人を幸せにする人になろう

探検の殿堂

◆要するに西堀栄三郎記念館。安土に向かうも、途中に案内板があり、院生に断ってつきあってもらうことにして、急遽、入れ55079d13.JPG込む。昨年度、博物館概論の準備をしている時に名前が出てきて記憶していた。それによると、ぜんぜん入らない博物館で、廃止が検討されたが、住民が運動して盛り返したみたいな話だったと記憶するが、現状は・・・しんどい。誰もいやしない。
◆まあバブルの産物ですね。西堀の資料類がどれだけあるか知らないが、西堀を敬愛する者としてこうした博物館があることは歓迎する。が、やっぱり持続して行くにはそれだけの条件はいる。作ってしまったものは仕方ないが、ハコ。それと展示。あまり時間をかけて見てはいないが、悪くないものの、もっともっと内容が盛り込まれてよい。2階の日本の探検家の絵はいらないだろう(万葉文化館に同じ)。日本の探検家を紹介するなら、もうちょっとやりようがあるだろうに。ここもまた、受付は配置しているが、学芸員がいないのだろう。
◆近江商人の記念館みたいなものの横を通過したが、残念ながらスルー。

多賀大社

◆前から行きたかったところ。門前は雰囲気がありそうであったが、実際、車を降りて散策してみると、ほんとの神社前の店ea7762ba.JPGはともかく、JRの駅からの通りの大方はさびれている。むしろ街道沿いの町並みの方がよさそうだ(足をのばしませんでした)。第1回大河ドラマの『花の生涯』の説明看板があった。以下、ウィキ。

◆村山 たか(1809-1876年)。近江国犬上郡多賀町で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮の侍女となる。20歳になり京都に上って、祇園で芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であった為に自らが引き取り、生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で蟄居生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後二人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。1860年(安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年に尊王攘夷派の武士に捕らえられ三条河原に3日3晩晒されたが、女性ということで殺害を免れた。しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに岡田以蔵らによって斬殺され、首を晒されている。その後、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年に亡くなった。
◆長らく、たかと井伊直弼の具体的な関係は不明であったが、2011年の末、京都市東山区の井伊美術館で、井伊がたかへと宛てた手紙が発見された。手紙は井伊が20代後半に書かれたものと思われ、藩の反対で、たかと会えなくなった際の、辛い心情が綴られている。

◆生まれが多賀なのだ。昼飯に蕎麦を食べる。犬上郡に足を踏み入れうれしい。

2013年6月16日、近江の博物館めぐり

◆考古で(とはいっても学部生2人は教育実習で、院生2人と)、滋賀に行く。米原まで北上する。はにわ館というところに行った8557cfc8.JPGのだが、カメラを持ち出すのを忘れ画像なし。図書館を含む複合文化施設、その一画が資料館になっている。埴輪を露出展示し自由にさわらせるものだが、まあ子供向け。米原町の遺跡や歴史を展示するにはスペースがないのだろう。そこに行けば、だいたい情報がえられるような施設であってほしいものなのだが。
◆息長古墳群のうちの山津照神社と古墳に行く。広姫墓は先を急ぐのでパス。神社の社殿は改修中であった(写真)。息長氏の本拠地である。

笛吹神社

◆紀美野町からの帰りに、笛吹神社に寄ってみました。笛吹神社古墳があるのは知っていたが、本殿の背後にあるとは知ら8f5c818f.JPGず、そのまま帰ってきてしまいました。また出直します。境内に、日露戦争時に奪ってきたロシアの大砲が置いてありました。
 

考古学実習で陶棺の接合をやってます

◆これ、たぶん兵庫県出土だったと思う。古い記録を探さないとわからないのだが。一定程度、接合作業がなされ石膏も入れらb05639b9.JPGれていた部分もあるが、それも破損し、それ以外の破片も集めてきて、接合をやっている。2週やって、大きなブロックが5つほど組み上がってきた。パーツはあまりそろわないが、なんとか資料化したいものである。
◆先週やって、どうしてもない部分もあり、まだ破片があるのではと、倉庫の資料を再点検したが、なかった。過去の遺物、もっと考古学実習で活用できるな~、と箱の上げ下ろしをしながら感じる。三森定男の資料がすこしある。角田に預けたものではないだろうか。
 

