人を幸せにする人になろう

三角縁、ついでながら

◆権現山の報告書の準備で、同笵鏡をできるだけ見てまわった。張氏作3×5は、泉屋2面、香川の奥3、磐田市の蓮福寺、だったかな。ほかにもあったかもしれないが・・・。あと、備前車塚で2面出ている、陳是作4×2だったか。これは東博の車塚2面と、あとはなんだっけ。記憶だけで書いてます。それと耕三寺博物館との同笵が新たにわかったヤツ。
◆三角縁の実測は、4人でやったが、岡山に出向き、何日かかけてやった(この時トレースまでしたかは記憶にない)。いまI県のTさんの下宿に泊まらせてもらった。さて、同笵鏡の観察に行く時、近藤義郎先生が「もってけ」と、権現山の三角縁をもって出た、と思う。こういうのも記憶がおぼろ。香川県の埋文センターにあった奥3号を見に行く時と、耕三寺博物館に行く時だったように思う。これいつの話なのかね~。M2?orD1?。いまでは考えられないことでしょう。

150年の歴史ある小学校

◆年明けの授業で、明治の学校についての3回生の発表を聞く。大阪は寺子屋が約2000あり、全国一だったそう。それはそれ。
◆本題である小学校の話。いま、あちこちで、開校150周年という横断幕を掲げている小学校を見ませんか。京都は早いが、普通は明治5年の学制からということになる。各府県に奨励していたが、おそらく進まないので国が音頭を取ったということか。開校150周年という横断幕は、依羅、堅下、寝屋川南、などで見た。これらは1872年M5開校で、五箇荘は1873M6とのこと(2023年に150周年)。2022年以来、この数年間に150周年を掲げる小学校が、各地でもっとも古い小学校ということになる。

横穴式石室をちゃんと見る

◆いま3回生の学生が、卒論で横穴式石室をやろうとしている。一緒にじっくりと石室を見て、とて もよかった。たいがい何度か来ているので、せっかくなのに真剣に向き合っていないことを自覚。今回、石室のなかで、いろんな気づきがあった。が、ちゃんとメモしていないのはダメですね。石室は図面だけながめていてもダメだ。いまなら、ひとつひとつメタシェイプを作っていくことができる。でもこれも、写真を撮ってマッチングさせることが目的になりがちか。大きめの図を用意し、観察し、記入していくという営みが大事ですね。で、ひとつひとつ純粋に石室から年代を考えてみる。標式古墳の特徴を頭に入れつつ、個別はそんなに典型例ばかりではないものを、考える、判断する、ということだ。
◆こないだ、赤坂天王山で、ひとつ気づきがあった。既にわかっていることか、報告書を見ようとするが、見当たらない。この石棺、黒漆を塗ってませんか。正面の縄掛突起の下の斜面部は、ノミで仕上げられた面がよく残り、表面に黒い皮膜がある。ほかのところでも、風化していない面には、縄掛突起の下ほどには残らないが、ほとんど雨水で流れてしまっているものの、やはり黒い部分が残るところがある。石棺は白いものと思っていたが、そうでない?

2023年2月11日、考古見学会

◆2回延期していたもの。横穴式石室ツアー。桜井駅に集合し、学生3人を乗せ、まず粟原。
◆ムネサカ1号墳。森本さんの敷地に入り、古墳に行くので通らせてくださいとお願いすればよい(かつては急斜面にはりついて上っていた)。2号墳の石室もちゃんと見る。粟原寺跡。
◆忍坂方面に戻り、越塚。以前に1度来たかもしれないが記憶がほぼない。なかなか、いい石室です。この時、場所がわからず、畑で作業をしていたご夫婦に尋ねると、おじさんが付いてきてくれました。で、そのあと天王山に行くというと、これまた原付で案内してくれました。ありがとうございます!。いつもは1号墳だけで次に行っているが、おじさんが2号墳・3号墳を案内してくれたので、はじめて。2号墳の石室を見て(天井石が見えるが埋まっていて入れない)、3号墳の石室にも入る。
◆一度、東に戻って舒明陵。背後を一周するのはやめておく。そのあと、浅古に抜けて、秋殿南古墳の石室。そこからメスリ山もと思っていたが、ひとつひとつの石室をじっくり見ているのが楽しく、ここまでで昼を過ぎているのでスルー。
◆谷首古墳の石室。安倍寺跡を横目に、文殊院西古墳。艸墓はいまは入れない。
◆そこから天理に北上し、速報展。歴史文化芸術村。この施設はなかなかよいですね。仏像の修復などをするところで、かつそれを見せる施設。道の駅も併設され、お客がわんさか集まっていて、駐車場もいっぱいでした。
◆そこからまた南下して、桜井市埋文センター。桜井市の横穴式石室のガイドブック、改訂版を購入(前のやつが見当たらず、また濡れてヨレヨレになっていた)。これで17時。ひとりを近鉄桜井駅に下ろし、あとの2人は大阪なので、河内国分まで乗せていく。途中、藤原宮中心部を横切る。電車の方が早かったですね。国分18時。
◆そのあと、カミサンが3Dプリンタをもって帰って家で作業をするというので、寝屋川へ。

