人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2020年12月29日(火曜日)
◆いつもは年末年始に職場に行くことはないが、今年は、さまざまな変化があり、この押し迫った時期ながら、職場に来ております。本来、仕事納めの昨日に来るべきでしたが、家の片づけと、懸案のことをやるために、出てこず、本日、火曜日になっております。丸1日メールも見てないので、まずはそこからです。
2020年12月27日(日)、今日も朝から
◆報告書2つをかかえ、ようやくそれらに、まとまった時間を割けるようになる。今日も8:30に職場。伏見城の等高線60mまで下ってきた。とはいえ、昨日26日(土曜日)に変化があり、この日は一方の遺物実測図の画像をいじっていました。
こういう人もいる
◆なかにとどまり、よかれと思う方向に進むことに努力する、その方がいい場合もあろう。 「やってられるか」と辞めてしまうのはカッコいいが、敵の思うつぼ、ということもある。が、この人はエライと思います。むろん、行政トップの政治家と、官僚とは違うものではあり、まじめに仕事をしている官僚を困らせても、お門違いという面もあろう。が、議院内閣制のもとで、時の政府に反対する行動として、十分理解できる。
◆どんどん、政府の仕事をしている研究者が、これに続いて辞めてくれればと思う。が、研究者も自己評価・外部評価にさらされ、社会的貢献分野で、政府の委員とかやってるとポイントになるわけだ。ハクもつく。むろん考え方は人それぞれ、行動の仕方も人それぞれ。が、日本学術会議のことを本当に反省させたいなら、アカデミックの世界が一丸となって、名誉職的な政府委員等を、ぜんぶやめてやったらよいのだ。以下、東京新聞から。
文化庁の登録美術品調査研究協力者会議の座長を務めていた佐藤康宏東大名誉教授が、菅義偉首相が日本学術会議の推薦した新会員候補6人の任命を拒否したことに抗議し座長を辞任していたことが分かった。
◆「迷惑かけなければ抗議の意味ない」
佐藤氏によると、10月1日に報道で任命拒否を知り、同3日午後、文化庁の担当者らにメールで「専門家を専門家として尊重しない政府のために働くつもりはない。今後は政府関係の仕事はすべてお断りする」「会議直前で迷惑をかけるが、多少とも迷惑をかけなければ抗議の意味もない。よろしく御理解願う」などと辞意を伝えたという。5日に担当者から電話で慰留されたが、意思は固く、別のメンバーを座長にしてもらうことで合意し、7日付で辞任した。
佐藤氏は「菅首相や杉田和博官房副長官は、一貫して戦争目的の科学研究に慎重な姿勢を示してきた学術会議を邪魔な存在とみなし、特定秘密保護法や安保関連法に異を唱えてきた6人を意図して排除した」と指摘。「任命拒否は、大学やその他の研究機関を軍事研究に向かわせようという明確な目的をもって行われた。官邸は、法を犯してでも人事に介入し、学術研究を政府の意思に従わせようとしている」とみる。
◆市民への影響を懸念
「私は学術会議とは縁もゆかりもないが」と前置きした上で、「拒否された6人の教授の自由を守らないことは、いくらでも学問の自由を時の政権に売り渡すことになる。首相の違法行為を許せば、研究者だけの問題にとどまらず、芸術家やメディアを含め、あらゆる表現者、そして市民にも確実に影響を及ぼすものになるだろう」と警鐘を鳴らす。
文化庁は本紙の取材に「コメントすることはない」と答えた。
佐藤氏は、1980年に東大大学院人文科学研究科修士課程修了後、東京国立博物館技官、文化庁文化財保護部美術工芸課技官、同絵画部門文化財調査官を経て、2020年3月まで東大大学院教授(美術史学)を務め定年退官。08年からは放送大客員教授を兼任していたが、15年に自主退任した。
文化庁では09年から文化財指定の専門調査会委員、20年4月より登録美術品調査研究協力者会議の座長をつとめていた。
◆どんどん、政府の仕事をしている研究者が、これに続いて辞めてくれればと思う。が、研究者も自己評価・外部評価にさらされ、社会的貢献分野で、政府の委員とかやってるとポイントになるわけだ。ハクもつく。むろん考え方は人それぞれ、行動の仕方も人それぞれ。が、日本学術会議のことを本当に反省させたいなら、アカデミックの世界が一丸となって、名誉職的な政府委員等を、ぜんぶやめてやったらよいのだ。以下、東京新聞から。
