人を幸せにする人になろう

なんとか土日をこなし

◆都市史学会の15分。17分に近くなってしまったかも知れませんが、まあ無事終了。懇親会費を支 払うも、桜井市のパワポ作りのため大学に戻る。22時までにほぼ貼り終わりました。最後の話のところ、右のような「太陽をいだく月」から王と神女の画像を頂戴し、『韓国の歴史』(教科書の日本語訳版)から、三国時代の政治と宗教の分離の話を引いてきた。
◆翌日は9時集合。8:40に桜井駅に降り立つと、箸墓のモニュメントができあがっている。そして開始は9:40にもかかわらず、同じ電車からぞろぞろと参加者が市役所方面に向かう。会場の文化会館に着くと、開場が9:00なのでしょう、列をなして待っていた。参加者は900人くらいという。まあごっついホールです。出番は午後。石野先生の記念講演を会場で聞きながら最終の手を入れ、 10時頃には終了か。50分のところ、5分程度はオーバーしたかな。
◆桜井市 のHさんや所長のTさんと親しく話ができ、とても有益でした。
◆資料で、わたし参考文献を挙げてなかったもんで、やっぱりいるだろうということで加えたため、1頁多くなり、裏に事務局の方で、発表者の年代観の違いを示す図表を入れてくれていた(下)。会場のみなさんにとってわかりやすい措置でした。まあ年代観は違うわけだが、こっちの年代観がどのような手続きで導かれているものか、それを理解してほしいので、資料になかったものもパワポには入れ、構築過程を説明したつもり。それがすべて正しいとはいわないが、論理の筋 道はわかってほしいもの。むろん、論理的には正しくとも、どこかでコケているかもしれませんが。
◆とはいえ、土器をやっているみなさんのベースは、土器型式の変化であり、1型式20年といった目安や、全体の変遷からみた(例えば第Ⅴ様式との対比を含めた)幅の感覚だろう。これに石塚の年輪年代が加わるのではあろう。が、やはり土器では年代は決まらないわけです。箸墓が布留0の真ん中として、それを1990年代の三角縁神獣鏡により250年頃に置くことが確定し、わたしはそれを立脚点にしているのですが、I先生やHさんは、そもそも箸墓が3世紀後半なんです。庄内式の年代幅の理解の前に、箸墓の年代観(布留0まんなかの年代観)が一致していないわけです。置くところが、そもそも下がった位置。
◆もし箸墓以前の布留0古+庄内式の年代幅の感覚が妥当とすると、この網掛け帯の下辺を250年にもってくると、3世紀後半とか中頃に繰り上がる。
◆で、なぜ箸墓が270年頃であったり280年頃であったり、ということが決められるのか、ということ。それはやはり中期の年代観から布留式諸型式を積んでいって、3世紀中頃までは上がらないという、いわば小林行雄のかつての積算とあまり変わらないやりかたとも感じる。布留1式の下限がいつ頃で、2式はいつ頃で、ということの参考になるような年代の定点は、土器の側にはない。晋式帯金具も類例は少ないし、大陸での幅もあるし、決め手にはならない。これもまた三角縁神獣鏡の国産開始時期を考えることで、行燈山が4世紀前葉といったおよその定点がえられるわけです。

プラグイン

カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
2 4
8 9 11
12 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索