人を幸せにする人になろう

2025年3月11日 西都原

◆発掘調査をしている156号墳、整備事業を継続中の265号墳を見せてもらい、午後は、館内で出土遺物を見て、来年度の協議など。156号墳では、大きい基底石を据えた葺石が立派である。須恵器も出ている。大正期に原田淑人が掘ったもの。その時の鉄鏃は伝わり考古博物館にあるが、ほかのものは不明だそうだ。大正期の既掘坑に対応して墓坑残存部が検出されている。
◆256号墳は、土を入れ、芝を貼り、そこに土を被せる最終作業が進行中であった。来年度で完結の予定。
◆昨夜、3.11にかかわる、福島県郡山市出身の西田敏行の番組を見ていて、夜更かし。

2025年3月10日 宮崎へ

◆粗大ごみを捨てられるのが3月17日までなので、本日、PCをやっつけようと、大学院生1人が来てくれることになる。香芝の調査に行くのが、雨で流れ、この日の朝さっと行く。
◆国分に戻り、電車で職場へ。歴史学教室のPC2台をまず処分。そのあと博物館実習室の4台をデータをSSDに移した後、処分。ただし、廃棄場所のカギを表現文化がガメていて捨てられず。後日にあんる。スッキリせん。そのあと、新規購入の4台を開梱し、配置するところまでやる。
◆今日は西都原の委員会に宮崎に飛ぶ日で、間違って帰り11日の宮崎発17時を、この日の伊丹発と間違い(頭がどうかしている)、15時ごろに職場を出て伊丹空港へ。途中で間違いに気づくが、まあ空港内で仕事でもしようかな、と。とはいえリムジンバス内でも爆睡。
◆出張中にまとまった仕事をするのは無理。ひとつだけ、査読しないといけないものを鞄に入れて出た。しばらく前から読んでいるのだが、なかなかの難物で、ちっともわからん。やらんといかんのだが、やる気がおこらない。空港で読んでいたが、メモする手もあまり動かず。松山のブログをひととおり書いたり・・・。
◆カミサンは木曜日までの東京出張に出る。名古屋?の中部大学経由だそうな。

2025年3月8日科研研究会@立命

◆朝、とにかく資料を作成。文字はもう無理なので、作っていた図を貼りこむ仕上げをする。コンビニに行き15人分プリント。立命館大学に向かうも10時には間に合いそうにない。少し遅れると連絡。
◆大阪駅から阪急梅田駅、西院で下りてタクシー。10分くらいは遅れたか。1030の自分の発表。K君にぜんぜんわからなかったと言われショック。徒労感・・・。
◆懇親会に出て、2125京都駅発の橿原神宮前行き特急で帰る。息子夫婦が帰っているところに合流し、コンビニで軽くビールと乾きものを買って話をしていると2時くらいになる。
◆3月9日は母の3回忌でした。加古川に行く。疲れている。

2025年3月3日からの週

◆3月3日は、ガイドプラス講座の面接。加えて科目等履修の博物館科目1人の面接も。この方、プロでっせ。前に140周年記念展示室の入札の時にプレゼンを聞いた人でした。
◆3月4日は、5日締め切りの査読を頼まれ、3時間余りをかけてメモを作り返す。3日から山野家文書の整理が始まっているが、顔も出せない。11時からの図書館委員会に出る。
◆3月5日は、大学史の仕事で地理学教室を訪れ、古い時期の集落遺跡の調査カードや、測量や写真測量等の機器を見る。何点か大学史で引き取ることにした。
◆3月6日は臨時教授会。930からの課程博審査、入試の合格判定等で、夕方まで。
◆3月7日は戦略的研究の月例研究会。前日夜、3時くらいまで資料を作っていた。10時から12時まで、うまくまわせた。この日は大仙古墳の立ち入りだったが、研究会が先に決まっており、1230拝所前集合は無理なのであきらめる。研究会の終了後、8日の科研研究会の報告資料の仕上げにかかるも完成せず。帰ってから、ちょっとPCを開くも、前日、夜遅くまでやっていたの、もたずgoo。