文化庁の登録美術品調査研究協力者会議の座長を務めていた佐藤康宏東大名誉教授が、菅義偉首相が日本学術会議の推薦した新会員候補6人の任命を拒否したことに抗議し座長を辞任していたことが分かった。
◆「迷惑かけなければ抗議の意味ない」
佐藤氏によると、10月1日に報道で任命拒否を知り、同3日午後、文化庁の担当者らにメールで「専門家を専門家として尊重しない政府のために働くつもりはない。今後は政府関係の仕事はすべてお断りする」「会議直前で迷惑をかけるが、多少とも迷惑をかけなければ抗議の意味もない。よろしく御理解願う」などと辞意を伝えたという。5日に担当者から電話で慰留されたが、意思は固く、別のメンバーを座長にしてもらうことで合意し、7日付で辞任した。
佐藤氏は「菅首相や杉田和博官房副長官は、一貫して戦争目的の科学研究に慎重な姿勢を示してきた学術会議を邪魔な存在とみなし、特定秘密保護法や安保関連法に異を唱えてきた6人を意図して排除した」と指摘。「任命拒否は、大学やその他の研究機関を軍事研究に向かわせようという明確な目的をもって行われた。官邸は、法を犯してでも人事に介入し、学術研究を政府の意思に従わせようとしている」とみる。
◆市民への影響を懸念
「私は学術会議とは縁もゆかりもないが」と前置きした上で、「拒否された6人の教授の自由を守らないことは、いくらでも学問の自由を時の政権に売り渡すことになる。首相の違法行為を許せば、研究者だけの問題にとどまらず、芸術家やメディアを含め、あらゆる表現者、そして市民にも確実に影響を及ぼすものになるだろう」と警鐘を鳴らす。
文化庁は本紙の取材に「コメントすることはない」と答えた。
佐藤氏は、1980年に東大大学院人文科学研究科修士課程修了後、東京国立博物館技官、文化庁文化財保護部美術工芸課技官、同絵画部門文化財調査官を経て、2020年3月まで東大大学院教授(美術史学)を務め定年退官。08年からは放送大客員教授を兼任していたが、15年に自主退任した。
文化庁では09年から文化財指定の専門調査会委員、20年4月より登録美術品調査研究協力者会議の座長をつとめていた。
12月24日、宮崎です
◆まあ、クリスマスイブとはいえ、キリスト教徒でもないし。
◆朝、展示室を開室するワーキンググループリーダー会議。飛行機の中で議事メモを作っていた。
◆しとしと雨。天王寺からリムジンバスに乗り、伊丹。なんか搭乗口の様子が変わっていました。店が導線にそって両側に配置され、そこを抜けるようにしてある。なんか買え、と。搭乗率は3割くらいだろうか。間隔を空けてはいるが、すべての列に客がいるわけでもない。通路側だったが、3列席で誰もいないので、窓側に移動して雲を見てました。1万メートルまで上がると、17時代だったのでまだ明るく、西方が夕焼けでした。
◆いまから『都市文化研究』の原稿を仕上げようと思います。なんとか今晩、入稿したいもの。宮崎駅前東横イン。
◆朝、展示室を開室するワーキンググループリーダー会議。飛行機の中で議事メモを作っていた。
◆しとしと雨。天王寺からリムジンバスに乗り、伊丹。なんか搭乗口の様子が変わっていました。店が導線にそって両側に配置され、そこを抜けるようにしてある。なんか買え、と。搭乗率は3割くらいだろうか。間隔を空けてはいるが、すべての列に客がいるわけでもない。通路側だったが、3列席で誰もいないので、窓側に移動して雲を見てました。1万メートルまで上がると、17時代だったのでまだ明るく、西方が夕焼けでした。
◆いまから『都市文化研究』の原稿を仕上げようと思います。なんとか今晩、入稿したいもの。宮崎駅前東横イン。
突然ですが、水行10日陸行1月
◆末盧国は唐津であろう。魏使の船は末盧国に停泊する。「倭国王の使いを遣わして京都・帯方郡、諸々の韓国に詣らしむる時、および郡使の倭国に使いする時は、みな津に臨みて捜露し、文書と賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯あることを得ず」。唐津の港にはこうした機関があったのだろう。
