人を幸せにする人になろう

大阪府立中之島図書館存続

◆11月20日夕刊にあった通り。知事の定例会見で表明され、各紙が報じたようだ。本をぜんぶ動か す、とutubeで府市統合本部の議論を聞いていた時のことを思い出す。大阪歴史学会でも、反対を訴える「明日の中之島図書館を考える会」に賛同し、『ヒストリア』に記事を出した。この美術館転用の構想は、その後はあまり報道されることもなくなり、おそらく実現しないだろうとは思っていたが・・・。
◆「明日の中之島図書館を考える会」のみなさんに敬意を表したい。

玉手1、いつの写真?

◆大阪城関係の本で、玉手山の写真を見つける。1号墳を南から見ているんだろう。2号墳との間に 家が建っていたんだ・・・。知らなかった。

喜界島通信

◆ちょっと古くなったが、前に見せてもらったテクズク遺跡の記者発表が10月31日にあり、11月1 日に地方紙に記事が出て、9日には現地説明会が開かれた。連絡をもらいネットで拾うと、参加者が画像や説明会資料などもアップしてくれている。説明会資料では、馬の全身骨格の出土状況の写真も載っていた(これは近世・近代の新しいものだが喜界馬の全身骨格として貴重)。以下、南日本新聞。

喜界町教育委員会は31日、昨年から発掘調査を進めている同町手久津久(てくづく)地区の川寺遺跡と隣接する中増遺跡で、13~15世紀前半のものとみられる金を施した銅製品や琥珀が見つかったと発表した。/これまで、金を施した銅製品が南西諸島で出土したのは沖縄本島のみ。首里城や大規模なグスクで見つかっていることから、町教委は「強い勢力を持つ集団が喜界島に存在していた可能性を物語っている」としている。

文殊院西の計測

◆どこかとは違い、とんとん拍子に話が進み、18日(月)実施と決まり、計測に出向く。
◆9:15に桜井駅で大学院生と待ち合わせ、9:30文殊院へ。測量会社も到着しており、 挨拶に。まずはコーヒーでもとお誘いいただき、いろんな話をうかがう。当然ながら阿部氏はじめ、お寺にかかわる歴史に興味をもち、自分でも調べておられる。
◆作業開始は10:00頃くらいだったか。内部はすこし目地を掃く程度でOKだが、開口部は上からの土、日光と水分でコケも生え、石にへばりついた土を落とすのにしばらく作業をする。計測は12:00までには完了。これで文殊院西のデータもゲット。
◆正面のところ、側壁のところに凸部があり、またその部分の外側のところも、下半部のみ平らに叩かれている。これ、どう思いますか。開口部なのか接続部なのか、ということ。結論は接続部で、羨道は現状で8mだが、もうすこし前に伸びていたんではないだろうか。手前を掘ればわかるだろうが、特別史跡だし、レーダー探査でしょうか。

2013年11月17日の堺(14)小学校と大浜公園

◆岳父が行ったという英彰小学校の外観を見て、大浜公園へ。家から海パンをはいて、大浜公園の 海に泳ぎに行っていたという。日本最古の水族館も健在だったし、一大レジャー  施設だった。この辺は、ヒストリアの台場特集の時に現地に行って知り、より詳しくは、昨年の博物館概論の授業の準備で知識を得た。実は明日の授業で大阪の博物館の話で出す予定。ネットで昭和12年頃のパンフの画像があったので挙げておく。岳父は7歳だから、ちょうどそのころの様子ということになる。
◆そのあと、龍女神像を見て、燈台に行こうとするも、大浜公園の駐車場に入るのがめんどくさいし、そこから歩かせるのもキツイので、これにて終了とした。

2013年11月17日の堺(13)フェニックス通り

◆1週間くらい前の新聞だったか、たまたまフェニックス通りの記事を見ていて、これがそうか と。戦災後の堺復興を願い・・・。以下、ウィキ

1945年(昭和20年)の堺大空襲により沿道は壊滅的な被害を受けたが、戦災復興計画によって防災に主眼を置いた幅員50mの大通りへ拡幅される。1955年(昭和30年)には全線開通し、翌1956年(昭和31年)3月に復興の象徴としてフェニックスの苗木126本が植樹され、街路樹の成長に合わせて「フェニックス通り」の愛称が定着するようになった。

