人を幸せにする人になろう

喜界島と城久遺跡(7)ガジュマルの大木

◆ガジュマルの大木。立派ですね~。横に大きく枝を広げるとともに、下へと根?が伸び、横に伸びる枝の支柱のようにピンと101cf20f.JPG張った垂直の壁のような姿は、南島独特のものだろう。

喜界島と城久遺跡(6)象の檻

◆そのあと、いま発掘中の手久津久遺跡の現場を見に行くが、これは16日(火曜日)の記事に委ねよう。自衛隊のレーダー基地af6a866e.JPGがあり、いちばん高いところに、いわゆる象のオリの城壁がよく見える。すごい施設である。
 

喜界島と城久遺跡(5)歴史民俗資料館

◆それから歴史民俗資料館に行く。Mさんが出迎えてくれる。サトウキビを絞るのに、大島ほかでは牛のところ、喜界島では33056667.JPG馬。喜界馬という在来種がいた。しかし、どこでもキビ畑とセットで鉄釜による黒糖の自家生産で91aa4b3d.JPGあったが、1959年に製糖工場ができ、農家はキビ栽培、圧搾-黒糖加工は工場ということが進む。次第に自家生産がなくなっていき、それとともに馬は不要となり絶滅したという。最後の1頭が剥製にされて資料館に陳列されている。
◆中央公民館があり、隣に資料館があり、渡り廊下でつながっている。縄文の採集された石器やらにはじまるが、いまは城久遺跡などの最新の考古資料は埋文センターに4月から移動し、主に民俗資料がならぶ。黒糖生産関連、ノロやユタ(呪術師みたいなもの?)、高倉など。
◆町民がどれだけ城久遺跡群のことを知っているか、よくわからないが、十分とは言えないだろう。埋文の体制整備は喜ばしいことながら、遺物を収蔵する埋文センターでより専門的な展示をするのはよいことではあるが、普通の町民は、町役場や中央公民館に行くことはあっても、かなり離れた滝川の埋文センターまで足は運んでくれない。一般向け展示の中核はやはり歴史民俗資料館に置くべきだろう(写真のパネルと写っていないがその下の展示ケースひとつが、資料館に残された城久遺跡群のコーナー)。
◆公民館のカウンターでアイスコーヒーとハーゲンダッツのアイスクリームをいただく。感謝。
 

喜界島と城久遺跡(4)13日の昼食

◆お昼は「器」というところ。彼女が予約してくれている。ふつうの家みたいなところだが、こじゃれたランチが出てくる。7485a534.JPG
 

喜界島と城久遺跡(3)圃場整備と埋文調査(2)

◆圃場整備は島の東北部から始まったようで、その頃、熊本大学の学術調査などもあったようだが、町では埋文対応はしてお707381f5.JPGらず、あちこちで工事現場で出土遺物があり、それを採集していた先駆者がいるという。f41a2ae4.JPG
◆圃場整備の事業地がその後も展開する中で、ようやく埋文対応が始まり、そうして城久遺跡群などが明らかになってきたということのようである。城久遺跡群のある地区の改良工事は終了し、現在は島の西端におよんでいる。いま照屋さんらが発掘しているのは、その手久津久遺跡群というところ。
◆ちなみに前提となるところだが、前にも書いたと思うが、螺鈿の素材である夜光貝の需要というのが、対中国への輸出品としてのものを含めて国家が必要とし、城久遺跡群というのは、太宰府が設置した南方交易の拠点と考えられている。北の秋田城と同じである。今回、実際に夜光貝を現場で見るとよくわかるが、貝の内面の、なんていうのか真珠のようなあの光沢部が、夜光貝では膜面状で貝殻本体と分離し剥がれやすいのである。このために、螺鈿細工にもってこいの素材となる。
 

喜界島と城久遺跡(2)圃場整備と埋文調査(1)

