人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
八戸研究会(2)おいらせ町の阿光坊古墳群
◆9:00に八戸を出発する一行と、阿光坊古墳群でちょうど合流できるという計算。9:30くらいには 阿光坊古墳群に立っていたが、集合は古墳館なんだろうか現地なんだろうか、タクシーを降りるところで確認の電話をする。Fさんからおいらせ町の担当の方に電話を入れていただいたようで、古墳館に案内される。一行は八戸市がやってる現場をひとつ見てからで、到着は10時過ぎだった。天候悪く、まだ雨が落ちてこないうちにと、まず現地。
◆いわゆる末期古墳群。125基あるという。おばちゃんが勾玉を畑で採集し遺跡発見につながったという。1988年に最初の発掘が行われる。その時は下田町(合併しておいらせ町に)。が1990年までは弘前大学などに依頼したもの。オレが末期古墳をすこしかじったのは1990年代後半で、名前は知っていても、内容はほとんど知ることもなかった。町に職員を配置し自分のところで掘るようになるのが、1999年。それにより広がりをおさえ、史跡指定されたのが2007年だったか。現在は、史跡整備にむけての段階に進んでいる。
◆末期古墳は、そう大きくはなく、また周溝はかなりの角度で掘り込むもので、盛土もそこそこの コンモリ観あるものと思うが、当然に、早くに墳丘の初期流出があり、溝は埋まり、一定のなだらかな状態となり、さらに徐々に長い時間をかけて溝が埋まっていくのだろう。墳丘が畑地などになり削平されていなくとも、現状では例えば50㎝とか、1mはない高まりなのである。したがって、当然に、後世の開墾が入ればならされ、ほぼ視認できなくなる。
◆阿光坊でいれば、手前の古い時期のものは、畑地になりほぼ現状ではわからず、奥の十三森支群は山林斜面地で、そっくりと、わずかな高まりの墳丘がポコポコと残っている。間に谷地があり、墓道も検出されているという。
◆いわゆる末期古墳群。125基あるという。おばちゃんが勾玉を畑で採集し遺跡発見につながったという。1988年に最初の発掘が行われる。その時は下田町(合併しておいらせ町に)。が1990年までは弘前大学などに依頼したもの。オレが末期古墳をすこしかじったのは1990年代後半で、名前は知っていても、内容はほとんど知ることもなかった。町に職員を配置し自分のところで掘るようになるのが、1999年。それにより広がりをおさえ、史跡指定されたのが2007年だったか。現在は、史跡整備にむけての段階に進んでいる。
◆末期古墳は、そう大きくはなく、また周溝はかなりの角度で掘り込むもので、盛土もそこそこの コンモリ観あるものと思うが、当然に、早くに墳丘の初期流出があり、溝は埋まり、一定のなだらかな状態となり、さらに徐々に長い時間をかけて溝が埋まっていくのだろう。墳丘が畑地などになり削平されていなくとも、現状では例えば50㎝とか、1mはない高まりなのである。したがって、当然に、後世の開墾が入ればならされ、ほぼ視認できなくなる。
◆阿光坊でいれば、手前の古い時期のものは、畑地になりほぼ現状ではわからず、奥の十三森支群は山林斜面地で、そっくりと、わずかな高まりの墳丘がポコポコと残っている。間に谷地があり、墓道も検出されているという。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。