◆ちなみにカナリーヤシ、というのだそうである。

2013年11月17日の堺(12)ちく満

◆ネットで調べると、だいたい同じ感想が出てきますね。とにかく、外から見かけた時はびっく り。「なんじゃこりゃ」。百聞は一見にしかず、まあ見てください。それと、いつからやっておられるんですか、と聞くと、400年になります、と。えっ!、まあ元禄というから300年あまりですが、いずれにせよ・・・。
◆で、ふしぎな空間なのだが、なかへ入っていく。座敷にあがり腰を下ろすと、店の人が1斤か1斤半か、どっちにしましょうかと。それしかないわけだ。ネットで見ると、前は2斤もあったよう。熱盛り蒸籠そばの老舗という。蒸籠そばっちゅうのは、あんなんなんですかね。ふつうのゆがく蕎麦のコシはなく、不思議な感覚。外観で驚き、店に入っていくドキドキ感あり、メニューのシンプルさ、出てきた蕎麦の感覚、いや~、たまたまでしたけど、これもめぐりあい。
【追記】だが、実際に蕎麦をやり始めたのは戦後で、京都の老舗のマネで始めた、らしい。まあ、しっかり堺の名物になっている。

2013年11月17日の堺(11)与謝野晶子生家跡地

◆前にも来たけど、看板は新しくなりました。駿河屋という和菓子屋だったのだそうです。ところ で、看板に描いてある駿河屋の位置、これ確かなんでしょうかね。いまの大通りの、ものすごい幅の道路は、これによると、元々は東端(看板の地図では上)くらいで、店舗というか家が道幅いっぱいあって、いまの大通りは西へ拡幅したということになります。
◆が、そうなんですかね。それはいつのことなのか。また、拡幅も一気ではないんだろうと思いますが。うちひとつは阪堺電車の敷設ということも考えられます。元の駿河屋は、道路を大きくすることで犠牲にならざるをえなかったわけですが、それはいつなんでしょうかね。調べれば確かめられると思いますが、それはまた。

2013年11月17日の堺(10)立ち退かされた旧宅跡と喫茶店 記事№2100

◆そのあと、宿院の交差点を抜けて車をコインパーキングに入れて、住んでいた場所の探索に出か ける。もっとも堺で長かった場所、記憶も明瞭ですぐわかる。阪堺の軌道 のある大通り―これ名前あるんでしょうね―を すこし南に行った西側。東を見ると美々卯。写真は北を向いている。写真の幅のある歩道のところが元々は宅地で、たぶん、これだけぶん程度、建物を壊して道を広げたわけである。
◆そのあと、お茶でもと、またすこし南に行った趣味的な店に入る。入ってテーブルに座ろうとして、椅子に目がいく。この椅子は何ですかと聞くと、おばさんが、阪神大震災で崩れた神戸の教会にならんでいた椅子だと。よく聞いてくれました、という感じだったのでしょうか。テーブルと椅子もそろってなく、いろんな出自のものがありそう。
◆コーヒーを頼むが、シュガーのスプーンがとても気に入りまた(写真は出しませんが)。先客は1組いて、なにやら勉強しているようでした。おばさんが、姿格好も趣味に生きているような人で、手作りのいろんなものが置いてありました。

2013年11月17日の堺(9)菅原神社

◆実は、その間、岳父はすたすたと一人黙々と北上していたのである。開口神社もいいが、実は菅 原神社に行きたかったのである。というのも宿院の家にいて、ここらあたりが遊び場で、とくに菅原神社の境内ではよく遊んだのだという。天満宮なんだけれども、神社合祀によるのか、ほか2社もある。
◆そして、いまは開口神社の方が、先の写真のように七五三参りでにぎわっているように成功しているようだが、昔は違うと。菅原神社の方が縁日とか盛んで、大勢の人でにぎわっていたという。

プラグイン

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索