最後は阿波一宮

◆霊山寺に向かう途中、一宮があるというので、寺のあとに立ち寄る。神社の名前が出てこないぞ。2文字でなく4文字くらいあったような記憶くらいしかない。年寄りは、10回は口に出す必要がありますね(それでも翌日には忘れているだろうが)。まあ、立派な神社ですわ。
◆その近くに、第1次大戦後のドイツ兵捕虜収容所があり、時間があれば行きたいところながら、帰途に就く。最後、京都のMさんをどこで下したのだったか。そうJRの茨木駅だ。18時くらいだったかな。帰宅は19時ごろだったのだろう。これにて珍道中は終わりました。

四国88か所第1番

◆四国八十八箇所の世界遺産の話に出た。なっておかしくないですね。すたれたものでなく現役で、いまなお生きた巡礼道である。で、第1番の札所である鳴門市霊山寺に行くことにする。
◆お参りした後、駐車場横の巡礼に必要なものを売っている売店をのぞく。「同行二人」の白装束が欲しいという声もあったが、買ってはいない。そこにあったマネキンです。

矢野七三郎

◆藤堂高虎の銅像よりも前に、城内には矢野さんという方の銅像が建てられていた。今治の綿業、タオル隆盛の礎を築いた人らしい。35歳にして襲われて命を落としたのだ そうである。写真左は道後温泉本館界隈のお土産物屋だが、今治タオルに特化した大きな店舗があり、めちゃくちゃ豊富な品ぞろえで、見ていて楽しい。写真は店舗の壁を利用したディスプレイ。
◆泉州のタオルもすごいぞ。全国的知名度は今治の方が勝っているのだろうが。

2025年3月2日 今治城ほか

◆翌日、台湾からのUさんは、午後の飛行機なので、朝、松山駅に向かう。◆残る3名は、まず石手寺。ちょっと雨模様。巨大な藁草履があり、1円玉が無数に差し込まれている。「ぼけ封じ」のお守りを購入。焼き餅を食べる。そこから高輪半島の山中を抜けて今治城へ。
◆今治城は昨年秋に教室旅行で行くはずだったが、欠席することになったもの。初めてです。藤堂高虎もいいのだが、松平の話を。とはいえ、天守各層の展示をひと通りざっと見たが、もう忘れてもいる。江戸時代の殿様である松平にかかわるパネルがどれだけあったかな・・・。自然史の展示も天守のなかにある。そこを出て、3つの櫓をまわる、虎口部の多門櫓が真新しい。もともとの姿に復元したものそのものを見せる、のもよい。がガランとしていて空間がもったいない。十分展示できていない今治市内の文化財や史資料について、天守と役割分担させながら、展示空間とすることも考えられてよい。とはいえ、まあ、金がかかりますわな。以下、今治城の復元について、ウィキ。

昭和55年(1980年)に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられた。昭和60年(1985年)に東隅櫓が御金櫓として外観復元された。平成2年(1990年)に二の丸西隅に山里櫓が外観復元された。平成19年(2007年)9月、可能な限り江戸時代の史実に基づき、鉄御門が石垣や多聞櫓5棟ともに外観復元された。

2025年3月1日 愛媛大M

◆松山城には行けませんでした。内子から愛媛大学ミュージアムに行き、展示を見せてもらう。写真は昆虫標本の集密倉庫。わが社には府立大に昆虫標本が数多くあるのだが・・・。
◆そのあと、ホテルに戻り、路面電車で繁華街へ繰り出しました。「真と響未(しんとこひつじ」という飲み屋でした。キリコグラスでビールがやってきました。

本芳我家

◆内子の町並みの特色を忘れておりました。土蔵作りなのだが、壁の色が白ではなくクリーム色なのが特色です。それと本芳我家の画像を挙げますが、大店は、棟の両端に立派なヒレを掲げる。しゃちほこ?なんでしょうか。で、大部の尾側そして尾を長くのばし反り返らせている。
◆そして本芳我家の蔵が奥に見えますが、これが3階建て。土蔵はまあ2階までがほとんどのなか、豊かな家は3階建てになっている。同じ3階建てのものを、富田林で見たことがある。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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