人を幸せにする人になろう

667年の記事は3人の埋葬でもおかしくないのでは

◆皇極は643年9月に母の吉備姫王を、梅山の東に埋葬する。自分の墓を造り始めていた可能性はあるが、それは不明。場所の選定や整地にとりかかっていた可能性はある。が、乙巳の変が生じ、孝徳期10年となる。その間、譲位した先の王の墳墓造営が進められていたかどうかは不明。一旦ストップなのか。重祚して655に再び王となる。一方、大化薄葬令で没後造墓となったとすれば、予定地は決まっていても、造墓はなされていないのかもしれない。
◆658年5月に孫の建王が死ぬ。今来に葬り、自分もそこに埋葬せよと。それが鬼の俎板とみることには慎重さが必要ではあろう。が、吉備姫王墓であ るカナヅカの東隣で、その場所に墓を営むにふさわしいのが皇極(斉明)であることは確かだろう。死んだ建王の墓の造営は必要であり、日本書紀から、自分も入る墓を営むことはありうるようにも思う。鬼の俎板は、花崗岩刳り抜き組み合わせタイプ。その底石の幅は5尺あり、薄葬令の規定を越えている。王と考えることは可能。とはいえ、斉明墓を造るとなると八角墳とみるのが自然であるが、八角墳に石槨2基をどう埋め込むんでしょうね。鬼の俎板東槨もほぼ同規模の底石で、8歳で死んだ孫には大きいようにも思うが・・・。
◆661年7月にその斉明が没する。鬼の俎板に葬る。
◆665年2月に斉明の娘の間人が没する。天智は、斉明と間人の合葬墓として牽牛子塚の造営を始める。あれがどれくらいかかってできるのか。そこそこかかるんと違いますか。で、667年2月の前に、嫁の太田皇女(天智の妻)が没し、あわせて隣に太田の別墓を造ることとする。斉明にとって血縁の孫である建王も改葬して斉明墓に入れたか。斉明と太田とは血縁はないので別墓とし、しかし建王の母であることから、その隣に塚御門を造る。で2月に埋葬する。この日に3人を埋葬(うち2人は改葬)するというのでいいように思います。間人の死没からあまり時間的経過はなく、牽牛子塚の造営に一定の年限かかっているだろうから、太田の死没にともなってもう1基隣に造営して、その完了をまって一斉に埋葬したとみることも不自然ではない。むろん、文武期の修築も考慮する必要があるが。
◆白石先生は、文武期まで岩屋山が斉明墓であって、8世紀頭に牽牛子塚を新築し移したと理解しているようだ。が、それだと陵の前に太田を葬ったという667年2月の記事と矛盾しますよね。これは、牽牛子塚古墳が、横口式石槨でも羨道なしのⅢ類とするから、年代は大きく下降する、ということになる。しかし、あの大きな閉塞石の両側には、幅広ながら一定の羨道部がのびていた、とみることができると思うわけです。

プラグイン

カレンダー

02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 5 8 9
10 12 14
18 20 21 22 23
29 30
31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索