疲れています

◆1週間休みたいものだ。多分に精神的なものでしょう。こういう時は単純作業に限るが、先週は部屋の片づけにいそしんだ9bd177b3.JPGが、今週はその気にもなりません。写真は6月12日の状況。引越は7月の8・9日?、だそうです。

もうひとつ松岳山

◆『大阪府の史跡と名勝』に、写真がある。図版13の下。船氏墳墓の標柱がある。その下の石積み、が気になる。むこうに立石70a62511.jpgが見える。そしてさらに山並みが。なので、北側の立石かなと思われるが。坪井良平の記録した積石方形壇の姿が写っているのか、標柱のために作ったものなのか・・・。コピーのスキャン画像なので不鮮明。原本を見に行こう。

国分神社の鏡は松岳山出土

◆整理しておこう。元は下垣さんに教えてもらった話。
◆喜田貞吉「河内国分山船氏の墳墓 王辰爾墳墓の推定」(『歴史地理』第19巻第6号、1912年)。松岳山古墳後円部を55c1f96e.jpg「茶臼山」とよんでいる(松岳山より西側には視野はおよんでいない)。同行した毎日新聞社の岩井武俊の、「南河内地方旅中の見聞(3回)」でも松岳山=茶臼山との認識である。
◆そして1916の梅原の報告文。松岳山古墳の記述のところで、国分神社の鏡が寛永6年に松岳山が発掘された時に出たものとの説は、確かでない。「鏡の裏書にはただ「ちやうす山にて見いだし・・・」とあるのみにて、殊に其の茶臼山と云へるは塚にあらずしてこれより西方字市場茶臼塚のそれを指すなれば・・・」と書いている。茶臼山という場所があるとの認識を示すが、どこのことと理解しているのか示されないので(松岳山後円部でなくてどこなのか)、塚ではないという判断もこちらではできない。で、ここで出てくるのは市場の茶臼塚とある。で、字向山茶臼塚の項目のところで、2墳あって大きい方には盗掘孔があり、国分神社蔵の鏡は「此の塚にて見いだしたるものなるを知る」。とあり、字市場の茶臼塚は古墳かどうかわからんが流出して低くなっているのではとの認識を示す。小林行雄は追認。
◆結局のところ、向井山茶臼塚とする見解は梅原報告に出発し、小林行雄が追認し、これらが考古学的には基本文献であるが故にこうした見方が有力になったといえる。が、梅原報告の見解そのものの根拠は、茶臼山という場所は古墳じゃない→茶臼塚だろう、茶臼塚はたくさんある、そのうちふさわしいのは向井山にある大きい方ちゃうか、という程度の判断である。で、松岳山古墳後円部、梅原も小林も字美山であって茶臼山じゃないとするわけだが、喜田らの茶臼山とよばれているんだ、という見解とは齟齬をきたしているわけである。
◆向井山茶臼塚説に確たる根拠はなく、それよりも大正はじめに喜田らが河内をめぐった時に、当時の国分神社の宮司さんから、松岳山後円部を「茶臼山」との説明を聞いているわけである(地籍的にはどうかはともかく)。鏡が出土した「ちゃうす山」=松岳山、というのが実にシンプルな結論になる。「茶臼山」古墳はほかにもたくさんあるように、こんもりとした古墳のひとつの代名詞だが、西側のヤツが茶臼「塚」であるのに対して、大きな松岳山古墳後円部は茶臼「山」とよばれていることも納得できる話である。
 

『ふりかえれば20年』

◆ナブンケンの埋文センター20年史の冊子(1995年3月)。こんなん、大学の図書館に入れるもんやろか、と思いつつ。「登96228303.JPG録!」。ついつい中身を見る。田中琢さんの言葉。

『遺跡保存方法の検討―水中遺跡―』

◆文化庁が平成元年から3年にかけて研究会をもったが、報告書が未完になっていたものをまとめるよう主任から指示があり、dfe66190.JPGやった。刊行は2000年3月になっている。その奥付頁に、それまでの調査研究の一覧をまとめた。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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