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1989年3月権現山51測量図トレース

◆A3縦の大きなファイルが3冊ある。うち1冊には原図類が入れてあるので、これは保存。残る2冊を見ると、いくらか資料が入っているが、保存の必要のないものが多く、残すものは最初の1冊に綴じ込み、ファイル2冊は捨てることにした。
◆このファイル整理でできたもの。まず権現山51号墳の、トレぺでなく方眼紙の裏にトレースしたもの。1989年3月の発掘時、われわれはスタートは測量チーム。発掘はそれと並行して着手。測量が終わった段階で、宿舎でざっとトレースしたものなんだろう。これは不要なので捨てる。

正道官衙シンポ

◆案内をいただきましたので紹介します。

2024年11月6日 信太貝吹山

◆玉3のあと、午後は和泉市に向かう。
◆信太貝吹山も測量開始時は局地座標。2000年00年代はじめに業者が測量しており、その時の図と座標がまずは提供された。が、任意の局地座標。周囲の住宅地など広く図化されており、われわれの墳丘測量は、この時の座標でやることにした。道路沿いの鋲の局地座標データを使って、墳丘再測量用の基準点を振り込んだ。が、古い鋲ってやつが、ほんとに2000年00年代はじめの業者測量の時のものか不安が残る。おまけに、その後、貝吹山古墳を市が買い取って、その整備のための調査をやり、その施工図面が作成されており(座標なし)、その図の高さを見るとあわない・・・。われわれが墳丘測量に使った2000年00年代はじめの図における道路の高さと、けっこうなずれがある。困ったものだ。やはり局地座標は限りなくメンドウがついてまわりますね。
◆今年の4月にやった相生市の塚森古墳もそう。着手前から近くの基準点をさんざん聞いたのだが、結局は「ない」ということで局地座標となる。が、終わってから相生市の設置した基準点の成果簿が出てきた。いま、国土調査などで、市のしかるべき部局に問い合わせれば、道路沿いの基準点は出てくる。ということを最初にもっと強く言うべきでした(なので、これも再出撃が必要)。
◆この日の信太貝吹山の国土座標測量は、わりあいスムーズに終わる。和泉市設置の2点の基準点をもとに、再測量の際に墳丘に振り込む基準点とした、2000年00年代はじめの測量時のもの(と思われる)2点について、国土座標を測り込んだ。さあ、高さはどうしようか。

2024年11月6日 玉3の国土座標

◆玉手山3号墳のある柏原市老人福祉施設の中庭に保存した古墳があり、玉3の測量杭のデータを求められた。が、2001年の測量の時は、研究費がなく局地座標で測量した。その後、玉1の報告書を作る際、国土座標の基準点測量を業者にやってもらった。玉1は柏原市の測量図があるので改めて測量はせず再トレースしたのだが、これも局地座標。そこで基準点測量をしてもらい、それをもとに、旧図にあるコンクリートなどの不動点を、国土座標に落とし、1号墳と2号墳の測量図を位置付けた。
◆業者にやってもらった基準点設置は、玉1と玉3の福祉施設内に各1点。それで1号墳の測量をしたわけだが、今回の依頼に対しデータを見直したが、玉3の図を国土座標に落とし込む測量をやったかどうかが不確か。それ以前、測量から間もなく、『玉手山古墳群の研究』に測量概報を掲載してもらった際に、国土座標に位置付けたと書いており、図に国土座標を切っている。が、これが何によるかがさっぱりわからず、また座標値を見ると間違っているとしか思えない・・・。
◆で、話を戻して業者による基準点設置後だが、玉1に続き、玉3についても国土座標への換算測量をやったと思い込んでいたが、どうもそうではないらしい。メモが出てきて、国土座標らしき数字も見えるが、これも何かわからない。
◆これでは依頼には応えられない。ちゃんとやった方がいい。いまGPS測量で座標が出せる10万円くらいのマシンがあるらしい(これ欲しい!)。ほんとは業者にやってもらうか、こういうマシンで、測量杭に国土座標を落とすのがよいのだが、すぐは無理。なので出撃することとした。さいわい水曜日の2限の授業がなくなったので、研究生K君と現地に向かう。
◆玉1基準点をバックサイト。玉3のある施設内に設置した基準点に本体を据える。玉3墳頂部の杭にそこから飛ばせればいいのだが、発掘から長く経過し、樹木がうっそうと茂り、杭はわからないし、そもそも見えない。なんとか墳裾あたりと後円部斜面の2本の測量杭を見つけ、それを国土座標で測り込んだ。近い2点なので、それだけで回転させるのは怪しいが、いまは仕方なし。なんとかそれをやり、柏原市の調査区も測り込んで、昼に撤収した。
【追記】右図。だいたいよさそうだが、2号と3号図の境界の、やすらぎ入口付近がややずれる。2号墳の測量が正しいだろう。もうちょっとやる必要がありそうだ。

