人を幸せにする人になろう

大阪の狭山藩

◆狭山藩が北条氏とは知らなかった。無知ですね~。以下、ウィキ。

 小田原城開城の際、隠居の氏政および氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり前田利家に預けられた。当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎は早々に解除され、大名待遇で大阪城下に屋敷を与えられ、また賄領1万石を給され、徐々に格式を回復しつつある最中の翌天正19年(1591年)、氏直は疱瘡にかかり、数え30の若さで死去した。氏直には男子がいなかったため、北条氏の家督は叔父の氏規に継承され、河内国丹南河内二郡において6,980石余を給う。その子氏盛も1591年に下野国内で4000石を拝領しており、1600年(慶長5年)の氏規の死後に氏規の遺領も次いで都合1万1000石の大名となった。
 1616年(元和2年)に狭山陣屋を本拠とするようになり、河内狭山藩が生まれた。以降、後北条氏は12代にわたって狭山に在封し、明治維新を迎えた。この間、領地はたびたび変動したが、5代北条氏朝以降は近江、河内の両国内にまとまった。 だが、11代の北条氏燕(先代の養父は先々代の娘婿で氏燕は先々代の甥)の代で北条氏綱以来の北条家の血は絶え、次代以降は他家の人間が北条家を継承していく。

2023年8月10日、久津川ファイル整理

◆今日は来客があり、朝からその準備をしていた。午後、いろいろと話をする。そのあと、ごちゃ ごちゃしている久津川調査関係のファイルを整理する。近年の分は、わりと1次処理的には整理をしているが、それでもすっきりさせるには、なかなか時間がかかった。結局は2022年度分と2021年度分で22時近くまでかかる。これらを共有しないといけませんね。
◆阪神タイガースがまた勝った。

2023年8月9日、小田原

◆どうしても御殿場に行きたいわけではないので、小田原に向かう。そしてお城へ。前に石垣山一夜城と惣構の堀を、教室旅行で見に行ったことがあるが、近世の小田原城そのものは、ほぼ記憶がない。天守閣を出たところで、雨になり、城内の飲食店に逃げ込んで昼飯を食べる。出てみると雨が上がっていたので、駅に向かい、小田急の特急で相模大野に引き返す。バッティングセンターへ行く。何をやっているんでしょうね。17時に相模原を出て、大阪に向かう。
◆台風6号が九州の西を北上し、熊本などでまたまた大雨となっているという。さらに、台風7号が 発生し、関東に向かいそうとのこと。阪神タイガースは、一時期、同率首位まで迫られたが、再び負けない状態になっている。今年は優勝ですね。で、天変地異が・・・。

2023年8月9日、松田

◆翌日、確かなプランがないまま、朝食を取り、小田急で西へ向かう。御殿場に行こうかと。新松 田までいき、JR松田駅に行くが、10:33発は山北駅まで2駅先に行くだけ。御殿場に行くには、11:07発の沼津行きまでない。そこで駅前界隈を、ゆるゆると歩く。
◆で、東から線路の北側に出て、西に折り返し、再び線路を横切るために西側の踏切に到達。踏切が閉まり待っていた。が、なかなか電車が現れず、ついに通過することなく踏切が開く。あれれ、どうなっとるんだ。あとから考えると、10時33分発が通過する予定だったものの、出発できなかったのだった。踏切を南に出て、再び東に向かい、駅前に到達。JRの駅に行くと、10:33が出ておらず表示がそのまま。線路への倒竹があって、両方向ともストップし、いま係員が向かっているとのこと。写真はその様子。

2023年8月8日、神奈川へ

◆この日、15時から、森ノ宮移転に際しての、学部生室・院生室、実習室等の什器に関するヒアリングがあった。係長と、小1時間ほど、各部屋につき、昨年までのプランにもとづき、新規購入に切り替えるものについての打ち合わせを行った。
◆終了後、神奈川へ向かう。17時頃の新幹線だったか。わりと早く、職場からオダサガまで4時間くらいで到達した。車中で、本日の協議にもとづいて、図を作成し、什器等のエクセルファイルを更新し、できあがったところで、日本史に報告、また係長に送信しておいた。

維新とはなにか

◆やくみつる、さすがですね。

最後は柏原市立歴史資料館

◆近つを15時ごろに出て、柏原市の歴史資料館に向かう。安福寺展である。玉手山7号墳の調査にあた り、ご住職のOさんに大変お世話になりました。江戸期に安福寺の再興を果たしたカオク上人、尾張徳川光友の帰依など、当時、いろいろと学びました。所領宛行などの重要書類が、三つ葉葵の専用保存箱に入れられて大切に保管されてきたため、とても文書がよい状態で残っている。そうした安福寺に伝わる史資料が、初めてまとまった形で出品された展示である。
◆入っていくと企画展示室前に、この展示を担当したOさんがおり、Y館長さんやK君も出てこられ(みなさん土曜出勤なんだそうです)、3人付で説明をいただくという、とても贅沢な見学となりました。
◆国分に戻り、あじもりに直行し、完全休養の1日が終わりました。

近つへ

◆弥生博でK君に会い、午後は近つに行くという。こちらは三重県美杉村に行こ うかな、くらいのバクとしたプランだったので、近つに行くことにした。
◆前に河内国分にあった蕎麦屋さんが、河南町に移転しており、移転案内のあった直後に訪ねてみたが、まだ店はできていなかった。が、調べてみると営業中とのことで、そこに行き、お昼を取り、近つへ。
◆展示を見ていると、学芸員のI君と会う。この日14時からI君による企画展の解説が予定されており、ちょうど時間がきたので参加する。シシヨ塚の資料とか、難波宮の漆運搬土器とか、大園遺跡の埴輪とか、5世紀後葉の須恵器とか、確かに「ええもん」見せてもらいました。

2023年8月〓日、博物館資料館3か所

◆まず弥生。これは見に行かねばと思っていたもの。1982年の近畿道の調査のビデオ35分モノ、これ見ごたえあり ます。DVDにして売ればいいのに。
◆さて、弥生後期のところのパネルを見る。前半部では弥生時代後期の変化を概観し、後半はそこから考えられる弥生後期社会の理解について書いている。が、前と後ろが、すんなりとつながるようには思えない。学問はむろん論拠があってのことで、歴史学では史資料の制約を受ける。見つかっていないもので議論はできない。だが、推測してはいけないというものではない。前半部に書かれている後期社会の変化を押さえることで、そこからどういう社会に変容していたのかを類推するのは必要なことだ。「政治性」とまで言ってもいる。しかし、特定の個人に権力が集中する様子はないと・・・。結局は王墓が確かめられない、ということですよね。でも、中期末の王族墓ですら、加美や田能くらいしかわかっていないのでは。近畿地方にはたくさんの拠点集落があって、一般成員の集団墓とは別に王族墓があったはずだと思うが、それが見つかっている事例はわずか。後期の王墓が、例えば河内平野のどこかにあるとしても、それに当たることはかなり確率の低いものだろう。だからいないと考えるか、総合的に考えてヤマト国王はどこかに眠っているはずと考えるか、だ。
◆『纒向学研究』に書いたことを繰り返すが、なぜに多くの拠点集落が廃絶していき、畿内第Ⅴ様式土器に斉一化するのか、この最も重要な2つの現象をどう理解するか、そこに解があり、理解を出すべきだろう。わたしは、ともに強い強制力が働かなければ、生じないと思うわけです。

2023年8月4日、午後は綿業会館の見学

◆場所を移動して綿業会館。
◆8月4日には、そのあと職場に戻り、15時から会議があり、もうへろへろになりました。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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