人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2025年8月17日(日)お墓参り
◆義弟が東京から2泊3日で来ており、カミサンは同窓会に出席した後、
友人宅に泊まり。この日は、義弟の泊っている和歌山駅東口のルートインに930に行く。そこで集合。1時間ちょっとで行ってしまいますね。
◆海南まわりで、まず長谷宮泉福寺さんのお墓参り。草があまり生えていないは暑さによるのか。なおこの墓は一族の墓を移したものなので、カミサンのいとこたちもお参りすることがある。そのあと、高野山に行き、精進料理。あいかわらず欧米人の観光客も多い。そのあと普賢院に。真言宗では、大きな骨壺と小さな骨壺に分け、大きな骨壺の骨はお墓に、小さな骨壺は高野山に納める。
◆予約していなかったが、お盆の読経をしていただき、七回忌の話などをする。それから、いただいた卒塔婆を、奥の院に納めに行く。谷川が境界で、その手前に手水鉢?があり、ずらりと仏さんがならび、卒塔婆を納め、水をかけていく。
◆普賢院、そして奥の院で、河内鋳物師の灯炉というのを考えていた。四天王寺でもそうだが、釣り灯篭を購入?し、名前を書いてもらい、屋根裏に吊ってある。河内鋳物師は、朝廷の「灯炉」供御人となり鉄「灯炉」を納めることになっているわけだが、その「灯炉」とは、この手の釣り灯篭なのか、と。そうだとしても、いまは電気の明かりだが、かつては蝋燭、いや油か?。今のように屋根裏にずらっとならぶ姿ではあるまい。手の届く高さであったはずだ。朝廷の建物のまわりに、屋根裏から釣り下げのための長い鈎が下がっており、そこに鉄「灯炉」が下げられ、夜も明かりがともっている、というイメージ。
◆「灯炉」というと、いまは石灯篭を思い浮かべてしまう。その火を入れる部分が鉄だったというものではないのだろう。要するに平安時代・鎌倉時代と、河内鋳物師が納めた鉄「灯炉」とは、実際どんなものなのか、ということ。こういうの、誰に聞けば教えてもらえるのか。
◆海南まわりで、まず長谷宮泉福寺さんのお墓参り。草があまり生えていないは暑さによるのか。なおこの墓は一族の墓を移したものなので、カミサンのいとこたちもお参りすることがある。そのあと、高野山に行き、精進料理。あいかわらず欧米人の観光客も多い。そのあと普賢院に。真言宗では、大きな骨壺と小さな骨壺に分け、大きな骨壺の骨はお墓に、小さな骨壺は高野山に納める。
◆予約していなかったが、お盆の読経をしていただき、七回忌の話などをする。それから、いただいた卒塔婆を、奥の院に納めに行く。谷川が境界で、その手前に手水鉢?があり、ずらりと仏さんがならび、卒塔婆を納め、水をかけていく。
◆普賢院、そして奥の院で、河内鋳物師の灯炉というのを考えていた。四天王寺でもそうだが、釣り灯篭を購入?し、名前を書いてもらい、屋根裏に吊ってある。河内鋳物師は、朝廷の「灯炉」供御人となり鉄「灯炉」を納めることになっているわけだが、その「灯炉」とは、この手の釣り灯篭なのか、と。そうだとしても、いまは電気の明かりだが、かつては蝋燭、いや油か?。今のように屋根裏にずらっとならぶ姿ではあるまい。手の届く高さであったはずだ。朝廷の建物のまわりに、屋根裏から釣り下げのための長い鈎が下がっており、そこに鉄「灯炉」が下げられ、夜も明かりがともっている、というイメージ。
◆「灯炉」というと、いまは石灯篭を思い浮かべてしまう。その火を入れる部分が鉄だったというものではないのだろう。要するに平安時代・鎌倉時代と、河内鋳物師が納めた鉄「灯炉」とは、実際どんなものなのか、ということ。こういうの、誰に聞けば教えてもらえるのか。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。