人を幸せにする人になろう

臥薪嘗胆

◆呉か越か。むかし越王コウセンとか、呉王フサとか、漢文でならったもんだ。で、いまのオレは臥薪嘗胆。復讐を忘れないように胆をなめるという意味ではない。新しいステージに進むための頑張りどころという意味である。この年度と来年度で、大きな転換を図りたいと考えている。あと5ヶ月か。なんのこっちゃ、というところだろうが・・・。

ジョン=ダワーと『南京への道』

◆新聞にジョン=ダワー(『敗北を抱きしめて』の著者)へのインタビュー記事が載っていた。全体としてなるほど、とは思う。サンフランシスコ講和の時に、なによりも日本が戦争に区切りをつけるべき相手であった中国や韓国が加わっていなかったこと。終戦後、一定のケジメをつけるためにも数箇年は要するとして、それでも5~6年のうちに、日本の謝罪とともに、中国や韓国との話し合いで、諸問題の基本線を決めていないことが、引きずることになった要因で、それは米国が日本を組み込む戦略によるのだという理解である。
◆が、それだけではない、もっと根が深い。ヨーロッパ戦線、ユダヤ人への恐るべきホロコーストはあった。それは忘れてはならないにしろ、ドイツ兵がフランスを占領していた間にフランス人をむやみに虐殺したようなことは、だぶんなかったに違いない。いちおう、戦場での兵士同士の戦い。進軍の過程で、村々を占領しても、人を気まぐれに殺す、などはしていないだろう。国家の対立を戦争で決着させようとはしたものの、それは対ユダヤ人のように民族根絶などをめざしたようなことを、あっちゃこっちゃでやってはいまい。
◆が、日本はそうではなかった。朝鮮人を見下し、中国人を見下し、村や都市を焼き、食料を奪い、人を斬り殺し、突き殺し、強姦し、妊婦の腹を割き、赤子を燃える人家に放り込む。とほうもない恨(ハン)がある、ということを知る必要がある。南京大虐殺の議論の詳細や先端は知らない。しかし、それは何百万人だか、という数の問題ではないのだ。いうほど多くないということがもし正しいとしても、それが問題ではない。ふっかけでもない、正確に把握できない以上数字に開きができる。だが、過小評価したところで、それで免罪されるものではない。本多勝一の『南京への道』を久しぶりに読んでいるが、食い物や女を求め、占領した都市から出て近隣の村に行っては、入り口をたたき、出てきた人を片っ端から殺害している。目を覆うばかりである。日本人はそういうことをしてきたのだ。戦争だから、そういうこともあるというのでなく、日本人が対中国人だからこそやったのである。
◆南京大虐殺が虚構という人間は、証言やルポをまともに読んだことがあるのか。あるいは自ら違うということを取材し、裏を取り、日本軍は品行方正で正規兵としか戦わなかったなどと証明したのか。事実を追求することのない、虚構の願望に過ぎない。黄色人種のなかの強烈な差別意識、チャンコロとかといった蔑視語に表れる意識を、日本人は共有していたのである。それはどこぞの、こないだ知事を辞めたエラそうなオッサンは、そういう差別意識をず~ともっているわけだ。はっきり言って、オレらの親世代の多くはそうした意識があって、そういのは抜けないのである。で、いまのオレたちにそういう意識がない、と言い切れるだろうか。あいつらバカだという意識がいまなおありはしないか。
◆橋下市長も、『南京への道』くらい読んで欲しい。日本人が中国大陸で何をしたのか、なぜ日本に対して反日感情や敵対感情を抱き、それが薄れないのか、自ら考えることである。

たつの市の三角縁神獣鏡の原稿はどうなった?

◆たつの市で見つかった三角縁神獣鏡の紹介原稿を出したのは、今年の初めだったか?。2回ほど書き直しを命ぜらf01bbaad.jpgれ、やっはたずだ。あんまり記憶はないが。1回目は返した。またなにやら言ってきた。これも対応したと思っているのだが、やってないんだろうか。編集からは何も言ってこない。
 

聖俗二重王制論への疑義

◆中司さんの『つどい』の記事を読む。なるほどな~と。
◆石山古墳のあるヒジキ盆地にかかわることとして、『令集解』に、伊賀比自支和気の娘が垂仁天皇の皇子である円目王の妃になったという伝承が記録されているんだとか。石山古墳中央槨が比自支和気、西槨はその娘とみる。
◆島の山古墳(旧称:島根山)についても、どんぴしゃの伝承が残る。『古事記』では、嶋垂根の娘である糸井比メが応神の妃になったとする。近傍に糸井神社があるという。後円部被葬者は島垂根で、前方部は糸井比メではないか(これ田中卓の説だそうです)。糸井比メが生んだのが速総別命で、妻の女鳥王とともに王位を望んだとして討伐されるが、話は島の山前方部の手玉におよぶ。
◆こういう話は好きである。ここで人種が分かれるんだろうが。オレは記紀に書き込まれたことを、ダメなものは落としつつ、読み取るべきことを読み取るべし、史実も含まれるし、参考になるものも多かろうという立場。で、要するに聖俗二重王制とか、ヒコヒメ制とか、オレの政祭分権王制とか、そういうことについての、ベースの議論を再度点検する必要がある。つまり、被葬者間はほんとにキョウダイといえるのか、首長とその子らという、ひとむかし前の漠然とした理解が完全に否定されるものなのか、ということと、そういう分掌体制なのか、ということ。
◆石山と島の山、垂仁とか応神とかいう議論とも、たぶん年代的にもぴったりですよね。場所もほかには考えがたい。石山古墳や島の山古墳が造られた背景として、特定の豪族と結びつき、そこの娘が妃となるといったことは当然考えられる。そうすると、王権支援のもとで大きな古墳が造られ、また基本的には夫婦合葬でない時代で、死没すれば帰葬されると考えられているところであるし、そういう被葬者の構成は十分に考え得る。一方で、そういう複数埋葬を考える前提として、田中良之の歯冠計測がキョウダイと結論づけたが、地域的にも階層的にも、それを石山や島の山にあてはめられるのかという問題もある。一方で、複数埋葬例の副葬品の相違から、分掌みたいなことが言われてきたわけだが、その解釈として、首長権が執政権と祭祀権に分かれていたとまでみることは危険かもしれない。
◆あるいは近年の説を認めつつ、被葬者像の理解には別物もあるとみるべきか。

