人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2025年8月18日(月)疲れる
◆この日が荷物の移動日。次々に荷物が届き、3部屋分、置き場所を指示する。一方、教員室では移動してきた本棚の設置、1209の収蔵庫でも移設としたラックの組み立て作業が進む(これができないと明日、モノを配置できないので)。
◆この日の最後の荷物が届き、本日の作業が終わりましたと言ってきたのは17:39。が、自分のデスクトップPCが届かない。これらギリギリまで使い、最後に移動に向けて配線を抜くなどの処理をしたPCなどに、シールを貼り忘れていたようである(アホです)。明日(19日)の朝に電話することにする。
◆写真は朝、研究室から北方を見たもの。天気よく、茨木・高槻背後の丹波山地?を望む。ポンポン山ってどれなんだろう。
2025/8/17そのあと
◆高野山奥の院の駐車場脇の喫茶店で、冷たい飲み物をいただく。革
張りの椅子がとてもいい。そのあと、精進料理の店で話になった、法量のことなる椀を重ねるセットがほしいということになり(名前があった)、黒江に行くことにする。1630頃黒江に着くが、盆休みだった。
◆で義理の弟をホテルに送っていく。で、同じ東口の、めはり屋に行こうということになる。海南方面から和歌山駅に北上していると、
井出商店という人気の和歌山ラーメン屋がある。この交差点をいつ通過しても、店の外にならぶ順番待ちの列が長く続いている。それが、列がない!。暖簾は下がっていつので店はやっている。これはチャンスとラーメン屋に切り替える。うまかった。好みのラーメンですね。
◆この土日は、引っ越しもあり職場に行くことなく、ゆっくりしました。
◆で義理の弟をホテルに送っていく。で、同じ東口の、めはり屋に行こうということになる。海南方面から和歌山駅に北上していると、
◆この土日は、引っ越しもあり職場に行くことなく、ゆっくりしました。
2025年8月17日(日)お墓参り
◆義弟が東京から2泊3日で来ており、カミサンは同窓会に出席した後、
友人宅に泊まり。この日は、義弟の泊っている和歌山駅東口のルートインに930に行く。そこで集合。1時間ちょっとで行ってしまいますね。
◆海南まわりで、まず長谷宮泉福寺さんのお墓参り。草があまり生えていないは暑さによるのか。なおこの墓は一族の墓を移したものなので、カミサンのいとこたちもお参りすることがある。そのあと、高野山に行き、精進料理。あいかわらず欧米人の観光客も多い。そのあと普賢院に。真言宗では、大きな骨壺と小さな骨壺に分け、大きな骨壺の骨はお墓に、小さな骨壺は高野山に納める。
◆予約していなかったが、お盆の読経をしていただき、七回忌の話などをする。それから、いただいた卒塔婆を、奥の院に納めに行く。谷川が境界で、その手前に手水鉢?があり、ずらりと仏さんがならび、卒塔婆を納め、水をかけていく。
◆普賢院、そして奥の院で、河内鋳物師の灯炉というのを考えていた。四天王寺でもそうだが、釣り灯篭を購入?し、名前を書いてもらい、屋根裏に吊ってある。河内鋳物師は、朝廷の「灯炉」供御人となり鉄「灯炉」を納めることになっているわけだが、その「灯炉」とは、この手の釣り灯篭なのか、と。そうだとしても、いまは電気の明かりだが、かつては蝋燭、いや油か?。今のように屋根裏にずらっとならぶ姿ではあるまい。手の届く高さであったはずだ。朝廷の建物のまわりに、屋根裏から釣り下げのための長い鈎が下がっており、そこに鉄「灯炉」が下げられ、夜も明かりがともっている、というイメージ。
◆「灯炉」というと、いまは石灯篭を思い浮かべてしまう。その火を入れる部分が鉄だったというものではないのだろう。要するに平安時代・鎌倉時代と、河内鋳物師が納めた鉄「灯炉」とは、実際どんなものなのか、ということ。こういうの、誰に聞けば教えてもらえるのか。
◆海南まわりで、まず長谷宮泉福寺さんのお墓参り。草があまり生えていないは暑さによるのか。なおこの墓は一族の墓を移したものなので、カミサンのいとこたちもお参りすることがある。そのあと、高野山に行き、精進料理。あいかわらず欧米人の観光客も多い。そのあと普賢院に。真言宗では、大きな骨壺と小さな骨壺に分け、大きな骨壺の骨はお墓に、小さな骨壺は高野山に納める。
◆予約していなかったが、お盆の読経をしていただき、七回忌の話などをする。それから、いただいた卒塔婆を、奥の院に納めに行く。谷川が境界で、その手前に手水鉢?があり、ずらりと仏さんがならび、卒塔婆を納め、水をかけていく。