2023年2月3日、和算と天王寺界隈

◆社会人を中心とする授業の担当をし、その履修生だったみなさんとのまちあるき3回目。寒い時期なの で、今回は座学をメインとし、Yさんの和算の話を聞く。そのあと、まちあるき。
◆北山不動、元禄期の医者北山壽安の墓所。浄春寺。ここには麻田剛立、その弟子(名前を忘れた・・・)、田能村竹田、医者の各務夫妻の墓。そこからまたすこし歩いていくと、陸奥宗光など陸奥家の墓所。同じ場所に、小松帯刀の墓跡(薩摩に移設)、家隆塚。愛染さん勝蔓院。清水寺の算額。安居神社(真田幸村戦没地、大丸の下村家が支えた天満宮)。解散。有志は昼飯。
◆一心寺。大坂の陣のガイダンス施設。茶臼山一帯は、冬の陣は豊臣方は籠城なので、家康の陣地となる。夏の陣では豊臣方の陣地となり、和気清麻呂がうがった堀を面して南の徳川方と対峙する。一心寺には、本多忠朝の墓所。会津藩士の墓(京都だけでなく大阪市中の警備も担っていた)。骨仏。
◆そのあと茶臼山(写真)。統国寺(ベルリンの壁がある)。解散。

2022年12月27日以後

◆雲仙南端の有馬から天草鬼池港へフェリーで渡り、天草に到達する。午後も後半なので、本渡の天草キリシタン館に。26日はここまでで、天草下田温泉で宿泊。
◆翌日、天草下島の西海岸を下り、崎津へ向かう。いろいろ資料館などがある。崎津を抜 け、その奥の天草コレジオ館へ。天正少年遣欧使節は活版印刷機を持ち帰り、いくらか印刷物を発行している。その印刷機の模型があって(写真)、職員の人に説明いただいた。本物が残っているわけではないが、持ち帰ったであろう当時のものを調べ、ドイツ?かどこかに残っているものから再現したと、この展示物を設置するまでの苦労を聞く。1990年会館なので30年以上前のこと。この施設の開館準備からかかわってきた方のようである。
◆そこから戻って崎津。これ世界遺産。道の駅に駐車し、そこのガイダンス施設を見学後、港町を歩いてまわる。重要文化的景観になっている。
◆西海岸を北に戻り、大江天主堂には立ち寄らず車でアクセス。その脇のロザリオ館には入らず、北上する。
◆下島北西の富岡城跡に登る(写真)(手前に熊本県1の発電所)。発掘調査を重ね、復元整備事業がなされている。その調査の歩みや苦労が、ふんだんに盛り込まれた苓北町歴史資料館がある。それとは別に、天草の自然を含めたビジターセンターがある。
◆あとは省略。本渡の天草市の歴史資料館。そこから天草上島に向かい、宇土半島。宇土市の図書館で向野田古墳の遺物を見る。大野窟古墳に足を延ばし、熊本泊。翌日は、また南下して八代、北上して山鹿(山鹿温泉はよいですね)。熊本城へは行けなかった。レンタカーを返して、大阪へ戻る。

