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人を幸せにする人になろう

小野市好古館

◆整備された広渡廃寺にも足をのばしたかったが、通過してしまい、王塚。ここまで来た ら、好古館も行っとこか、と。鴨池の旧石器、垂井遺跡など弥生、焼山、広渡や河合廃寺など。河合廃寺はいい寺です。播磨の山田寺式にはけっこう詳しかったような気がするが、もはや忘却の彼方ですね。浄土寺があり、近世小野藩(一柳)とか、昔はすっとばしていたんだろうが、ひととおり見る。やはりこういう資料館があるという意味は大きいですね。加西市は、埋文センターで展示してますと書いてはあるが、土日は閉まっている。ほかに加西、すなわち北条の歴史を概観できる展示施設はない。確かに加古川両岸とも小野市だし、加古川沿いだし、陣屋のある近世以来の中流域の中心は小野であって、北条は宿場町とはいえ、人口規模が違うのだろう。
◆で、2階の企画展に実は感心した。小野藩の幕末維新期を取り扱ったものである。一柳の2男が「あさがきた」の娘と結婚し、3女が建築家ヴォーリスと結婚したのだそうで、そういう連ドラがらみの紹介もあるのだが、中身はいたってまっとうな幕末維新の話。摂海防備で、小野藩がどこを持ち場に役にあたったのか、というこことから、版籍奉還、廃藩置県や地租改正やら、地元に残る資料で、ちゃんと幕末維新期の社会変化を見せている。実にいい展示だ、と思った。
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玉丘と小野王塚

◆まず玉丘。公園になってからは2回目。先年、長持形石棺を発掘していることは聞いてい たが、土嚢で養生され底石は見えませんでした。側石の部材も調査後、屋内に引き上げたようです。むかし、高校生の頃、石棺材を略測したことを思い出す。さがせばその時の、5ミリメッシュノートに描いた図が出てくるかもしれない。津堂150歩のちょうど半分の75歩です。群馬では太田天神山古墳の空中レーザー測量をやる予定と、先年聞いたが、早く新しい図を拝みたいものです。津堂かどうか・・・。
◆そのあと小野王塚古墳に行く。これきれいな円墳なんですかね、造り出しはないんですかね。むかし文章を書いた記憶があるが、いくらか既に削り込まれていたようにも思う。墳丘調査の図は見たことがないので、史跡整備する時も、そういうのをあんまりやらず、きれい な円墳に造り上げたのかな。土壌がかなり露出していたが、これ整備の盛土なんでしょうか。

4月16日 播磨見学会

◆朝8時半、天王寺集合。自分をあわせて6人で出撃。中国縦貫で加西にむかう。途中、渋滞 でのろのろしていると、背後からピーポーピーポーと。しゃーないので車線を空け、何があったんだろうかと思っていると、そういうのがいくつも重なりただごとでないと思ったが、これ熊本へ向かう支援の派遣車であった。大阪市とか堺市とか、そのうち自衛隊の車両も。
◆行者塚をはじめ、播磨の古墳やら展示施設の見学を組み込んでいたが、玉丘まで足をのばすかどうかは思案していたが、高速道路の渋滞情報を見て、3号神戸線をやめて中国道とし、玉丘から加古川を下ることにする。

市大日本史19

◆ヒストリアの小さな原稿2本があったため、市大日本史の合同調査報告が入稿できていなかった。が、それをなんとかやっつけ、金曜日、朝8:50から15:30まで会議のあと、しゃかりきでやって22時に入稿する。ほっ。
◆これで考古学研究会の大会に出かけることができる。市大日本史は、ここから2週間が勝負です。

学期が始まるとなにかとあわただしく

◆先週金曜日に、博物館資料保存論の1回目(担当は頭だけ)、本日火曜日は、考古学通論、そして5限の博物館実習Ⅰの初回でした。なんと35人。多い!。例年、20名強くらいの数で適度なのだが、35名はちとしんどい。今日は教室だが、次回以降は実習室にしようと思っていたが、35名は入れないな~、と。
◆明日は3つ(うちひとつは博物館経営論で、これも頭だけ)。安定飛行になるまで、学期始めは、なにかとあわただしいですね。

