書とか、経費をいじっていて、こちらも同じ見解だったものだが、もっと積極的な意見を今日はもらったわけである。

で本論

◆とはいえ立ち入ってはいないのだが、事後検討会でのみなさんの発言から、すこしまとめを。
◆(1)陵墓図で見える後円部3段・前方部3段は認められる。裾部のところが、もう1段あって4段になるのかどうか議論があったが、なかなか積極的にはいえない。(2)後円部のテラスと前方部のテラスをスロープでつないでいるかどうかは、下の面については認めてもいいのではないか、との意見。ただし比較的残っている北側面でも、この部分の墳丘斜面は崩れていて、みながそう見えたというのではなさそう。が、まあいいんでは、というところ。しかし上の面は、これは改変で原形がないので不明といわざるをえない。(3)前方部の頂部には土塁がめぐることは陵墓図から読み取れるが、そこにはけっこう石が顕著に見えるらしい。城郭といえるかどうかは専門家の意見を聞かないとわからないが、いらわれていることは確実である。(4)後円部南側のくびれ部寄りのところにある張り出しは、みなさん造り出しとは考えにくい、とのことでした。外からの観察でも、昨年の渋谷のような整った土壇にはならないことは明らかである。(5)前方部南側面は墳丘を崩し耕作地として利用していたようで、修陵前の絵図では3重?の石垣列が描かれているが、それは修陵時に撤去したようだ。(6)埴輪はほとんど見えなかった。
◆まあこんなところでしょうか。宮内庁のみなさん、たいへんお世話になりました。参加者のみなさん、お疲れ様でした。その後「反省会」。明日は大学入試です。

櫛山古墳

◆櫛山。天理市が測量していると聞いたことがあるが、できたのかな。新しい図をみたことはな い。昔、測量を考えたことがある。いまなら地上レーザーかな。いまの時期なら墳丘表面はすっきりしたもので、簡単だろう。難しいのは水際の樹木が比較的繁茂している箇所の始末か。
◆双方中円ともいわれるが、讃岐の猫塚とはまあ違う。後円部背後の方形壇をどう理解するか、というところか。それと本体の墳丘構造も、ちょっと一筋縄ではいかないが。行燈山と櫛山の時間的関係をどうみるか。あんまり埴輪の復習をしておらず、楕円が目立つこと、鰭からすると積極的に時間差を見いだしにくいように思う。櫛山にはしかし最古の器財埴輪がある。前に考えたときには、行燈山で家形が登場してくるのだろうと推測し、行燈山を古くしたように思う。行燈山では渋谷のように墳頂で形象埴輪が採集されておらず、そこのところの比較はできない。行燈山4世紀第1四半期、櫛山第2四半期くらいで考えたいところである。
◆で方形壇というのか、造り出しというのか・・・。あそこは調査されていて、お白洲であって、埋葬施設は確認されていない。う~ん、わからん。最古の造り出しは、どれなんだろう?。渋谷?。まあ、石塚山や五社神よりは古いというのでよいだろう。で、後円部に取り付ける。まあそう考えておこうか。そうすると、渋谷よりは確実に古い櫛山のアレは、なんだかわからんが別のもの、とみておくのが無難か。

2017年2月24日、行燈山

◆そう、陵墓の立入りでした。今回も世話役をやっておりました。これも何年やってるんでしょう かね。飽きません、けど。大歴では担当が代わり、I君が参加できるとのことだったので、彼に入ってもらい、外回り役になる。2回目の、佐紀陵山と伏見城のダブルの時の伏見城をのぞき、これまでぜんぶ入ってきたが、はじめて外回りとなる。
◆きっと時間がないからと、1月に少し文献はコピーして準備はしていた。その時のメモで、宮内庁の展示会の『埴輪Ⅲ』が見つからず、これ探さないと、と思っていたが、直前では見つからず。22日は、修論の審査要旨と、1年間の教員評価の調書作りで終わってしまい。資料作りができず。23日の教授会終了後に、途中まで大学史ニュースの原稿を書いていたが、もう資料を作らないと、と取りかかる。陵墓図のイラレのトレース図を取り出し、宮内庁の調査区を入れた方がいいよな、とやっていると終わらず。埴輪のトレース図があったはずとファイルを探し、など。結局は木曜日中に終わらなかった。
◆で、当日、朝、8:30に大学に行き、残りの作業を続けて10:30頃に終了、PDFに出してコピー。11:00完了。現地に向かう。終了後飲みたいので、電車でぜったいに行くと考えていたが、そんなこんなで車。西名阪で、12:00には現地に着く。そこから集合時間まで、櫛山古墳の探索に行く。

室津でカキを

◆姫路城をあとにして、一路、室津へ。カキを食べに。いや~、道の駅をはじめ、民間のカキを食 わせる店、だいたいが満杯でした。入ったところも、列をなしてならんでいて、だいぶ待たされました。
◆今回は焼いてもらったのが出てくるわけですが、前に行ったときは、カキとかホタテとかを買い、自分らで炭火で焼くものでした。白ワインで(自分は運転手で飲めませんでした・・・)。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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