人を幸せにする人になろう

ヒストリア河内大塚山古墳の原稿にかかる

◆『考古学研究』の根来の記事が終わり、ようやく『ヒストリア』に着手。やってて楽しいのだが・・・。構想はあるが、ゴールは見えない。どうなるかわからん。が、この54269d52.JPG際、徹底的にとは思う。
◆話は変わるが、うちの図書館もけっこういけるね。津堂のリーフレットを印刷屋に出したが、大道さんの『考古学雑誌』第2巻の文献をもっていなかったので、直前に図書館でコピーする(復刻でなく原本)。『人類学雑誌』もある、『歴史と地理』はそろわないが。で、梅原・大道・坪井の各文献をそろえられた。あるもんや、という話。で、ちらちら見ていると、巴形銅器などの写真もある。藤井利章さんが、文献をつきあわせて出土品の数量を整理していたが、そのうち自分でやらねばなるまい。素環頭大刀の写真なんかも梅原の文献に上がっていた。これらは、いま宮内庁にあるんだろうか。関大に鏡の破片が入っているし、東大には(坪井が持ち帰ったのだろうが)素環頭があるし、分散したんやろね。
◆それから、ゴーランドが河内大塚の写真を撮っていたんですね。今日初めて見た、感激でd8782444.jpgす(勝手に使わせてもらいますよ)。また末永の『日本の古墳』を見ていると、津堂城山の図版に掲載されている斜め写真とは別に、垂直写真もあるではないか。もう1枚あってステレオにはならんかな。ちょっとピンが甘いようだ。だから挿図扱いになったのかな。だが、あのまだ周囲が宅地化していない時期の、垂直写真として貴重だ。どうなんでしょうね、斜め写真のものを含めて、何枚か写真がある。かつ現在でも動いていない道路などについて測量してやって、画像に座標ポイントを入れてやれば、解析で周堤・外濠・外堤の図化ができないもんだろうか。やれんことはないんでしょうね。ま、現況の測量でも、かつての周囲を把握するのに平面的には問題ないのだが、やはり昔の写真から起こせれば、濠部分のくぼみとか、堤の高まりとか、高低差が表現できる図になるだろう。
◆河内大塚山の位置図を作ろうとして、また1m等高線をなぞったり(ちょっとやったが、やってられねえ)、いろんな情報を入れようと、かなり大変な図になってきた。墳丘の復元は前にやってあるが、これも濠の輪郭の復元もやろうと少し取りかかる(右図は訂正します)。
◆剣菱形前方部って、きっとあると思う。今城塚も直線や、と言いながらやや湾曲していたぞ。
◆いや~、やっぱり、ホントにひとつの古墳を理解しようとすると、どっぷり食いつかないと進展しないものですね。大塚山に取り組めるのは、たいへんありがたい機会だ。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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