◆そこからは陸路と書かれている。東南に陸行して500里(216km)で伊都国に到る。実際には北東24km(0.11)である。1日の道程であろう。伊都国は「郡使往来する時、常に駐まるところなり」。伊都国には中国館があったのであろう。魏使の倭国行きの長旅も、宿舎に入って一段落である。「常に駐まる」については、いつの機会においても長期間にわたって滞在する倭国内における魏使の拠点だったのだろう。
◆伊都国から東南に500里(216km)で奴国に到る。実際には北東〓km( )である。1日の道程であろう。そして東へ不弥国。
◆これらの距離は著しく実際と乖離する。倭国側で何里といった距離が計測されていたわけではないだろうから、これは魏側の数字であろうが、魏使が復命書に経験からだいたいの距離を記したにしては事実と大きく異なる。
◆1日で末盧国から伊都国、1日で伊都国から奴国へ行ける。不弥国もしかり。一方、投馬国までは20日、邪馬台国までは40日の行程である。末盧国・伊都国、伊都国・奴国の実際の1日行程に対し、20倍あるいは40倍の距離観である。
◆そして、水行・陸行の日数は魏使の聞き取りとみられる。倭国内における各地域間の交易等による人の行き来のなかで、経験的に導かれていた当時の所要日数を書き留めたものと思われる。〈魏志倭人伝〉の冒頭にあり、投馬国や邪馬台国へ到達するための距離観を、当時の倭船を使った所要日数により示したものといえる。比較的近い距離の陸上移動ではなく、水行20日や10日を里数に置き換えようとしても、自然条件や船の性能により航行距離は大きく異なり、あまりにも不確かなものとなるだろう。
◆そして水行である。例えば、奴国から筑後に行くのに那珂川の川船を使い、船を降りて筑後側の〓側でまた川船に乗り換える必然性は乏しい。不安定な川船に乗船するより、歩く方が確実である。この水行は20日や10日を要することから、海を行くことを示していると理解することが妥当である。すなわち九州島の外に出ることを意味する。
◆そこからは陸路と書かれている。東南に陸行して500里(216km)で伊都国に到る。実際には北東24km(0.11)である。1日の道程であろう。伊都国は「郡使往来する時、常に駐まるところなり」。伊都国には中国館があったのであろう。魏使の倭国行きの長旅も、宿舎に入って一段落である。「常に駐まる」については、いつの機会においても長期間にわたって滞在する倭国内における魏使の拠点だったのだろう。
◆伊都国から東南に500里(216km)で奴国に到る。実際には北東〓km( )である。1日の道程であろう。そして東へ不弥国。
◆これらの距離は著しく実際と乖離する。倭国側で何里といった距離が計測されていたわけではないだろうから、これは魏側の数字であろうが、魏使が復命書に経験からだいたいの距離を記したにしては事実と大きく異なる。
◆1日で末盧国から伊都国、1日で伊都国から奴国へ行ける。不弥国もしかり。一方、投馬国までは20日、邪馬台国までは40日の行程である。末盧国・伊都国、伊都国・奴国の実際の1日行程に対し、20倍あるいは40倍の距離観である。
◆そして、水行・陸行の日数は魏使の聞き取りとみられる。倭国内における各地域間の交易等による人の行き来のなかで、経験的に導かれていた当時の所要日数を書き留めたものと思われる。〈魏志倭人伝〉の冒頭にあり、投馬国や邪馬台国へ到達するための距離観を、当時の倭船を使った所要日数により示したものといえる。比較的近い距離の陸上移動ではなく、水行20日や10日を里数に置き換えようとしても、自然条件や船の性能により航行距離は大きく異なり、あまりにも不確かなものとなるだろう。
◆そして水行である。例えば、奴国から筑後に行くのに那珂川の川船を使い、船を降りて筑後側の〓側でまた川船に乗り換える必然性は乏しい。不安定な川船に乗船するより、歩く方が確実である。この水行は20日や10日を要することから、海を行くことを示していると理解することが妥当である。すなわち九州島の外に出ることを意味する。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。