人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
論理的に考えれば岩屋山は・・・
◆2012年5月22日、一日、あることに費やさざるをえなかったのだが、中身は伏せておこう。ま、夕方まで京阪沿線の施設にいた。で、岩屋山のことを考えていた。
◆岩屋山古墳て誰の墓なんだろうと、考えても思いつかなかったが、今日、考えてみれば、これしかないのでは?という
のを思いついた。舒明の初葬墓ちゃうか。7世紀前半という時期とみなし、限られた八角墳ということを勘案すると、これし
かないのでは?。滑谷岡とはどこか、岩波古典文学大系の註では明日香村冬野って書いてあるが、あんな山奥とは思われない。わからん、ということやろね。むろんオチのオカと出てくるわけでもないのだが。だからこそ、論理的に考えれば、ということですよ。岩屋山が八角かどうかについては疑問の声もある。そうなると話は変わってくるが、八角とすれば、方墳と異なる新仕様の墳形として登場してくるわけで、被葬者は絞られよう。
◆帰りに寝屋川に寄りカミさんと帰る。腹が減ったので、京橋で飲み屋に入る。
◆岩屋山古墳て誰の墓なんだろうと、考えても思いつかなかったが、今日、考えてみれば、これしかないのでは?という
◆帰りに寝屋川に寄りカミさんと帰る。腹が減ったので、京橋で飲み屋に入る。
【追記】舒明の滑谷岡の埋葬から改葬るまで9ヶ月くらいしかないんだってことを、のちに知る。ちょっとそうなるとしんどいか。そのくらいでもでくるのだろうが、初めて八角墳を造ることになり、少々時間を要した。そのために仮埋葬をしただけだ、と考える方が素直か。用明が、池上「陵」とあるのとも違うし・・・。岩屋山は舒明初葬墓とすると、まあ630年代の墓ということになる。現推古陵とほぼ同時の古墳か。来目皇子墓や聖徳太子墓はその前、そのあたり、うまく配列されるものなのかどうか、藤林さんにやってもらおう(今年の卒論生です)。
5月21日大阪城天守閣の3次元計測
◆石垣に続いて、天守台のスキャンを実施。デモでやってくれたもの。どこやりましょか、ということになり、ま、本丸・・・、と
いうことで天守閣となる。ただし、見上げなので、建物はシャドウ部も生まれよう。引きがある側では機械はやや離してやる。ただし南面の小天守は、なかに入らないといけないので、天守閣に電話して立ち入らせてもらう。あと、東面は貯水池があるので、狭い上、電気関係の機械があって封鎖してあり、ほか三面のようには計測不可。まあしゃあない。天守台石垣の上の方については接続させることができるだろうが、下部はデータなし、となろう。
◆ところで、昨年度、学内研究費をえて試みた大阪城の調査、文理融合でもあったが、今年度も申請しようということになり、今年度はオレが研究代表者になれと言われる。5月末日締め切りだって。伏見城に続いて大阪城、なぜだかそんな巡り合わせとなっているようだ。
◆設置者である大阪市への貢献、文理融合を謳えば、けっこうメはあるかも。入念に申請書を書けば通るかもしれないけれど、あんまり時間はない。さてと、
◆ところで、昨年度、学内研究費をえて試みた大阪城の調査、文理融合でもあったが、今年度も申請しようということになり、今年度はオレが研究代表者になれと言われる。5月末日締め切りだって。伏見城に続いて大阪城、なぜだかそんな巡り合わせとなっているようだ。
◆設置者である大阪市への貢献、文理融合を謳えば、けっこうメはあるかも。入念に申請書を書けば通るかもしれないけれど、あんまり時間はない。さてと、
金環日食
◆見ましたよ。6:30から見ている人は少なかったですけど。5階のベランダから見ていると、だんだん薄暗くなり、7:30前
になると、さすがに人が多くなる。カミさんが可視光線、完全シャットアウ
ト(紫外線のみ)のレンズを持って帰ってきていたので、それで見る。でも、カメ
ラはとくに用意してなかったので、携帯用のイクシー。カメラのレンズの前に、紫外線のみ通すレンズを重ねる。が、レンズがピントをあわせるために動いているものの、なかなかピントは合わないみたい。いくらか撮ったものののなかで、いちばんイイモノを。
