人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2022年2月2日、コリアタウン
◆大阪発見グループのまちあるき。10時桃谷駅集合。桃谷商店街、舎利寺。舎利寺に入っていく途 中の生野区役所に確か御勝山古墳の埴輪があったはず、だが。舎利寺はとても面白い。西国33箇寺を、ここの境内でめぐれるのだが、それぞれの所在地の地形などを再現した、手の込んだ造り。
◆御勝山古墳。わたしの担当で少し解説。そこから平野川沿いにくだる。木村重成という人がいたそうですね。以下、ウィキ。
父と兄の高成は豊臣秀次に仕えていたため秀次事件に連座して自害させられたが、助命された母の宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。慶長4年(1599年)12月17日、豊臣姓を与えられる。大坂冬の陣では後藤基次と共に今福砦攻防戦を展開し、徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親と共に八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。その後、敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との戦闘の末に戦死した。
◆このへん、木村家のお屋敷群。兄弟は徳川に認められ、庄屋を担い、旧平野川沿いに木村家の 家々がならぶ。その本家というのか、広大な屋敷があったが、東京に出たそうで、しばらく前に取り壊され駐車場になっている。
◆つるの橋、御幸森天神宮。そしてコリアタウン。
◆コリアタウンは、いま大阪でもっとも人を集めているスポット。平日というのに人だらけ。13時終了、コリアタウンで昼飯。そのあと茶店。
◆御勝山古墳。わたしの担当で少し解説。そこから平野川沿いにくだる。木村重成という人がいたそうですね。以下、ウィキ。
父と兄の高成は豊臣秀次に仕えていたため秀次事件に連座して自害させられたが、助命された母の宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。慶長4年(1599年)12月17日、豊臣姓を与えられる。大坂冬の陣では後藤基次と共に今福砦攻防戦を展開し、徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親と共に八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。その後、敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との戦闘の末に戦死した。
◆このへん、木村家のお屋敷群。兄弟は徳川に認められ、庄屋を担い、旧平野川沿いに木村家の 家々がならぶ。その本家というのか、広大な屋敷があったが、東京に出たそうで、しばらく前に取り壊され駐車場になっている。
◆つるの橋、御幸森天神宮。そしてコリアタウン。
◆コリアタウンは、いま大阪でもっとも人を集めているスポット。平日というのに人だらけ。13時終了、コリアタウンで昼飯。そのあと茶店。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。