◆普賢院、そして奥の院で、河内鋳物師の灯炉というのを考えていた。四天王寺でもそうだが、釣り灯篭を購入?し、名前を書いてもらい、屋根裏に吊ってある。河内鋳物師は、朝廷の「灯炉」供御人となり鉄「灯炉」を納めることになっているわけだが、その「灯炉」とは、この手の釣り灯篭なのか、と。そうだとしても、いまは電気の明かりだが、かつては蝋燭、いや油か?。今のように屋根裏にずらっとならぶ姿ではあるまい。手の届く高さであったはずだ。朝廷の建物のまわりに、屋根裏から釣り下げのための長い鈎が下がっており、そこに鉄「灯炉」が下げられ、夜も明かりがともっている、というイメージ。
◆「灯炉」というと、いまは石灯篭を思い浮かべてしまう。その火を入れる部分が鉄だったというものではないのだろう。要するに平安時代・鎌倉時代と、河内鋳物師が納めた鉄「灯炉」とは、実際どんなものなのか、ということ。こういうの、誰に聞けば教えてもらえるのか。
2025年8月18日(月)森之宮に初出勤
◆森之宮の珈琲館。喫煙できるスペースはなくなり、喫煙室が脇にしつらえられていた。8:55に出撃。やはり通用口まで17分でした。いま9:26。部屋に入り、10時まで待機です。途中、教員室をのぞくが、部屋の幅が狭いので、両側に本棚を設置している方が少数かな。多くは片側のよう。わたしは本棚を新規購入せず、杉本から移すことになっており、入り口を入って左サイドに5本、右奥に3本を設置する予定。これ133室の本棚の継承である。
延羽の湯
◆カミサンを、同窓会の会場である和歌山城脇のダイワロイネットまで送り(13:30)、そこから国分に戻るも、途中、久しぶりに延羽の湯に立ち寄る。人が多すぎ。
◆入った時間は覚えてないが、14:30として18:00まで。ひたすらサウナで、ふくらんだ体から水を絞り出した。風呂に入る前の体重が63.5kgで、出てきたときは62.5kgになっていた。途中、水分補給はしていた。水風呂と交互で、いわゆる温冷浴。血管も膨らみ収縮し、血行はよくなる。年をとってからは危険だが、いまのところ大丈夫そうである。出てきてから、塩分補給もしておいた。入る前、14時開始の巨人阪神をラジオで聞いており、森下が2ランHRを打ったところまでは聞いていたが、風呂から出てきたときはすっかり終了していた。
◆銭湯はすたれるも、日本人の風呂文化はスーパー銭湯に舞台を変えて続いていますね。老いも若きも、子供も、みんな好きやね。
◆入った時間は覚えてないが、14:30として18:00まで。ひたすらサウナで、ふくらんだ体から水を絞り出した。風呂に入る前の体重が63.5kgで、出てきたときは62.5kgになっていた。途中、水分補給はしていた。水風呂と交互で、いわゆる温冷浴。血管も膨らみ収縮し、血行はよくなる。年をとってからは危険だが、いまのところ大丈夫そうである。出てきてから、塩分補給もしておいた。入る前、14時開始の巨人阪神をラジオで聞いており、森下が2ランHRを打ったところまでは聞いていたが、風呂から出てきたときはすっかり終了していた。
◆銭湯はすたれるも、日本人の風呂文化はスーパー銭湯に舞台を変えて続いていますね。老いも若きも、子供も、みんな好きやね。
久保惣と金熊寺
◆弥生博が9:30、久保惣が10:00開館だったので、こういう順序
になった。久保惣には、旧館時代に行ったように思うが確かでない。確か、同笵鏡№2の三角縁があったはずだが、資料調査をお願いしたことはない。常設にはならんではおらず、学部生としては資料を見せてくれというところまでいかなかった、と思う。いまきれいな新館というのができている。
◆久保惣に立ち寄ったのは、これも『和泉市史』松尾谷編で、久保惚太郎が、この地区のおいて本格的な織物工場を作り大規模操業をしたということを学んだからである。その関心で立ち寄ったもの。説明によると3代惚太郎ほかが収集したコレクションであるようだ。で、こうした美術品等を地域のために、ということで和泉市に寄贈したのだとか。
◆それと、いまやっている企画展が面白そうだったので(名所図会などの展示)。で、思いのほか、来館者が多くビックリした。今日はイベントがあるということもあるようだ。
◆そのあと金熊寺に行く。なんで行ったかというのはやめておく。名前だけは知っており赴いたわけだが、想像してたのと違っていた。
◆久保惣に立ち寄ったのは、これも『和泉市史』松尾谷編で、久保惚太郎が、この地区のおいて本格的な織物工場を作り大規模操業をしたということを学んだからである。その関心で立ち寄ったもの。説明によると3代惚太郎ほかが収集したコレクションであるようだ。で、こうした美術品等を地域のために、ということで和泉市に寄贈したのだとか。