陵墓の取り扱い2016年3月28日 毎日新聞配信

◆「歴代の天皇や皇族の陵墓の保全管理に伴う調査について宮内庁は28日、単独で実施してきた前例を転換し、新年度から陵墓のある自治体の教育委員会や考古学研究者に協力を要請する方針を示した。調査の成果は地元教委と共同で発表し、幅広く国民に伝える。
 同庁は、歴代の天皇や皇后、皇太后などを埋葬した場所を「陵」、それ以外の皇族は「墓」として管理し、総数は898基に上る。研究者も含め一般の人が陵墓の前で参拝することは可能だが、立ち入りはこれまで原則認めていなかった。同庁書陵部は陵墓である墳丘の崩壊などを防ぐ目的で調査を行い、例外的に研究者を現場に入れて見せることはあったが、調査への参加は認めていなかった。
 今回の方針転換は、陵墓周辺の古墳などで調査実績のある地元教委や研究者の知見を得て調査レベルを向上させ、保全管理に生かすのが狙い。調査成果はこれ まで同庁の報告書に掲載されてきたが、幅広く国民の目に留まることはなかった。今後は地元教委と共同で発表し、埴輪などの出土品も一般公開する方針。」
◆いや~前進しますね。

4月9日 豊中歴史同好会

◆朝から堺にでかける。その話を書く余裕はいまはなし。
◆午後、豊中歴史同好会でしゃべる。河内大塚山古墳の話。塚口先生にいちばん前に座られると、なかなかしんどい。が、あまり気にしないように、あくまで一般の方々にしゃべるように心がける。安閑が535年に殺害された、といっておけば簡単ながら、まあそんなことはわかりはしない。こっちも辛亥の変に引きずられている面がある。いかにおかしなことが起こっているか、かつ535を転換点として、大伴は後退し、蘇我が台頭してくることが理解できればいい。空位年2年が挟み込まれていることも、きわめて不自然なことである。
◆最近はそんな風に書こうとしており、そういう意味では歯切れがよくなく、最後ちょっと、結論が不明瞭のように受け取られたかもしれない。まあ、別に気にしないでおこう。
◆で継体の没年に3つ説があることは図示したが、こっちの結論の図は作っていなかったので、作ってみました。

そう6日は難波宮研うちあわせ

◆3年間やってきたシンポ。1年目はいきなりシンポだったが、2年目からは研究会を組織して準備をしてきた。議題は、成果を出版する話と、この研究会をどう継続していくか、という2点。自分らが発表した話の目次立てはすんなり決まるも、1書とするには、前後とか、コラムでの内容の補充とか、そういうことも必要で、目次立て原案をわたしが作ることになる。冒頭文を書いてみたいという気持ちはあるが、やりとげる自信もなく、表明はしていない。研究会は、出版に向けての打ち合わせに近い形で、頻度を落としてやりましょうということになった。難波宮・京の設計など、実はみな言いっぱなしで、本来は議論して誰かが書かねばならない。そういう課題もあり、打ち合わせだけでなく、そういうものも必要と思っている。まあ、じんわりと。

7日は日本史の新歓コンパ

◆7日は朝、考古の学生・院生で前期の研究会等の予定を立てる。木曜日で固定していたかったが、学部生にも入ってもらうとなると、火・水・木はしんどく、月曜日午後となった。持ち帰った久津川車塚古墳の2014埴輪の作業についても組み込む。そういえば上原本の整理も完了しておらず、その作業の話はまたせねばならない。
◆この日、大依羅神社に行き、依羅池古図の写真撮影に出かける。ごく近所で、作業は30分ほどで終了し、掲載許可もいただいた。この原稿、4本のうちの1本である。
◆15時からガイダンス。日本史院生ガイダンス→歴史学共通ガイダンス→日本史学部生ガイダンス →18新歓コンパとなる。16人の日本史コース新2回生のうち、3人が考古学をしたいとのこと。終了後、『市大日本史』の合同調査の原稿の調整をやってしまおうと、酒は呑まずソフトドリンクにし、終了後、22時前までになんとか0校を打ち出し、院生室に投げ、帰る。

8日の金曜日、新学期が始まる

◆原稿4本をかかえるも、できるはずもなく。一方で、いつものように市大日本史の編集が始まって いる。4月の空いている時間のほとんどはこれで暮れていく。プリンタトナーの消費も。ここ何年か、進捗状況の表を保存しているので、今年は早めとか遅めとか確認することはできるが、いまはそんな状況にはなく、いまある原稿を調整の上、どんどん印刷屋に入れないと始まらない(未着の原稿も多い)。
◆そんなんで、5日6日は市大日本史の仕事をしていました。前に一度掲げたが不備多く取り下げた、市大日本史学会の今年の大会のチラシが完成したので掲げておきます。
◆本日8日から授業開始。4限の資料保存論(第1回目だけですけど)が最初になる。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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