人には人の乳酸菌

◆昨日、ヒストリア最新号を受けとったので、根来の記事をコピーし、考古学研究の原稿をコピーし、関係機関・関係者にb3b371cb.JPG送付した。
◆話は変わりますが、早稲田の城倉君が千葉で継続調査中で、展示のチラシ、それとこの4日のシンポジウムのチラシを受けとった。いっぺん行ってみたいものである。

大歴の委員会2012年10月29日

◆月曜日は定例の委員会で梅田へ。だいたい、当日は資料作りに追われる。が、わりあいすんなりと。月曜日はバイトの日で、玉3の作業が進む。
◆一方、大阪府の鏡集成をリスタートさせるべく、ちょっと思い出す作業をしている。まだ撮影していない鏡の撮影を組まなきゃいけない。画像処理は200面+αのいままでのものは、この日、ほぼ完了する。津堂城山はじめ、未調査の新素材がないと作業は進まない。編集は、一度、下垣さんに配列を点検してもらい、それをもとに修正をかけたところでストップしている。なんとか年内に入稿したいもの。
◆谷首と松岳山のリーフレットのアラアラもできているが、そこでストップしている。谷首については、一般的な側面図や奧壁図では面白くないので、斜めの陰影図を作成してもらい新機軸を打ち出そうと考えており、どういう方向から見た画像を作るか決めて発注せなあかんな~、というところでストップしていたが、再始動。
◆というやりたいことはあるが、今日、火曜日はそういうのはやめて、そのためにあらゆる雑用を片付けよう。学園祭に入る週、そして今日は金曜日の授業の振り替え日なので、本来なら火曜日は2コマ講義があるのだがオールフリー。今週はかせぎどき!。

陵墓の勉強会

◆結局、28日は午前で失礼させてもらい、京都に向かう。陵墓の勉強会は駅前のキャンパスプラザで1330スタート、なんとか14時には到着し、1730まで、ほぼ参加することができた。懇親会に誘われるが、金曜日も土曜日も遅く、眠くて仕方がなく、失礼する。近鉄特急に乗り、八木から国分に戻る。この日、オレがある文章の原案を作ることになったため、車中でだいたい書く。でもこの文章、実は7月の宮内庁懇談会のあと、1回書いている。月曜日、前に書いたものをみると、まあ、ほとんど変わりない。
◆そんなんで両立できたのでよかったのだが、まあしんどい。でも1930頃には自宅に帰り着いたので、清盛を見たが(保元の乱くらいから見ています)、そのまま眠りに落ち、イサンは見逃す。

作山を忘れていました

◆作山、やっぱり仲津山でしょうね。大仙まではいかない。で290mで同型同大。同型というには異議があろう。もうちっとffc12d9b.jpg詰める。が、結局のトコロ、枠はそうでも、立地で大きく異なる。作山は丘陵側に前方部を置くので(仲津山も同じだが程度がだいぶ違う)、前方部下段・中段・上段の割り付けも変わっくる。上は後円部あわせ、下は前方部あわせ。相似墳なんて適当なんもや、と言われればそれまでだが、そうではない。そういうのが実態なのである。で大元の型はあるわけで、それに現場あわせのなかで、個々ができあがるわけだ。
◆結論として、前方部上段はそれでも発達しているので、仲津山を基本に、やや時間が進んでいるとはいえるかもしれないが、基本は、仲津山の被葬者であるオオササギの王墓をもとに造営されたものでかまわない。オオササギが427年に死んでも、作山の被葬者が450年まで生きたって、なんの問題もない。
 

日曜日の研究会

◆9時から研究報告3本。ひとつだけコメント。伽耶系と思われる石室が瀬戸内に点々とあると。が、渡来人ということを決めるのは難しいんだろう。天狗山や勝負砂レベルの調査を、ほかがやっているわけではないだろう。が、石室が深く、墳丘後行型で、一次墳丘を入念に仕上げ、そして日本的なる古墳に最終に仕上げていると。石室のみならず、造り方までそうかどうかという点はどうなのか、ということ。時間がなくなり質問できなかったが、ひとつ聞いておこうと思ったのは、その点である。
◆400年よりあとの金官国とは何なのか、どう理解されているのか、というのを、高田氏のレジュメを帰りの新幹線で読み、勉強になった。福泉洞をどう理解するのか、ということだ。

庵治石の椅子

2dae9cff.JPG◆トヨタレンタカーなんとか店はビルの2階なのだが、そこに庵治石を加工した椅子があり、横を見ると、セカチューで舞台となった庵治の石で作ったうんぬんの説明板あり。
◆セカチューは見たことないが見てみたい。柴咲コウを。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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