◆それと、いまやっている企画展が面白そうだったので(名所図会などの展示)。で、思いのほか、来館者が多くビックリした。今日はイベントがあるということもあるようだ。
◆そのあと金熊寺に行く。なんで行ったかというのはやめておく。名前だけは知っており赴いたわけだが、想像してたのと違っていた。
弥生博の大園展
◆大園展を見に行かなければ、と思っていた。9月何日かまでだが、気づ
いたら終わっていたということになりがちなので。とにかく、高石・泉大津・和泉市にまたがり、さらには府教委の調査もある。広大なので、道路で区分された地区名がつけられているが、そういうのも頭に入りにくい。多くの調査がなされているが、府+3市の調査があり、それらの情報をすべて集約することは、なかなか困難である。それをこうした展示で、時系列的に整理してくれているのは本当にありがたいことである。
◆衝立。いったいぜんたい何個体あるのだろうか。で、なんでこんなに生産地に残っているのか。すべて焼成に失敗した?。最後は元正の和泉宮まで触れてくれている。来館者が見に来てくれているのもウレシイ。
◆帰ろうとすると館長とばったり出くわし、学芸員室に寄り、しばらく歓談。今日は午後に講演会があり、ほぼ職員さんはみな出勤している様子でした。
◆衝立。いったいぜんたい何個体あるのだろうか。で、なんでこんなに生産地に残っているのか。すべて焼成に失敗した?。最後は元正の和泉宮まで触れてくれている。来館者が見に来てくれているのもウレシイ。
◆帰ろうとすると館長とばったり出くわし、学芸員室に寄り、しばらく歓談。今日は午後に講演会があり、ほぼ職員さんはみな出勤している様子でした。
2025年8月16日(土)松尾寺
◆今日は、科研の申請書を書こうかと思ったが、カミサンが午後から
和歌山で同窓会というので、和泉方面へでかけることにする。まずは松尾寺。
◆『和泉市史』最終巻で、T田先生の松尾寺(谷?)編の原稿を読み、いろいろ勉強させてもらった。施福寺にはすいぶん前に上ったが、松尾寺にはまだ行ったことがなかった。8時に出て、9時くらいには着いたのだろう。松尾谷の北側に細い支谷があり、その谷筋北側に松尾寺はある。寺の事務所をのぞくと、表札が、松尾寺住職と宝瓶院住職の2名の名前があり、松尾寺住職の表札の方が大きい。松尾寺は信長に焼かれ、秀頼が再興を援助している。天台宗になったのは、東叡山寛永寺の末寺になってからだったかな。それと、松尾寺には住職はおらず、子院が運営していたが、そのなかの宝瓶院が大きな力をもっていた、ということだったと思う。
◆『和泉市史』最終巻で、T田先生の松尾寺(谷?)編の原稿を読み、いろいろ勉強させてもらった。施福寺にはすいぶん前に上ったが、松尾寺にはまだ行ったことがなかった。8時に出て、9時くらいには着いたのだろう。松尾谷の北側に細い支谷があり、その谷筋北側に松尾寺はある。寺の事務所をのぞくと、表札が、松尾寺住職と宝瓶院住職の2名の名前があり、松尾寺住職の表札の方が大きい。松尾寺は信長に焼かれ、秀頼が再興を援助している。天台宗になったのは、東叡山寛永寺の末寺になってからだったかな。それと、松尾寺には住職はおらず、子院が運営していたが、そのなかの宝瓶院が大きな力をもっていた、ということだったと思う。
2025年8月15日(金)梱包2日目
◆15日の梱包は、ほぼ立会いもなく、部屋で控えている状態であった。この間、期末レポートの採点をしていた。で、いま15:48、「本日の作業は終了」と日通さんが報告に来た。来週の月曜日(18日)は、M1の1人に杉本にいて荷物出しに立ち会ってもらう。こっちが森之宮に行く予定。業者さんからは、10時には待機しておいてほしいとのこと。また、搬入は夕方までかかると。
◆業者による図書その他の開梱は19日(火)なので、18日は、こっちで詰めた書類など約50箱をひたすら開けて配列していこう。で、院生4人を動員する19日は、考古学実習室と博物館実習室+収蔵庫の整頓に集中できるようにしたい。
◆業者による図書その他の開梱は19日(火)なので、18日は、こっちで詰めた書類など約50箱をひたすら開けて配列していこう。で、院生4人を動員する19日は、考古学実習室と博物館実習室+収蔵庫の整頓に集中できるようにしたい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。