人を幸せにする人になろう

聖俗二重王制論への疑義

◆中司さんの『つどい』の記事を読む。なるほどな~と。
◆石山古墳のあるヒジキ盆地にかかわることとして、『令集解』に、伊賀比自支和気の娘が垂仁天皇の皇子である円目王の妃になったという伝承が記録されているんだとか。石山古墳中央槨が比自支和気、西槨はその娘とみる。
◆島の山古墳(旧称:島根山)についても、どんぴしゃの伝承が残る。『古事記』では、嶋垂根の娘である糸井比メが応神の妃になったとする。近傍に糸井神社があるという。後円部被葬者は島垂根で、前方部は糸井比メではないか(これ田中卓の説だそうです)。糸井比メが生んだのが速総別命で、妻の女鳥王とともに王位を望んだとして討伐されるが、話は島の山前方部の手玉におよぶ。
◆こういう話は好きである。ここで人種が分かれるんだろうが。オレは記紀に書き込まれたことを、ダメなものは落としつつ、読み取るべきことを読み取るべし、史実も含まれるし、参考になるものも多かろうという立場。で、要するに聖俗二重王制とか、ヒコヒメ制とか、オレの政祭分権王制とか、そういうことについての、ベースの議論を再度点検する必要がある。つまり、被葬者間はほんとにキョウダイといえるのか、首長とその子らという、ひとむかし前の漠然とした理解が完全に否定されるものなのか、ということと、そういう分掌体制なのか、ということ。
◆石山と島の山、垂仁とか応神とかいう議論とも、たぶん年代的にもぴったりですよね。場所もほかには考えがたい。石山古墳や島の山古墳が造られた背景として、特定の豪族と結びつき、そこの娘が妃となるといったことは当然考えられる。そうすると、王権支援のもとで大きな古墳が造られ、また基本的には夫婦合葬でない時代で、死没すれば帰葬されると考えられているところであるし、そういう被葬者の構成は十分に考え得る。一方で、そういう複数埋葬を考える前提として、田中良之の歯冠計測がキョウダイと結論づけたが、地域的にも階層的にも、それを石山や島の山にあてはめられるのかという問題もある。一方で、複数埋葬例の副葬品の相違から、分掌みたいなことが言われてきたわけだが、その解釈として、首長権が執政権と祭祀権に分かれていたとまでみることは危険かもしれない。
◆あるいは近年の説を認めつつ、被葬者像の理解には別物もあるとみるべきか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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