◆Mさんと話をし、いま、3月に大阪市大を卒業した照屋さんをはじめ、大規模に人員を投入し発掘しているのは何なのか、と5c6bbc9b.JPGいう疑問が解消する。話始めれば長くなるが、町の農業は、現在、サトウキビと白胡麻にほぼ特7f737027.JPG化している。『喜界町誌』では明治半ばでは、全農地の35%がサトウキビとのデータがあるようだが(近世から近代への変化も予想される)、その後、かなり特化が進んだのだろう。江戸時代以来の黒糖生産が、近代以降、薩摩藩のクビキからは離れるものの、産業としてはさらに進んだ。しかし島の地質上、降った雨は透水性の高い石灰岩質の土壌をすぐに海に流れ出てしまう。水不足に常にさらされ、後述する地下ダムを国が整備することになる。そしてここでも、砂糖生産の生産性を確保し、外国産に伍していくためには機械化が不可欠ということで、それまでの島の地形に応じたキビ畑を、大規模に農道を整備し規格化する圃場整備が現在進行中なのである。
◆それにともない、埋文調査が、正確な年次は不明だが、2000年代に入って、続いている状況のようである。そしてあと10年は整理を含めて続くという。
 

喜界島と城久遺跡(1)喜界島に入る

◆6:30に起きるも頭がぼ~としている。8:10発。空港まで至近なので歩き7:20には着いたと思うが、8:00前後に出発便が集中feddb523.JPGしており、保安検査場はいっぱい。8:10発定刻のぎりぎりに飛行機に乗り込んだと思う。座席は6f7a1045.JPG残念ながら、窓のない窓側。滑走路まで行くも、不具合が見つかり部品交換のために、また駐機場に戻る。出発は約1時間ずれこんだか。9:30着予定が10:20頃になったと思う。
◆飛行機を降りて空港にむかうと照屋さんが元気な声でよびかけてくれる。レンタカー屋に行き(深水レンタカー)乗り込み、今日は休みながらMさんが仕事に出てきているということで、埋蔵文化財センターに。この4月に合併で空き施設になった滝川小学校(創立109年で閉校)。Mさん、出迎えてくれ、展示施設を案内していただく。古いモノでは縄文早期の遺跡があるという。そして城久遺跡遺跡の展示を見る。カムイ焼きとご対面。けっこうよくできた(器壁・焼き上がり・調整)焼き物である。
 

7月12日、陵墓懇談会

◆この日、喜界島に出発しようと考えていたところ、懇談会が入った。11時に明治大学、6:45分の河内国分準急で出発する。今年の工事および事前調査の資料は事前にもらっており、ざっと目を通してはいた。今年度の事前調査はノボノ陵、とはいえ、本体でなく、陵墓地内にある小規模古墳群の調査がメイン。まあ、無関係ではないだろうが、4世紀代の大型墓に後続し、5世紀以降にそれに接して造営されたものではないだろうか。とはいえ、ぜんぜん中身はよくわかっていないようである。
◆新幹線のなかで、これ以外に、この機会に学会連合の打ち合わせの場で確認することや話題にすること、そして懇談会の場で聞くことなどを考える。
◆今日はおとなしかった、と言われたが、ま、これまでいろいろ言ってきたし、同じことを繰り返すことも必要ながら、ほっといても同趣旨の発言は出てくるし、やりとりを聞いていた。聞いておきたいことは聞きました。
◆で、世界遺産の勉強会があって、次は発表することになっていながら、日取りが決まらないまま先延ばしになっていたが、8月はじめに決まってしまう。7月26日の大歴部会例会も急遽決まり、時間がない中で8月に陵墓の勉強1dc0e4c3.JPG会で発表しないといけない。関係機関に取材にいかないといけない・・・。+整理しておきたい事項もあるが、どこまでできるやら。
◆18時過ぎの飛行機で鹿児島に飛び、いま空港ホテルにいます。明日の朝、楽しみにしていた喜界島に向かいます。

2013年7月8日、引っ越し無事終わる

◆朝、10時頃から、文学部研究室の本棚梱包、考古学実習室の本棚撤去が始まった。うだるような暑さ、業者さんもたいへん01c913f4.JPGである。パソコンや机まわりのモロモロ、段ボールに入れて、これは自分で運ぶ。
◆昼過ぎには、新しい経済学部棟研究室への本の配架も終わる。それから、研究室の机3つ、ボードなどのレイアウトを決め、パソコンをセットし、仕事ができるよう作業を進める。18時には一段落したので、大歴7月例会の準備の勉強をすこし。まあ、心機一転、がんばりましょう。サラでないが新しい研究室になることも悪くない。
◆ちなみに、こないだパソコンを入れ替えて、日常用のものをより強力なものとした。アルバイター用にメモリーを32ギガにしていたもの。サクサク動いてうれしい。
 

古代山城の研究会

◆大歴大会の時に、近大の鈴木さんに渡され、ぜひ来てくださいと言われた。けっこう興味はあるんですがね~。2bc79a5a.jpg
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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