◆それとテレカに穴を空けて、それをスケッチブックに写したものを挙げておく。と、やっていると、カミさんが写真をならべて組んでいたので、それをもらって掲げておく。こっちの方がよく撮れてますね。悔し~。が、カメラのせいにしておこう。
◆それとテレカに穴を空けて、それをスケッチブックに写したものを挙げておく。と、やっていると、カミさんが写真をならべて組んでいたので、それをもらって掲げておく。こっちの方がよく撮れてますね。悔し~。が、カメラのせいにしておこう。
早くも眼鏡、三代目
◆結局、眼鏡は出てこず、日曜日、眼鏡市場に行く。老眼はさらに進行し、改めて視力検査をした方がいいかもと思っていたが、めんどくさいので、レンズは前と同じにする。3月はじめに落としてから、2ヶ月半ぶり。
関本さん、頑張っている
◆仕事が終わってから、市大日本史の懇親会にかけつけてくれる。近つの図録とチケットをもってきてくれた。また、夏の企画展を担当するそうで、その話もする。近つの先行きについてもちらりと。
◆図録をぱらぱら見る。なにかと勉強になりそうな本である。神社建築みたいな遺構を集めてくれているのが面白そう。ただ、伊勢神宮と出雲大社は取り上げられているものの、住吉大社が挙がっていないのが残念。それと、白石先生の沖ノ島の話。やっぱり4世紀後半で百済だ、というのは間違っていると思う。沖ノ島祭祀は4世紀前半にさかのぼり、それは伽耶関係に始まる。
◆図録をぱらぱら見る。なにかと勉強になりそうな本である。神社建築みたいな遺構を集めてくれているのが面白そう。ただ、伊勢神宮と出雲大社は取り上げられているものの、住吉大社が挙がっていないのが残念。それと、白石先生の沖ノ島の話。やっぱり4世紀後半で百済だ、というのは間違っていると思う。沖ノ島祭祀は4世紀前半にさかのぼり、それは伽耶関係に始まる。
2012年5月20日、松岳山
◆【岸本・道上・小西】まず、北くびれ部のP18に据え、急斜面部を加えるが、ほとんど入らず。次、新規でHHという杭を前
方部西北隅角に近い地点に打つ。板石の葺石材で石垣が高く積まれている箇所の下。そこから、B2・A2の紙の残る範囲を測量する。石垣を入れて、等高線をズウット下げていく。ほぼ伐採した竹が堆く積まれている崖肩部まで入れ終わる。
◆次に境内に転じる。GPSの基準点3箇所のうち、1箇所しかわからず。砂利を5月3日に補充して敷きならべられて埋もれたのと、境内地の東部のものは、なぜかわからないが見つからなかった。仕方がないので、墳丘の杭から逆に振りだして、KD1を設け、さらに西部の参道沿いを測量するために、既存のキャップを被ったペグがあったので、それをKD2として座標を出しておく。
◆KD1に据えて、ほぼC4の紙の範囲について、参道および、南に落ちていく斜面肩部を入れる。ただし、松岳山に上がる階段のすぐ両側は実は測量できていない。ほんと1年前のし残しだが、今度行くときに最初に片付けよう。
◆次に境内に転じる。GPSの基準点3箇所のうち、1箇所しかわからず。砂利を5月3日に補充して敷きならべられて埋もれたのと、境内地の東部のものは、なぜかわからないが見つからなかった。仕方がないので、墳丘の杭から逆に振りだして、KD1を設け、さらに西部の参道沿いを測量するために、既存のキャップを被ったペグがあったので、それをKD2として座標を出しておく。
◆KD1に据えて、ほぼC4の紙の範囲について、参道および、南に落ちていく斜面肩部を入れる。ただし、松岳山に上がる階段のすぐ両側は実は測量できていない。ほんと1年前のし残しだが、今度行くときに最初に片付けよう。
5月19日、第15回市大日本史学会
◆講演はハーバード大のデヴィッド=ハウエル氏の幕末の農兵の話。研究報告は、下鶴さん、大村さん、羽田さん。どれも充実した報告で、時間が短いのが申し訳ない。下鶴さんの古事記の話は、なかなか面白かった・・・、ように思うのだが、反芻してみたい。
