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人を幸せにする人になろう

雄略期

◆あと、帆立貝と円墳について、なにか出したく、大型前方後円墳を済ませ、資料集原稿を出 した後にやっていたが、中途半端に終わる。で、TK2347くらいに、馬蹄形周濠で堤もあったりする、また帆立貝の小方部としても定型的な一群があるのかな、と。集めてみようとしたが、もう無理で、木曜日あたりに作ったもの。これが無墓坑渡来系的なものがけっこうあるなと。堺の経塚を入れたかったのだが。
◆次は10日の近鉄文化サロン、15日の大学のアカデミックカフェ、を乗り切らなければならない。あ~しんど。それが済めば、今年は終わりだ。
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決め図

◆12月1日に作成した最後の1枚の図。資料集ではまだアウトラインだったもの。 これは前方後円墳については、類型墳の同一段階を示すもので、埋葬年代ではない。その他、帆立とか円墳などの埋葬年代の位置に置いているものと、そういう意味では混在している。

2022年12月3・4日、中国四国前方後円墳研究会

◆翌日、9時頃にホテルを出たか。島根大学まで歩いていく。到着後、11時集合には早いので、キャンパス内のベンチで、パワポをいじる。時間になったので会場へ。ハイブリッド開催。研究発表の4番目。もしかしていちばん年上!。あ~あ、年を取ったもの。だいたい40分の時間内だったか。
◆直前に、もっている中四研の資料を読んでいて、ある人の記述にでくわす。大型前方後円墳の出現や継続しないことに注目し、これを政権中枢の交代に結び付けているが、多くの場合が単発であって、それは政権交代があろうがなかろうが、王権側が、次々に地域を組み込んでいく展開の産物というもの。そうかもしれないな~、と。例えば規模を落としたり墳形が変わったりして続くところも、それは引き続きその地域の対応が必要なのであって、多くは、1世代で時々の役割は完了したのかもしれない。前期-中期の変化をどうとらえるか、という根本の理解がゆらぎはじめる。発表時にどうしゃべるか、島根大学まで歩きながら考え、また島根大学のキャンパスで思案し、パワポの文章をいじっていた。
◆たとえば五社神型前方後円墳があり、ほぼ1世代で終わっていくが、埋葬は中期に下るものも多く、そこに最新の甲冑が副葬されている。つまり、前政権下での倭国王との関係のなかで築造されたものとして、それをまずは潰してはいないし、政権が交代していたとしても、干すということをしていない、ということになる。
◆政権交代なのかどうかは、地域の古墳群の動向とからめて考えなければならない、それもそうではあろうが、一方で、畿内のなかでそうした理解でいいのか、もう1回ちゃんと論点を整理する必要があるな~、と。

チュウシケンへ

◆そこから伊丹に向かい。空港で時間をつぶし、1815JAL便で出雲空港へ。翌日11時に島根大学にいるのは、前泊しないとしんどいので。なお、日曜日にマラソンがあって、3日土曜日の泊は、結構ホテルが埋まっていた。
◆思えば今年の1月に風土記の丘でしゃべらせてもらい、この時も松江駅前で泊まったもの。ホテルに入り、なかなかパワポの仕上げにかからず、ワールドカップのニュースなどを見て、うだうだ。ようやっと21時くらいから仕事を始め、最後まで到達し、まあこんなもんかと。この前の土日に丸2日をかけて9割はできあがっていたが、残り、最後のところができていなかった。平日はなかなか時間が取れず、結局は前日の夜となる。しゃべりは40分。

2022年2月2日、コリアタウン

◆大阪発見グループのまちあるき。10時桃谷駅集合。桃谷商店街、舎利寺。舎利寺に入っていく途 中の生野区役所に確か御勝山古墳の埴輪があったはず、だが。舎利寺はとても面白い。西国33箇寺を、ここの境内でめぐれるのだが、それぞれの所在地の地形などを再現した、手の込んだ造り。
◆御勝山古墳。わたしの担当で少し解説。そこから平野川沿いにくだる。木村重成という人がいたそうですね。以下、ウィキ。

父と兄の高成は豊臣秀次に仕えていたため秀次事件に連座して自害させられたが、助命された母の宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。慶長4年(1599年)12月17日、豊臣姓を与えられる。大坂冬の陣では後藤基次と共に今福砦攻防戦を展開し、徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。
 慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親と共に八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。その後、敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との戦闘の末に戦死した。

◆このへん、木村家のお屋敷群。兄弟は徳川に認められ、庄屋を担い、旧平野川沿いに木村家の 家々がならぶ。その本家というのか、広大な屋敷があったが、東京に出たそうで、しばらく前に取り壊され駐車場になっている。
◆つるの橋、御幸森天神宮。そしてコリアタウン。
◆コリアタウンは、いま大阪でもっとも人を集めているスポット。平日というのに人だらけ。13時終了、コリアタウンで昼飯。そのあと茶店。

2022年12月1日、摂津五箇荘むらあるき(2)

◆今日は、堀村、庭井村、苅田村、この3つをまわりました。
◆写真は、左側が西で旧堀村(いまの長居)で、右側が東で旧矢田村。北を向いての南北境界です。すなわち摂津と河内の国界で、この下を難波大道が通っているはずだ。

2022年もあとひと月

◆けっこうこなしているが、仕事というのは湧いてくるもので・・・。中四研の発表の準備、あと一息 なのだが、なかなか苦しんでおり、まあ、たいしたことは言えないが、収め方の決着がついていません。
◆11月23日は、国文の講談の研究発表会に参加しました。講談の実演はとても面白かった。話術のプロというのは見事なもんですね。

2022年11月28日、鈴鹿市富士山1号墳

◆2年目。昨年、一部検出された造り出しを、全面調査している。外側は肩が流れているが、墳丘側の基部はよく残っている。ほかにも2か所、そしてもう1箇所もこれから。墳丘長は判明しそうである。片側に造り出しをもつ帆立貝である。5世紀後半のようではあるが、前半目か後半目か、埴輪からの追求とともに、ばっちりの須恵器が出てくれるとうれしいのだが。
◆わりと定型的になった片側に造り出しをもつ帆立貝の印象。けっこう大きい。類例を集め、ならべてみたいもの。

2022年11月24日、香芝市

◆今年から委員に委嘱され、はじめての会議でした。今年度、2つの古墳を調査し、このうち1基は着手中で、もう1基はこれから。まずは部屋で図面を見ながら会議、後半は現地。まず、最初のこれから着手のものは、大きくはないが前期の古墳で、非常によく残っている。要するに、見た目でも墳丘裾が明確なのである。馬見丘陵の縁部なのかな、花崗岩バイラン土で、昨年の調査では、墳端部では、葺石はないが削り出された墳丘斜面と、その外との傾斜変換がきれいに出ているとのこと。
◆もう1基は狐井稲荷古墳。これは大きい!。削り込まれ、集落が取り巻き、改変も大きいのであるが、しかし高さはあり、それほど低くなってはいないような印象も受ける。トレンチを見ると、下部は深く、なかなか掘るのが大変そう。またテラス面などが明確でないので、復元するにも、なかなかしんどそうではある。ひととり調査するにも時間がかかるのでは。これについては、測量図から読み取れるところを整理してみる必要がありそうだ。

富田茶臼山VS昼飯大塚

◆ともに五社神型で同寸なので、重ねてみました。なかなか見事にあっているように、わたしには見えます。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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