杏雨書屋

◆入館無料、図録も無料。ただし写真は撮影不可。
◆図録が無料なのはうれしいですね。武田薬品という母体があり、社長らが、関東大震災で多くの資料が失われたあと、本草にかかわるものなどを収集して保存を図るという目的でコレクションされ、それが財団法人に移され、公開施設を設けたもの。
◆小西さんの資料館にも行きたいのだが、ここはいつ開けるのか決まっていないようで(要予約)、まだ行ったことがない。道修町は、大阪の文化力が感じられるところです。

2024年11月1日 造幣局博物館と杏雨書屋

◆午後からは卒論発表会。この日の午前に、道修町の竹田薬品のビルにある杏雨書屋の展示を見に行くことにしていた。新聞で、江戸期の薬品会・物産会の展示と、古地図の企画展の宣伝を見たので。平日でないと開いていない。10時からということなので、それまでどうするかと考え、造幣局博物館に、急遽、行くことにした。
◆天満橋から歩いて造幣局に。北の正門から入る必要があり、川沿いを北上する。正門で入構記名し、博物館へ。3階と2階に展示室がある。3階が貨幣の歴史。2階は造幣局でのコイン作りの展示。動画はダメだが写真はOKというのもありがたい。楽しく勉強しました。確か後輩が学芸員にいたと思う。名刺をもらった記憶がある。
◆そのあと、時間の節約のため、タクシーを拾い、道修町へ。

2024年10月28日(月) 鈴鹿

◆富士山1号墳の調査指導で鈴鹿に出かける。前日の日曜日、気分よく東海道を歩いていたのだが、翌日、翌日、鈴鹿出張のあと、夕刻に大阪歴史学会の委員会があることを思い出す。編集委員会の報告資料と、もうひとつこの日に出さないといけない原案を作成しないといけない。
◆で28日(月曜日)、カミサンは1限があり6時前の電車に乗るので、一緒に出る。職場に6:55に到着。そこから編集委員会の資料を作り、送信。もうひとつの資料作成に着手。鶴橋11:30くらいの特急に乗り、白子へ。近鉄特急内で資料作成を続ける。
◆現地。くびれ部の葺石がよく残っていた。後円部にもう1本トレンチ。出土遺物を見て、来年度どうするかの話をして、1630白子発で戻る。
◆1810に河内国分に着き、もうひとつの資料を委員会のメーリングリストに開始直前に送信し、なんとか委員会を切り抜けた。目の前のことをこなすのに精一杯ですね。

2024年10月26日(土) 考古研同窓会

◆この日、大学のサークル考古研で1学年上だったZさんがイタリアから帰国するので、宴が大阪でセットされていた。が、帰国はしたものの、急遽、病院で手術を受けることになったとの連絡が入り、企画はなくなる。が、同期の者で集まることになり、男2人と女3人が昼に京都駅集合となる。
◆駅ビルのなかのがんこ寿司で3時間くらいしゃべり、そのあとプロントに移動してさらに。この日、歯医者を入れていたので、1730に離脱した。あの勢いだと、晩御飯に突入したのではないかと思うが、どうなったのだろう。
◆この日はめいいっぱい仕事をして、翌日は東海道と考えていたが、土日とも仕事せず。まあ、それもよし。

2024年10月27日 東海道を歩く

◆選挙に行く。国分出張所には、文化財保護課の2人が座っていた。高井田駅に向かう。8:35発、王寺で乗り換え、奈良駅着。9:20発で加茂駅、柘植行きに乗り換え、加茂駅発は9:40。柘植駅に着き、草津線に乗り換える。柘植発11:01で甲西駅まで行き、そこから東海道を通り、草津をめざす。
◆石部宿を出ると野洲川に接近。少し道を間違える。草津線と並走する西側の道を行くべきでした。栗東市に入り、これがけっこうあり、草津市に入ると、ゴールは近い。草津では、南西-北東に旧道がのび、南から来た東海道はこれに合流する。T字路になっているわけだ。直線道は、この交差点を境に、西が東海道で、東が中山道。つまり東海道は西からここまで来て、T字路を直角に折れて鈴鹿峠に向かう。
◆帰りは、伊賀鉄道で帰ることにする。草津発16:24―1705柘植、柘植発17:12―17:28伊賀上野。伊賀鉄道に乗り換え、上野市着。上野市発が17:42―18:14伊賀神戸着。急行で河内国分帰着は1920でした。

ガイドプラスセミナーで配る予定だった資料の1枚

◆持っていくのを忘れたもの。今回、江戸時代の大阪城を伝えるというのが眼目で、そのために少し力を入れた図のみ出しておこう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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