人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
阿部内臣鳥
◆587年の物部戦争の時、安倍臣人という人物が見える。
◆608年隋使がやってきた時、安倍鳥臣が小墾田宮での案内役となる。609年、新羅から使者が来た際、四大夫として
安倍鳥子臣の名前がある。そして612年、堅塩姫を檜隈大陵に改葬し、軽でシノビゴトを奏上した際、最初に推古の言葉を代読したのが、安倍内臣鳥である。
◆624年馬子が葛城県を望む旨を推古に奏上させた1人として安倍臣摩侶が登場する。そして推古没後、大臣蘇我蝦夷は、推古の葬礼後、安倍麻呂臣と議り、群臣を集め、蝦夷は麻呂に群臣に後継者について問わせた。
◆アベの氏上は、587には人というものがおり、鳥は608~612年に現れ、624年には倉橋麻呂となっている。鳥は、600年代から610年代に氏上で、590年代にさかのぼるかもしれない。612年以降、624年までの間に没したと思われる。谷首古墳は鳥の墓でよいと思うが・・・。
【追記】大阪城の石垣ではないが、切石石室は、急速に普及したんでしょうね。ほぼ1世代ですよね。谷首で、次は文殊院西。
◆608年隋使がやってきた時、安倍鳥臣が小墾田宮での案内役となる。609年、新羅から使者が来た際、四大夫として
◆624年馬子が葛城県を望む旨を推古に奏上させた1人として安倍臣摩侶が登場する。そして推古没後、大臣蘇我蝦夷は、推古の葬礼後、安倍麻呂臣と議り、群臣を集め、蝦夷は麻呂に群臣に後継者について問わせた。
◆アベの氏上は、587には人というものがおり、鳥は608~612年に現れ、624年には倉橋麻呂となっている。鳥は、600年代から610年代に氏上で、590年代にさかのぼるかもしれない。612年以降、624年までの間に没したと思われる。谷首古墳は鳥の墓でよいと思うが・・・。
【追記】大阪城の石垣ではないが、切石石室は、急速に普及したんでしょうね。ほぼ1世代ですよね。谷首で、次は文殊院西。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。