とはいえ

◆卒論時にそろえた三角縁の資料カードは、その後もいろいろあり、いまはぐちゃぐちゃになっている。もはや取っておく価値はないように思う。そもそも複写が中心。いまや鏡のことをやっていないし、思い出に取っておく意味もない。5冊ほどのファイルを思い切って捨てようか、な。

ことのついで

◆1月14日の資料調査の翌日15日のメモには、もちろんメインであった京教の三角縁に関する所見のものもある。この時、京教の鏡が同笵鏡番号11と判明する。これまで3面が知られていたが「椿井」のもので4面目となった。小林行雄は、1981年の分有関係図(帝塚山の談話会資料)から(最終が1985年。椿井の図録56頁は87年とするが誤りらしい)、中部地方に出土地不明の1を加えており、5面あるらしい。このメモには、それが京教のものか、とも書いているが(中部なのにね)、福井県出土であることが判明したと追記している。どこからの情報なんでしょうね。
◆右は原稿化した『京都考古』の関係部分。足羽山の破片にふれている。この比較作業をやったわけだが、福井県というと、その時点では足羽山しかないし、見つけたとはいえない。が、書いた文章は、新たに足羽山破片の同笵関係を自分で見つけたように書き、小林の中部においた出土地不明鏡はそれとは別とするような書きぶり。実際、これら同笵関係の図を『京都考古』に出しており、6面目があるように書いている。
◆どうなんでしょうね。やはり小林が足羽山のものを同笵と認定していたのでしょうね。『足羽山の古墳』によれば、山頂古墳とは違う別の古墳らしいが実態不明。なので、古墳として特定できないから黒丸にしたのでしょうか。で、こちらは場所は特定されているから、それなら「足羽山」と書くはずだと考えたのでしょうか。当時自分がどう考えていたかはさっぱりわからん。
◆すっかり忘却しているサラの頭で考えれば、メモへの追記の「福井県出土」という情報がどういうものかわからないが、中部に置かれた黒丸が福井県なら、それはやはり足羽山とみるべきなんでしょう。『大古墳展』の目録ではそのように処理されている。また、「足羽山」のこの破片は行方不明とある。福井県のみなさま、どこかの収蔵庫に眠っていませんかね~。

山城郷土資料館の三角縁

◆定年退職にむけてというより、あと2年半で森之宮に引っ越しなので、少しずつ部屋のブツを 片付けている。京都教育大学に「椿井」出土という三角縁神獣鏡片があることを、1989年1月7日に(豊中であった埋文研の時)、高橋美久二さんに教えられ、その後実見し『京都考古』に紹介した(53号、1990年1月刊)。1月14日に京教に行っている。めっちゃ早いですね。M1には時間があるんだ。というか、高橋さんがすぐ動いてお膳立てをしてくれたのでしょう。一緒に行ったのだろうか、記憶は定かでない。この関連ファイルを片付けたという次第。
◆で、同じ日に山城郷土資料館に行っている。京教のあと資料館なんだろう。文学部博物館での三角縁の展示準備を進めている時期で、京大の外区片を、山城郷土資料館にある破片とくっつけている。ヨシクニさんは写真から接合するとみていたのでしょう。資料館側としても、4月11日から椿井展をやる京大側としても、ともに確認しておきたいことで、ヨシクニさんがセッティングしたのであろう。
◆ものの見事に接合し、両者をあわせた写真を、ヨシクニさんが資料館の写場でブローニーで撮影したことを、オボロゲに覚えている。この写真が椿井の図録に使われている。山城郷土資料館の破片は、右側に赤鉛筆で塗った部分。翌日にメモを残していますね。これらはまったくの外区片で、同笵関係はわかっていない。当時、同笵を探そうとしたのではと思うが・・・。
◆なお、1987年に井手町で外区片が採集され、都出先生のスケッチをヨシクニさんにもらっている。なんでも川の土手で拾ったという話だったような・・・。その後2011年に、ネットからダウンロードした、この破片の画像をプリントしている。プリントした時のことはまったく記憶がないが。これは特徴ある外区なので、同笵関係はわかりそうなもの。いま、2000年の『大古墳展』図録を見ると、目録番号46同笵鏡番号27の3面のうちM15に接合するらしい。
◆これら所蔵関係は固まってしまっているが、接合して、まとめられないものですかね~。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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