◆懇親会のあと、イワシで2次会。この日、大歴の西宮神社の現地見学検討会。金曜日までバタバタと追加史料を刷って、夜、天理まで拡声器とともに企画委員に預けたり、ばたばたした。そっちは任せるしかない。それもまたよかろう。市大日本史は、雑誌ができたので、自分にとっては月曜日には終わっている。
◆懇親会のあと、イワシで2次会。この日、大歴の西宮神社の現地見学検討会。金曜日までバタバタと追加史料を刷って、夜、天理まで拡声器とともに企画委員に預けたり、ばたばたした。そっちは任せるしかない。それもまたよかろう。市大日本史は、雑誌ができたので、自分にとっては月曜日には終わっている。
岩屋山式つづき
◆で、岩屋山。その年代観があるからこそ、岩屋山が第3四半期で元斉明陵、牽牛子はさらにずいぶんあとで改葬後の斉明陵、という結論になる。とはいえ、直接は関係なくて、横口式石槨はそっちで一定の結論を導き、一方、岩屋山式は、その類例と出土遺物から年代観を導いている。どっちかに寄っ かかっている議論ではない。
◆で、岩屋山式。こちらの方がやはり手強い。本格的な反論には、こっちも須恵器を実測したりする準備が必要。飛鳥Ⅱと いう根拠は、いくつかの須恵器。ただ、白石先生も挙げている、叡福寺と塚穴についてのコメントも必要ではないのか。それと、現・推古陵への改葬時期は不明 だが、東石室は切石ですよ。30年もたってから改葬するんかね。7世紀前半のうちには山田高塚は造っているんでしょうに。630年代では。+カナヅカ。
◆岩屋山式の年代を須恵器で求められるなら、それに越したことはない。が、葉室石塚の長頸壺1点、それに対し、被葬者の堅い事例が4つそろっている。もはや叡福寺古墳のみを例外と片づけることは不可能なのだが・・・。
◆考古学的に!と非難されている。が、須恵器1点、岩屋山亜式は西宮古墳の須恵器数点、それを考古学的にちゃんと検討しろというのもわかる。が、それだけしかないのである。西宮古墳の須恵器が飛鳥Ⅱ末というのも大丈夫なのか疑問。岩屋山式は基本は飛鳥Ⅰ、なかには埋葬年代が飛鳥Ⅱに下るものもあった、というのが事実ではないだろうか。
◆石舞台の年代は恣意的だと。そう受けとられても構わない。ミソは、生前造墓を考えるべしというところにあり、馬子の墓と合意されても、石舞台がいつ造られたかはそれだけでは決まらない。むろん、没後2年たっての馬子墓造営の記事は、没後造墓とする根拠として強いだろう。しかしこれ1点。没後造墓と考えることによる矛盾の大きさ、生前造墓と考えることによる整合性から、最終的にこの記事を評価すればよい。
◆で、岩屋山式。こちらの方がやはり手強い。本格的な反論には、こっちも須恵器を実測したりする準備が必要。飛鳥Ⅱと いう根拠は、いくつかの須恵器。ただ、白石先生も挙げている、叡福寺と塚穴についてのコメントも必要ではないのか。それと、現・推古陵への改葬時期は不明 だが、東石室は切石ですよ。30年もたってから改葬するんかね。7世紀前半のうちには山田高塚は造っているんでしょうに。630年代では。+カナヅカ。
◆岩屋山式の年代を須恵器で求められるなら、それに越したことはない。が、葉室石塚の長頸壺1点、それに対し、被葬者の堅い事例が4つそろっている。もはや叡福寺古墳のみを例外と片づけることは不可能なのだが・・・。
◆考古学的に!と非難されている。が、須恵器1点、岩屋山亜式は西宮古墳の須恵器数点、それを考古学的にちゃんと検討しろというのもわかる。が、それだけしかないのである。西宮古墳の須恵器が飛鳥Ⅱ末というのも大丈夫なのか疑問。岩屋山式は基本は飛鳥Ⅰ、なかには埋葬年代が飛鳥Ⅱに下るものもあった、というのが事実ではないだろうか。
◆石舞台の年代は恣意的だと。そう受けとられても構わない。ミソは、生前造墓を考えるべしというところにあり、馬子の墓と合意されても、石舞台がいつ造られたかはそれだけでは決まらない。むろん、没後2年たっての馬子墓造営の記事は、没後造墓とする根拠として強いだろう。しかしこれ1点。没後造墓と考えることによる矛盾の大きさ、生前造墓と考えることによる整合性から、最終的にこの記事を評価すればよい。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。